継体天皇と隅田八幡人物鏡そして忍坂宮について                     「サイトの歩き方」も参照してください

考古学に興味のある方なら誰でも知っていることですが、和歌山県橋本市に建つ隅田八幡神社に古くから伝えられてきた一面の鏡があります。正確な出土の状況が詳しく記録されていないので、近くに在った「妻古墳」という場所から江戸時代(天保15年、1834)に発見されたものだとするのが通説です。また、この鏡は「人物鏡」として、昭和以前すでに国宝にも指定され、現在は東京国立博物館が収蔵管理している古鏡であることに間違いは無いのですが、その銘文などから遅くとも「六世紀初め」頃までには鋳造されていたと考えられるものの、鏡の本場中国大陸で生産された舶載鏡では無さそうです。では、格別の古体ではなく保存状態も決して良好とは言えない出自不詳の、只の複製鏡が国宝にまで指定されることになったのか?それは偏に銘文が記す幾つかの固有名詞そのものにあると言って良さそうです。

隅田八幡神社

先ず、その四十八文字の紹介から話しを進めましょう。簡略体の使用、そして反転文字の混入などの事情もあり、個々の文字そのものや読み方等について全てが確定している訳ではなく、未だに多くの異論もあるのですが、平成24年8月現在、

  癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

の文字列から成っていると云う解釈が最も一般的で、その内「日十大王」「男弟王」「意柴沙加宮」「斯麻」「開中費直」「穢人今州利」の六つの文言が、それぞれ鏡の作成授受にかかわった人物たちと住居に関する固有の事実を表したものだと考えられている訳です。そして冒頭部にある「癸未年」を「みずのと・ひつじのとし」と読んで、鏡が作られた年を西暦503年に、鏡の送り主を「(百済王)斯麻・しま」だとする見方が研究者の間では有力になっています。その解釈を基にすると、

  西暦503年八月 意柴沙加宮に在った男弟王の長寿を念じて [百済王]斯麻が 開中費直と穢人今州利の二人を遣わし この鏡を造らせた

と読むことも可能になる訳ですが、隅田鏡について『国宝の鏡を誰が造らせたのか』でも詳述してきたように、この鏡の造りはとても粗雑で、とても百済の王様が態々部下の二人を現地に送り込んでまで造らせた一級の贈答品と言うにはかけ離れた模造品の一つに過ぎません。また、西暦521年、中国の高祖から「使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍」の爵位を授けられた百済王朝二十五代武寧王の諱が斯摩(しま)であり、日本側資料の日本書紀・武烈紀四年是年条に、

  百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王(せまきし)を立つ。これを武寧王とす。

とあって、確かに六世紀初めに王位に付いた人物で『百済新撰』という資料によれば日本との関係も決して浅くはなかったことも分かります。従がって干支「癸未」を西暦503年に置くことにより、銘文に出てくる「斯麻(しま)」は半ば自動的に武寧王(462~523)その人だと言う解釈に落ち着く訳ですが、鏡そのものの「質」の問題は置くとして、では西暦503年当時、大和朝の大王位にあったのは誰か、そして大王の「男弟」とは誰を指しているのかという点に関心が集まります。日本国の資料としては日本書紀しかありませんから、その記述を信じる限り、当時、大和で大王を称していた人物は、第25代武烈帝(オハツセノワカサザキ、489~507)という事になります。次に「男弟」ですが、系譜を信じるなら仁賢帝(449~498)には武烈の他に男子は授かっていませんから、この「男弟」は、武烈の「姉妹の配偶者」の一人だと考える他はありません。それが継体・安閑の親子二人ということです。つまり武烈の跡を襲った継体帝の皇后が仁賢の娘・手白香皇女であり、継体の長子、安閑帝の皇后が春日山田皇女の姉妹ですから、若し既に輿入れしていたと仮定するなら、503年当時「大王」の「弟」と称することが出来るのは、この親子だけだった事になります。つまり「男弟王」を「ヲオト・ヲホド」と読むことにより、継体の諱「乎富等、袁本杼」にも合致しているとする訳です。しかし、そうすると、義理の兄にあたる武烈帝が「日十(ヒト・ヒソ)大王」その人でなければなりませんが、彼を、そのように書き記した文献はこれまでに見つかっていません。そこで、この「大王」は大和朝を治めているのではなく、別の王朝が六世紀当時大和以外の地にあったのだとする説も登場することになるのですが…、それ以前に、記紀が何れも手白香皇女を武烈の「姉」だと記録していますから、503年説をとるとしても全く別に該当者を見つける必要があります。更に、皮肉なことに武烈手白香たちの父である仁賢帝の字が「嶋郎・しまのいらつこ)であることは研究者たちの口から洩れることは殆どありませんが、武寧王の故事にもあるように「島(嶋)」という土地で幼い頃をすごした有力者の子弟に、その土地そのものの名称が与えられた例として「斯麻」は捉えるべきなのかも知れません(時代は相当下りますが、飛鳥の地で大王家をも凌ぐ勢いがあったとされる蘇我氏の棟梁馬子も嶋大臣と呼ばれました。尤も、彼の場合は自宅の池の中に趣向で島を拵えたからなのですが、嶋は洲でもあり勢力圏の意でもあるのです)。

