国宝の隅田八幡人物画像鏡を創ったのは誰なのか?!      サイトの歩き方」も参照してください。

件の鏡については幾度と無くオノコロ・シリーズの各ページでも取り上げ、その都度思いつく「感想」を述べてきました。一素人がWEB等で集めることの出来る資料には当然、限りがありますが、古代史特に5〜6世紀の倭国を知る上での一級資料とされ、国が大正五年いち早く「国宝」に指定した隅田八幡宮の社宝とは一体どのようなものなのか?手持ちの材料を生かして推理の旅に出かけて見ましょう。先ず、極々、基本的な事柄から見ていく事にします。鏡の呼称については「隅田八幡人物画像鏡」が最も一般的なようですが、では「人物画像鏡」とは何なのか?山ほどもある文献の殆どが肝心の鏡の名称については何の説明も加えてはいません。専門家たちにとっては当たり前すぎる程の事柄なのかも知れませんが…。先生方の不親切を嘆いていても始まりません、自分で調べてみました。(以下「隅田鏡」と略します)

鏡には作られた時代により、また仕様図柄などにより沢山の種類(区別)がありますが、今、ここで取り上げようとしている隅田八幡宮の鏡は『神人歌舞画像鏡』という名称が付けられており、後漢(紀元前2世紀〜3世紀)後期に製造されたものだとされ、研究家たちは製作年代を「2世紀台以降」と見ているようです。この鏡の特徴は「東王父・西王母」に象徴される神仙思想(の延長線上にある不老不死の願望)を意匠によって表現したところにあるとされ、四つに区切られた「内区」には、それぞれ「琴を弾く人」「逆立ちする人」「簫を吹く人」「踊る人」などの像が両王(神)と共に描かれていることから「神人」「歌舞」画像鏡と名付けられている訳です。また現代とは違い、鏡は政府が認めた官営の製作所で専門の技術者が鋳造しており『卑弥呼が魏から貰った』のではないかとされている三角縁神獣鏡についても同じことが言えます。(言い換えれば『鏡』は、個人が勝手に作れなかった訳です)

紀伊国名所図会  古鏡  反転した文字 

つまり隅田鏡は「最も遅くても3世紀」初め頃までに大陸で作られた鏡なのです−−と言い切れれば事は簡単なのですが、実は、そうではありません。何故なら、同鏡はオリジナルでは無いからです。中世(十二世紀前半)の資料に記録があることから、この鏡が相当古くから社宝として隅田八幡に存在していたことは確かですが、その出土地も出土時期も共に不明です。では、そんな「身元不明」でかつ「レプリカ」の鏡がどうして学究の関心を集め続けているのかと言えば、この鏡を製作する「元」になったと思われる鏡が各地の古墳から出土し、鏡が我が国にもたらされた(であろう)時期の上限を推測することが可能であり、鏡に記された「銘文」に「大王」あるいは「意柴沙加」など『日本の言葉を漢字表現した』部分が認められるため、5〜6世紀の実態解明に不可欠な考古資料だと位置づけられている訳です。隅田鏡(径19.9cm)の「母鏡」ではないかとされている物の同型鏡は、

  1 大阪 郡川車塚古墳(5世紀末、円墳?)・出土鏡
  2 大阪 長持山古墳(全長40m、円墳、5世紀後半、允恭帝古墳の倍塚)・出土鏡(1号棺副葬品、ボストン美術館が収蔵か)
  3 京都 トヅカ古墳(全長20m、円墳、5世紀、径19.9cm)・出土鏡
  4 福井 西塚古墳(全長74m、方円墳、5世紀後半)・出土鏡
  5 東京 亀塚古墳(全長51m、帆立貝式方円墳、5世紀末頃,20.8cm)・出土鏡
  6 福岡 番塚古墳(全長50m、方円墳、5世紀末〜6世紀初め)・出土鏡
  7 埼玉 伝・秋山古墳群・出土鏡・拓本(径20.0cm、現物は存在していない)
  8 岡山 朱千駄古墳(全長70m、方円墳、5世紀後半)・出土鏡(現在は個人蔵)

