雙六から野球盤ゲームまでを考える                     「サイトの歩き方」も参照してください。

昭和という時代は六十三年余り続きましたが、そのほぼ中間点である昭和三十二年(1957)末時点において、我が国のテレビ受信機普及率はたった29%に過ぎませんでした。勿論、その当時のテレビはモノクロ(白黒)画面で、ビデオ録画装置も無かったため、全ての番組は生放送でした。戦後生まれの子供たちが学齢期を迎えたのが丁度昭和三十年前後の数年間に当たる訳ですが、面子やビー玉そして鬼ごっこなどの外遊びと同様に、寒い冬の時期、雙六(双六)は家の中で家族或いは子供たち同士で楽しむ遊戯として人気があったものです。小学生を対象とした雑誌もいくつか出版され、一月号の付録として絵双六のセットは歌カルタと並んで不可欠の要素だったように記憶しています(今でもそうですが、一月号は暮れの十二月に発売されますから、学期末テストの点数よりも雑誌の付録がとても気になりました)。その雙六の原型は「盤雙六」と呼ばれる対局型のゲームで、聖武天皇の愛用品「木画紫檀双局」が正倉院に収めてあることは歴史の時間に学んだ方も多いことでしょう。それとは全く異なる「絵双六」が、何時、どのようにして生まれたのかについては定説が無いようですが、江戸期に出版された『還魂紙料(すきかえし)』(柳亭種彦編)という書物には、中国の陞官図の一種である「選仏図」に由来するものかも知れないと種彦自身が示唆しています。それは仏教界において、仏の教義などを分かりやすく「絵」で示した様々な仏像図があり、そこから派生した「浄土」雙六が一般に普及した雙六の原点ではないかという訳です。双六も初めはお坊さんたちに修行の行程を示す一里塚の役目を果たす図絵だったと言えそうです、それはさておき。

仏像雙六  浄土雙六

道中雙六  おかげ参りの風景 

昭和33年、子供たちをあっと言わせた遊戯盤が発売されると、一気に全国に広がりました、E社の「野球盤」です。年配の方なら昭和40年代の半ばには、人気漫画の主人公が苦心の末に編み出した「消える魔球」版が売り出された事を覚えているかも知れませんね。数十センチ四方のゲーム盤の内側で「守備」側の選手たちがそれぞれの位置に立ち、スコアボードの裏側から「攻撃」側が鉄製のボールをばね仕掛けの「投球」機で投げ込むだけという至極単純なゲーム盤だったのですが、多くの子供たちは贔屓チームの監督や選手になったつもりで熱中したものです。双六も「一対一」で対局することは可能ですが、新たに登場したゲーム盤は簡単に「攻守」を変えて対決することが出来る室内遊戯であり、なおかつ「機器を自ら操作した」(盤の下に磁石が着けてあるので変化球も投げられる)」気分も味わえるとあって、子供たちの遊び心に強く訴えるものがあったのだと思います。

双六とは直接関係はありませんが、江戸期には浮世絵版画では「富岳三十六景」「東海道五十三次」などの名所図が人々の評判を得、同時に「東海道中膝栗毛」に代表される道中案内を兼ねた読本もベストセラーになりました。また各地の見どころを満載した「何々名所図会」は、自宅にいながら自由に日本国中の旅が楽しめる必携として大いにもてはやされたと聞きます。他方、十八世紀に入ると庶民の間で「伊勢参り(おかげ参り)」のブームが起き、途轍もなく大きな熱気を帯びた大洪水のようなうねりは明治まで持続しましたが、その背後には神宮への参詣を企画誘導した御師たちの存在があったにせよ、江戸期を通じて人々の心の内に蓄積された「未知への憧れ」が「遠くへの旅立ち」を強く促す動機となったのかも知れません。幕末を目前にした文政十三年(1830)には、全人口の凡そ13パーセント以上、四百万人を超える参詣者が陸続と伊勢を目指したとも伝えられていますから、当時の熱狂ぶりはただ事ではありません。さてさて、貴方は何処への旅がお望みですか?

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