 「名所図会」より  銘文(一部)  「開」の部分拡大  

さて、銘文には他にも人名らしい文言があります。それが「開中費直」「穢人今州利」と読まれている部分で、一般的には「斯麻」が鏡作りのために送り込んだ二人の「技師」あるいは使者のような人の名前だと解釈されており、特に前者「開中費直」は、欽明紀二年七月条と五年三月条に記述のある「加不至直」「河内直」(カフチノアタヒ)」の一族に比定され、新撰姓氏録にも記載のある「河内連」が子孫ではないかと考えられてきました。一方の「穢人」ですが、こちらは魏志の韓伝にみられる『国、鐡を出す。韓、濊、倭みな従がいて之を取る』とされた半島北東部にあった一つの民族国家に出自を持つ金属技術者ではないかと想像されます。河内直という日本式の「姓」を持つ人物が、百済の王様の支配下にあったのだろうかという疑問も去ることながら、多くの研究者たちが何の疑問も抱かず「かふち」と読んできた「開中」の「ひらく」という字そのものにも異論が存在するのです。上・右の画像を参考にしてもらうと分かりやすいのですが、若し、この文字が「開」という漢字であるのなら、当然、部首は「門構え」でなければなりません。しかし、良く見てみると「門」ではなく「止めへん」の「歸」を略した字ではないのかとも思えます。つまり「阜」の上半分に「帚」を組み合わせた文字の様にも見えるということです。若し、このような見方が出来るのであれば、ここは「開中」ではなく「歸中」という文言になりますから、到底「かふち(かわち)」とは読めない事になるでしょう。また、半島内における諸民族の消長には詳しくありませんが、濊(東濊)の不耐王が魏に降伏したのが正始六年(245)、不耐濊王の爵位を得たのが二年後の247年、更に下って高句麗と馬韓、濊、貊が帯方郡を滅ぼしたのが西暦314年の事ですから、濊という一つの民族が半島内で独自の立場を主張しえたのは三世紀から四世紀にかけての時期だと考えられます。若し、隅田鏡が六世紀の初めに作成されたものなら、その製作に関わった人物の出身地を二世紀も遡って記録するものでしょうか?また、単純に考えて百済の王様が差し向けた人材に、わざわざ「濊人」という民族名それも中華思想で見下した名前を書き残すものでしょうか?(「濊、穢」はいずれも[きたない]を意味する漢字です)