など十面(平成21年8月現在)とされていますが、出土地不明の物を除き、いずれも「5世紀後半から6世紀初め」頃に築造された古墳から出土しており、比較的保存状態の良い京田辺市トヅカ古墳出土の鏡などには、

  尚方作竟自有紀  辟去不羊宜古市  上有東王父西王母  令君陽遂多孫子兮

の銘文が認められていますから、これらの鏡が「遅くとも5世紀中頃」までに各古墳の主の許に届けられていたものと想像できます。ただ、この推理が妥当であるとすると別な問題が浮上してきます。それは、

  3世紀初めまでに大陸の官営工場で鋳造された鏡が、何故「5世紀後半」以降に築造された古墳から出土するのか?

つまり「2世紀余りのタイムラグ」は、いくら古代人たちが鏡を宝物として、権威の象徴として子々孫々に「伝世」したのだとしても大きすぎるのではないのか、と謂う疑問です。この点に関しては、隅田鏡の例を持ち出すまでも無く、元鏡を手に入れた人物が自分の権威付けのために「模倣」し(再配布或いは贈与し)たのだとする解釈が一方にあるのですが、元鏡と模倣鏡を直接比較検証した文献は公になっていない様なので、判断を留保しておきます。ただ、多くの鏡が国内で複製された可能性は大きいと思います。前置きはここまでにして、肝心の隅田鏡の分析に移りましょう。

 銘文製作場所=画像や拓本などで確認出来ていませんが、WEB上の情報によれば、狛江亀塚鏡にも『尚方作竟自有紀 辟去羊宜』に始まる銘文があり、福岡の番塚古墳鏡も「尚方作竟」から始まる銘文が入っているようです。また銘文の冒頭にある『尚方』の二文字は天子の御物である刀剣や玉器などを造り保管する官営工場兼倉庫を意味するもので先にも述べたように鏡を私的に作ることはできなかったのです。であるなら卑弥呼が魏の帝から貰った鏡にも『右尚方』の銘文が入っている方が自然だとも考えられます。

『紀伊国名所図会』伊都郡の巻(1838年刊、上の画像参照)の中で克明な模写図と共に詳しく紹介されている隅田鏡に鋳出された銘文は余りにも有名ですが、この古鏡には「神功皇后が自ら持ち帰った」ものだという伝承があり、元鏡とは幾つかの点で異なる特徴を持っています。それが、

  @ 通常、鏡の銘文は「時計回り」に記されるが、ここでは「反時計回り」になっている(作り手に知識が無かった?)
  A 鏡は「小乳」という丸い突起により「四つの内区」に分割されるが、その区分けが不規則に歪んでいる(区分けを知らなかった?)
  B 内区には主人公の東王父・西王母と歌舞する人々が描かれるが、一部の人物が除かれている(別の図柄を入れるため)
  C 外区に描かれていた「三足鳥」「九尾狐」などの図柄が無くなっている(普通は銘を入れない部分に銘を入れたため)
  D 銘文の一部「寿(奉)遣開中費直」の六文字だけが「反転」されている(拓本をとった場合、この文字だけが正しく見える)

詳細に見てゆけば、未だ、この他にも「特徴」が見つかるかも知れませんが、上で確認できた五つの項目だけでも隅田鏡の「性質」を十分に把握することが可能です。それを一言で表現するとしたら「稚拙、杜撰」が最もふさわしいかも知れません。複製の意図がどのあたりにあったのか今となっては知りようもありませんが、手元にあった後漢鏡に「霊力」と「価値」を認めた上で、己の「威信」を示すために創ったのだとすると、余りにもお粗末な出来栄えと言わざるを得ません。「不老不死」永遠の命を司る西王母を称え、途絶えることのない子孫に恵まれる僥倖を併せて祈念した「尚方作」以下の銘文を破棄し、新たに鋳直された文言は次のようなものでした。

  癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

そこには「月」までしか無い年号(干支)と意味の良く分からない言葉が連なり、古代の人々が求めたはずの「禍や邪を避け」る存在としての、鏡本来の姿が消えています。「日十大王」「斯麻」など固有のものと思われる名前の詮索以前に、隅田鏡を創り出した人物が何を意図していたのかを推測すべきなのではないかと考えてしまいます。恐らく後漢時代以後に作られた「紀年銘」を持つ鏡を見知っていた者が「大王」たちに「献上」するために或いは自らの地位を誇るために造らせた複製品と考えるのが最も妥当だとは思うのですが、大陸国家の権威を示す「財」であった鏡という位置づけからは大きく変貌し、単なる嗜好品としての価値しか認められない鏡と言う他ありません。その「紀年銘」にしても、例えば著名な三国時代の三角縁神獣鏡でも、

  「景初三年」鏡
景初三年陳是作鏡自 有経述本是京師
  「正始元年」鏡
□始元年陳是作鏡自 有経述本自州師 杜地命出寿如金石 保子宜孫

の様に表現されており単なる「干支」の一つに過ぎない「癸未」などを紀年代わりに使用した例は寡聞にして知りません。一方、半島国家では干支の使用例が多いことから、隅田鏡にある「癸未」を「西暦503年」だとした上で、当時、外交関係があった百済の王から倭国の王族に贈られたものだという見方がありますが「西暦369年(或いは372年)」に同国から倭国に贈られた「七支刀」の銘文には、

  泰□四年十□月十六日丙午正陽造百錬□七支刀□辟百兵宜供供王□□□□作
  先世来未有此刀百済□世□奇生聖故為王旨造□□□世

の文言が見え「百済(王)」が「七支刀」を「(倭)王旨」のために「作った」ことが明記され「泰(和)四年」の年号が使用されています。また「月日」も記録され、大陸国家の強い影響下にあった百済の指導者は、贈答品を作成するにあたり国際的に通用する「年号」を用いていた事が分かります。凡そ130年も遡る時期に、これだけの名品を生み出せる文化を持っていた百済の技術水準が、数世代の後には見る影も無く消失してしまうものなのでしょうか?例え、高句麗などとの争いがあったにせよ!また、互恵の関係にあったと思われる百済の「王」が、6世紀初めの倭国の「王」を「大王」と称える事例が隅田鏡以外にもあるのかどうか?「癸未」を503年と推定する前に、確かめるべき項目が幾つもあると思います。唯、元鏡が各地の持ち主に渡された時期「5世紀半ば」頃に焦点を絞ると、あの「倭の五王」たちの存在も併せて考慮すべきなのかも知れません。

隅田鏡の「元鏡」は歌舞画像鏡か騎馬画像鏡のどちらなのか?

東京国立博物館は多くの考古資料を収蔵していますが、その中には隅田鏡の同型鏡とされる郡川車塚古墳そして狛江亀沢古墳出土の「画像鏡」も含まれています。ただ、その他の鏡については画像を直接確かめる手段がありません。肝心の隅田鏡でさえ国博の「国宝」ページですら、何故かオープンになっていませんし、大阪藤井寺の長持山出土品ではないかと推測されているボストン美術館も、問題の鏡を公開していません。「神人歌舞画像鏡」と称されてきた隅田鏡の実態に少しでも迫る方策が無いものか、知恵を絞りましょう。先ず、下左の画像を見てください。