さて、残された固有の言葉は「意柴沙加宮」だけになりました。「おしさかのみや」は鏡の持ち主探しにとって意味のある場所と言えるのでしょうか?第十一代垂仁帝は四世紀の半ば頃に大王位に就いた人物だと推測されていますが、垂仁と後の皇后・日葉酢媛命との間に産まれた長子が五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)という名の皇子でした。彼は、次男の大足彦尊(オオタラシヒコ、景行帝)と共に、垂仁三十年正月、天皇から『汝等、各、情願しき物を言せ』と尋ねられた時『弓矢を得んと欲ふ』と答え、天皇から「弓矢」を賜ったとされる人物なのですが、その名前に「瓊(に=玉)」の字が含まれている事、血筋が正統な長子である事、天皇から「弓矢(軍事力)」を与えられている事、畿内において四か所もの池を築造している事(広大な領地の所有者)などを考え合わせると、最も皇太子(次の大王)の地位に近い皇子であったと思われ、垂仁紀三十九年冬十月条の、

  五十瓊敷命、茅渟の菟砥河上宮に居しまして、剱一千口を作る。因りて其の剱を名付けて、川上部と謂う。亦の名は裸伴(あかはだかとも)という。
  石上神宮に蔵む。是の後、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主らしむ
  一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は川上を召して、太刀一千口を作らしむ。この時に、楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、
  大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、太刀佩部合わせて十箇の品部をもて、五十瓊敷皇子に賜う。
  その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。しかして後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。この時、神、乞して言はく『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』
  とのたまう。因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首が始祖なり。

という記述を合わせてみると、①天皇から軍事の全権を与えられ、②武器生産と管理を掌握し、③国家の神器をも支配下に置き、④神祇に関わる品部の全てを従えたとされる五十瓊敷皇子こそ、時の大王そのものではなかったのかと思われます。垂仁・景行二人の系譜については、後から興った応神王朝との整合性を図るために大幅な修正編集が施されたと考えられますが、この五十瓊敷入彦命の場合は一人の大王を複数の皇子に分割して記録した一例ではないでしょうか?見慣れない「大穴磯部(おおあなしべ)」という名称の品部に着目すると、垂仁が都を置いた纏向玉城宮は『大和志』の云う「穴師村」であった可能性があり、このサイトで何度も紹介してきた穴師坐兵主神社と近江の兵主大社との深い関わりを前提にすれば、大和朝の初期から大王の権力源としての武器庫(宮)が「忍坂」にあり、大王に最も近しい皇子級の人物が直接監督していたことが分かります。更に、推理をもう一歩進めると、大和朝の内部には、その初期段階から金属(武器)製造に長けた一族が存在していたと思われ、その代表格が『阿蘇ピンク石と景行帝』『阿蘇ピンク石と野洲』で詳述した稲背入彦命の呼称を与えられた景行帝の皇子です。神社の伝承や記紀の記述内容から、同皇子の活躍した時代は、ほぼ四世紀後半に相当すると見られますが、景行帝の近江穴穂宮への遷都をも「先導」したとの言い伝えが某かの事実を含んでいると仮定すれば、垂仁期に五十瓊敷入彦命が担っていた役目を、系譜上、景行帝と五十河媛命の息子に位置付けられた稲背入彦命が担っていた可能性は決して低くありません。

古事記「序文」は力技で全国へ勢力圏を飛躍的に拡大した景行ではなく『境を定め邦を開きて、近淡海に制め』た成務帝を神武、崇神、仁徳に並ぶ名君として顕彰していますが、忍坂の地は都が近江に移った後も、尚、実力者たちにとって重要な拠点であり続けたようです。天日矛(日槍)来朝の記事に象徴される「新しい金匠たち」の来朝は、大王家にとっても金属関連技術の習得、向上に欠かせない好機だったはずで、稲背入彦命たちが、まるで日矛の後を追うように近江に移住したのも、最新の技術による鉱山開発という具体的な目的に沿った遷都であったのかも知れません。また、景行の全国行脚の成果を引き継いだ成務帝が古事記の編集者に褒められているのも、彼の治世が武力に頼らない平和的な手法によった事が評価されている訳ですが、恐らく、その背景には垂仁・景行・成務三代の間に他の主要な豪族たちとは明確に一線を画す、圧倒的な軍事力を大王一族が築きあげていた事実が横たわっていたに違いありません。そして、大王家にとって大きな変革の時期がやがて到来します。応神帝の誕生です。