隅田鏡の騎馬  亀沢鏡  郡川鏡   PR

「紀伊国名所図会」にある隅田鏡の模写の一部分を拡大したものですが、この図柄は明らかに「歌舞」している人物ではなく「馬に乗っている人」を表現しています。そして、真ん中・右の両画像にも同じ「騎馬」像が鋳出されています(向きは反対です)。また、少し見づらいですが亀沢の鏡には「西王(母)」と思われる文字が右上隅の部分に認められます。一方、従来は隅田鏡と「同型」だと見られていた大阪郡川出土の鏡にも「騎馬」像が認められるのですが「西王」の文字は確認出来ませんでした。これは鏡右下にある小乳の部分に亀裂・剥落がある為かも知れません。東京国立博物館は狛江亀沢鏡を「2〜3世紀の中国製」とコメントしています。小乳の位置も正確です−−という事は、これらの鏡が大陸で製造された物である可能性が高い訳ですが、この様な図柄を持つ鏡を「歌舞」画像鏡と呼ぶべきなのでしょうか?これは別の範疇に入るタイプの鏡なのではないでしょうか?今まで研究者たちが取り上げてこなかった個人像の鏡が新しい知識を与えてくれます。(・下にある三つの画像はA氏から許可を得て掲載しているものです。勝手に転載することは出来ません)

A氏蔵の鏡  同部分  騎馬画像鏡(部分)

Aさんが所有している「神人歌舞画像鏡」(径19.3cm、重さ679.5g)の出土地は明らかではありませんが、すべての「画像」が細部まで鮮明で、素人目にもA氏鏡の方が国立博物館に収められている鏡よりも「元鏡」に近い、もっと謂えば、後漢時代に作られた「原鏡」そのものではないかと思われてなりません。何より、この鏡に「騎馬」する人の図柄は入っていません。(隅田鏡は径19.9cm、重さ1,434gで、一回り大きいだけなのに重さは倍以上あります。技術的に格段に劣るため鏡自体が部厚い訳です)又、この鏡には、

  陳氏作竟自有意  多賀国家人民息  東王父西王母  山人子僑赤□

の銘文があり「東王父西王母」たち「山(仙)人」の霊力によって「人民」が息災で「国家」に「賀(目出度いこと=繁栄と永続)」が多くなる様にとの祈りが表現されています。(後漢の帝室は短命な人が多かったので長寿や子孫繁栄を願う銘文が多いという見方があります)「歌舞画像鏡」に込められた思想が「不老不死」であり「永遠の命」「国家の永続」であるとするなら「騎馬像」には異なる思いが秘められていると考えなければなりません。『神人騎馬画像鏡』(上・右画像)を生み出した大陸国家の意思がどの辺りにあったのかは、銘文が教えてくれるはずです。

  龍氏作竟大無傷  采取善同出丹楊  和以銀易清且明  刻画造守成文章  距霊辟邪除群凶  獅子天禄会聚叢  長宜子孫

作り手の願望、つまり鏡を作らせた国の思いが「辟邪除群凶」(災禍[凶]の群を排除する)の一事にあったことは明白です。であるとするなら、この鏡は後漢も最末期に製造されたものだと考えることが出来そうです。具体的には西暦184年の「黄巾の乱」あたりが一つの目安になるのではないでしょうか?この想像が許されるなら、隅田鏡の出来上がるまでの時間的推移は凡そ次のように成るでしょう。