記紀および『一、上宮記』(「釈日本紀」)などの記述から品陀和気命(ホンダワケ、応神)と息長真若中比売の間に産まれた若野毛二俣王(ワカヌケフタマタ)は、

  ① 大郎子(一名、意富富等王)、② 忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)、③ 田井之中比売、④ 田宮之中比売 、⑤ 藤原之琴節郎女、⑥ 沙禰王

など多くの子女に恵まれたようです。大正十一年に刊行された『大阪府全志』は、元々、河内の豪族であった息長氏に日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王が入り婿として入り、更には、その後、応神帝の息子・若沼毛二俣王が養子となって息長家を継いだ(『北村某の家記』)と大王家と息長一族との密接で複雑な関係を詳述していますが、応神即位を凡そ西暦400年前後とみなせば、ほぼ二世代後の大王・允恭に嫁いだ忍坂大中媛の兄弟・大郎子が443年当時、息長氏の拠点である「忍坂宮」に居た可能性があります。また大郎子の諱「意富富等(オオホド)」が「袁本杼(ヲホド)」に対応した名前であるという見方にも一理はあり、継体自身の系譜に関してもまだまだ謎が尽きないというのが本音ですが「日十大王」が誰なのか、今後とも資料を漁って調べたいと思います。


垂仁の皇子・五十瓊敷入彦命は年老いた垂仁八十七年春二月、妹の大中姫(オオナカツヒメ)に『私は、もう年だから神宝を掌ることが出来ない。お前が代わりにやって欲しい』と頼み込み体よく断られるのですが、大王家にあって「ナカツヒメ」を称する例は少なくありません。例えば上で見た息長家の子女にも「忍坂」大中姫を始め三人もの「中姫」が居ますし、応神帝の皇后で仁徳帝を産んだ女性も仲姫命(品陀真若王の娘)という名前の持ち主です。そして「悲劇」の大王・仲哀帝の伴侶も大中姫と称していたのです。恐らく、これらの「ナカツヒメ」は皆、神と人との間を取り持つ「仲つ姫」であり、神話の中で神功皇后が「神託」を聞いたように、大王に「神の意向」を伝える役割を持った「卑弥呼的な存在」だったと想像されます。古代の王たちにとって「祀り」事は大切な国家事業の一つでもありましたから、神社という明確な「形(建物)」の中で祭祀が専門的な人々によって執り行われるまでは、都の大王の私邸の一部で「ナカツヒメ」たちによって神事も行われたと想像されます。それは「斎宮」の原始的な姿と云って良いのかも知れません。

淡輪にある宇土墓古墳   西陵古墳

おまけ話をもう一つ。日本書紀や先代旧事本紀(天皇本紀)などによると、稲背入彦命の母親は「五十河媛」であり、継体帝に妃を出している茨田連の祖は「五十香彦命」という別名を持っていた様なのですが、ここに出てくる「イカ」は、物部氏の祖先「伊香色雄命」の「イカ」に通じる美称であり、また祖先神「五十猛命」の「イ」をも包含した名辞だと言えます。つまり天孫族にとってある意味神聖な名称のはずなのですが、日本書紀の孝安二十六年春二月条には、

  己丑の朔壬寅に、姪押媛を立てて皇后とす。一に云わく、磯城県主葉江が女長媛という。一に云わく、十市県主五十坂彦が女五十坂媛という。

とあります。説明を加えるまでも無く磯城県主・十市県主は大物主命・事代主命の直系子孫ですから、その名前に「五十」を冠している事は極めて不自然に映ります。本文の「姪」(古事記にも『姪、忍鹿比売命』とある)とも全く異なる「一書」は吉備氏あるいは磯城氏の伝承から採ったものだと考えられますが、孝安と押媛の長男が大吉備諸進命であり、次代の孝霊と倭国香媛の子が吉備津彦命という系譜からも吉備氏と磯城氏の深いつながりが窺えます。又、名前にこだわれば吉備津彦命の諱は「彦五十狭芹彦」(彦イサセリ)だったようですから、十市氏の娘婿に入った吉備氏の男子が居た可能性も十分あるでしょう。

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