  @ 西暦2世紀の半ば頃までに作成された神人歌舞画像鏡がもたらされる
    (『後漢書』東夷伝は、西暦107年に倭国王帥升らが「生口160人」を献じて請見を願う、とあります)
  A 神人歌舞画像鏡に続いて、神人騎馬画像鏡がもたらされる
    (同書・東夷列伝は「桓帝・霊帝の治世の間[146〜189]に倭国が大いに乱れたとし、魏書も「倭国乱相攻伐歴年」と伝えています)
  B 初め「歌舞画像鏡」を模造していたが、倭国内でも戦乱が起き、より新たな時期に持ち込まれた「騎馬画像鏡」に権力者の関心が集まり、
     従来在った「歌舞画像鏡」に「騎馬像」を取り入れる(倭国)独自の形式が発生した
     (東博にある『狛江亀沢鏡』が複製品でないとするなら、後漢鏡に「神人歌舞騎馬画像」鏡という分類を新たに加えるべきかも知れませんが、
     WEBで検索する限り、その様な名称の後漢鏡を紹介している資料は見当たりません。また、大陸や半島で同じ図柄の画像鏡が「発見」
     されているという情報にも出会うことが出来ませんでした)
  C 年月を経て、権力者から同盟者や配下に「配られる」ものであった鏡自身の性格が、臣下などから権力者に「献上される」物へと分化し、
     鏡作りの主体も広がりを見せるようになった(威信財としての鏡も存続したが、権力者だけが鏡の造り手では無くなった。
     管理人としては、T 歌舞画像鏡に「騎馬」像が取り入れられ、U 更に「私的」な銘文が加えられた−−二段階の変身を想定しています)

隅田八幡神社本殿  隅田八幡神社境内にあるレプリカ

これらの変貌が数年あるいは十数年といった短い期間に達成された可能性も残されていますが、魏志倭人伝による邪馬台国の興亡を知っている者とすれば、後漢鏡の複雑な「変身」を邪馬台国の誕生に関連付けて推理を働かせてみたいところです。「倭人伝」は言います、

  其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大無夫婿

卑弥呼の没年は三世紀半ばだと考えられています。「年已長大」な彼女の生涯そのものを、つい「歌舞画像鏡」の歴史に重ね合わせてみたくなるのですが、それはさておき、一番の問題点に立ち返りましょう。そうです「3世紀の鏡が5世紀の古墳から出土する」不思議さに解答を与えなければなりません。丹後国一の宮・籠神社が宝物として秘蔵してきた息津鏡(後漢鏡,径17.5cm)と辺津鏡(前漢鏡,径9.5cm)の例を持ち出すまでもなく、鏡そのものに何がしかの「価値」を認める人々の間で鏡が「伝世」されてきたのは事実です。また、アマテラスの岩戸隠れ、天孫降臨神話などの中で鏡作連の祖・石凝姥命(伊斯許理度売命)が重要な役割を果たし、大和国内の狭い地域に四つもの鏡作神社が存在している事実は古代ヤマト政権が、鏡そのものを権威の象徴として意識し、信仰の対象としていたことを証明しています。卑弥呼が認めた鏡の霊力と、ヤマト指導層が懐いた思いが全く同質だったとは言い切れませんが、少なくとも鏡自身の持つ「力」を勢力拡大と維持に利用したのだとするなら、大陸から伝来した「霊験あらたかな鏡」を自分達の手で複製し続けることこそ「子々孫々」に亘る自家繁栄の基盤と捉えていたと言えるのではないでしょうか!つまり「本物は手元に置」きながら、複製品を幾つも作り続けた結果、伝世鏡と複製鏡さらには模造鏡が「共存」することになったのだと思うのです。5世紀半ば、地方の実力者或いはヤマト政権を支える豪族たちに分配された鏡は、既に、その時点で「騎馬」像が付加され質的に変化していました。隅田鏡は、後世、更に人為的な細工を加えられたと思われます。尚、上で見てきたように「学問的」には『騎馬』像のある「歌舞画像鏡」がお手本として存在していたという見解の様です。隅田鏡は、それを「複製」したと言う訳です。さて、どちらの見方が正しいのでしょうね?


今回、オマケの話はありません。その代わりと言ってはナニですが、隅田鏡に関する「誤情報」についてのお知らせを一つ。ネットで検索していると、隅田鏡の「同型鏡」が神戸市垂水にある五色塚古墳から出土している、という記事に遭遇します。ご丁寧なことに「銘文」の内容まで記載されているのですが、これは明らかに間違いです。神戸市教育委員会・文化財課で直接確かめましたから、皆さんもご承知おきください。それにしても、何処から、こんな「話」が生まれるのか不思議でなりません。

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