推古天皇は料理上手な人であったのか「炊屋」について                  「サイトの歩き方」も参照してください

古事記の末尾を飾るのは大和政権初の女性大王として知られる推古帝(554〜628)その人である。言うまでも無く継体王朝の跡取り・欽明帝と大臣蘇我馬子の娘・堅塩媛との間に産まれた大王蘇我両家を象徴する当代きっての高貴なお姫様なのですが、その方の和風諡号を「豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ)」と申し上げます。「豊」は、美称だと仮定すると「御食(ミケ)」は「神饌」そして「炊屋(カシキヤ)」は「台所」の謂いだと考えられますから、この大王の尊号は「豊かな神への供物」を常に絶やさぬよう「国の台所」を見守っておられる女王さま、とでも言う意味に解釈することが出来るでしょうか。彼女が即位した七世紀初め頃に、アマテラス大神に配する豊受大神という概念が明確になっていたのかどうか分かりませんが、神に供物を捧げる役割を持った女性は、ヤマト王権が始まる前から存在していたことが明らかです。それは記紀及び先代旧事本記のいずれもが、神武に先駆けてヤマト入りしていた物部の祖・ニギハヤヒが土地の実力者長髄彦の妹・御炊屋媛(亦名、長髄媛)を娶りウマシマチを儲けたと伝えているからです。また、古事記はニギハヤヒが妻としたのは登美毘古の妹・登美夜毘売だったとも記していますから、彼の妻だった女性は現在、等彌神社が建てられている辺りを支配していた「登美=富=トミ」一族のお姫様だった可能性が十分あります。

ところで御炊屋媛つまり一族の祖先神に「命の糧」を捧げて大切にお祀りする役目を負った女性は、長髄媛(登美夜毘売)に象徴されるヤマト先住族のクニだけに存在していた訳ではありません。例えばニギハヤヒと同族ではないかと考えられるアマテラスの子・天津彦根命には、

  天津彦根命−−天目一箇命(天御影命)−−意冨伊賀都命−−彦伊賀津命−−阿目夷沙比止命−−川枯彦命−−坂戸彦命−−国忍富命

という系譜が伝えられていますが、この『東国諸国造系譜』(下の画像参照)と呼ばれる書き物によれば、彦伊賀津命の娘・苅多祁比売が中臣氏の祖先、宇佐津彦命の妻となって御食津臣命を産み、その兄弟である阿目夷沙比止命の娘の御食津媛命が更に中臣氏の御食津彦命に嫁いで同氏の基礎を築いたことになっています。神に仕える中臣氏は、これだけでは未だ不十分だと感じていたのか三代下った国忍富命の代においても、その姉妹の一人・冨炊屋媛命を梨迹臣命の妻に迎えていますから、神祇に携わる中臣氏にとって天津彦根命の血脈を受け継ぐ媛たちとの婚姻が古代においては特別視されていたと考えられます。(別の記事でも詳細に述べましたが、この天津彦根命の一族は草創期の物部氏とも何代にも亘って通婚を重ね、物部連家の祖先たちを儲けています。また、国忍富命という神様は近江にある御上神社の神職、三上祝の祖先でもありますから、古代の祭祀に関わる主な氏族がこぞって天津彦根命という神格に根源を求めている訳です)この「神様の最も近くに居る」或いは「神様と共に食事をする」巫覡的な女性が、魏志倭人伝の言う「鬼道」を事とする邪馬台国女王・卑弥呼のような存在に進化?したのか判断に苦しむところですが、神の言葉(意志)を代弁する女性は崇神帝に頼まれて世の禍の元を占い、三輪のオオモノヌシの妻でもあった倭迹迹日百襲媛や伝説的な神功皇后に典型を見ることが可能ですから、神聖な神への供物を調理する炊屋に籠り、神の言葉を聞いては大王に伝える役目を帯びた女性が、大王一族の身内に代々引き継がれていったと思われます。良く知られている伊勢神宮の斎宮なども、炊屋媛の伝統から生まれたのかも知れません。

推古陵  炊屋媛の系譜  「久等宿祢」と菴智造

このような巫女的王女が神意を窺い大王たちの政治、政策に神様の意向が反映されるという在り方が古代王朝の底流をなしていましたが、神祇が政(まつりごと)の中枢を占めるに連れ炊屋媛に与えられた仕事にも変化が見られるように成ります。この辺りの事情を反映した記事が日本書紀垂仁三十九年、八十七年の各条に見ることが出来ます。五十敷瓊入彦命は垂仁三十九年冬十月に「剣一千口」を作り忍坂邑に蔵めた後、石上神宮に収めて神宝を主(つかさど)りますが、一書は『この時に、神、乞して言う、春日臣の族、名は市河をして治めしめよ、とのたまう』と伝え、続く八十七年二月条には、

  五十瓊敷命、妹、大中姫命に謂りて曰く「我は老いたり。神宝を掌ること能ず。今より後は、必ず汝主れ」という。
  大中姫命、辞びて申さく「吾は手弱女なり、何ぞ能く天神庫に登らん」と申す。(中略)
  而して遂に大中姫命、物部十千根大連に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまでに石上の神宝を治むるは、是、その縁なり。

とあって垂仁帝の昔から「物部」氏が石上神宮の「神宝」を「神の乞」いにより主ってきたのだと主張しています。ここに出てきている「大中姫命」という王女は垂仁と日葉酢媛命との間に産まれた娘の一人ですが、その名前は「神と人を取り持つ王女」という意味の普通名詞に他なりませんから、物部氏の正統性を補強するために案出された炊屋媛像の一つと考えた方が良いのかも知れません。また、物部十千根という人物は物部氏を代表する伊香色雄命の息子ですから、天津彦根命の血脈を引き継いでいることは言うまでもありません。崇神朝を大和政権の画期、出発点だとするなら、炊屋媛に代わって王権の極早い時期から、神様をお祀りする専門的な職制を負った一族が居たということになりそうです。それはさておき、諡号は没後に贈られるものですから、推古帝自身が炊屋媛という名辞に込められた特別な存在をどのように理解していたか今となっては憶測するしかありませんが、少なくとも古代祭祀に関わる中心的な氏族がこぞって天津彦根命に格別な神性を認めていたことだけは明らかです。その理由は、天津彦根命・天目一箇命(天御影命)親子こそが、今我々が「オオクニヌシ」として理解している出雲神そのものの核を成しているからに他ならないと筆者は確信しているのですが、中臣氏から出て権力の全てを掌握するまでに台頭した藤原氏が、日本書紀成立の直前(養老二年,718)「勅命を拝して御上神社の社殿を造営した」との言い伝えが残り、中臣氏の故地に建つ恩智神社の祭神が大御食津彦・大御食津媛の二神であることが何より天津彦根命に連なる御炊屋媛、御食津媛の神威の希少性を現わしている様に思えます。

恩智神社   PR

そして、推古帝と天津彦根命との深いつながりを窺わせる材料がもう一つ別にあるのです、それが彼女の諱(いみな、額田部=ぬかたべ)そのものです。蘇我氏という当時右に出る者のない強大な実家がありながら、何故「額田部」を名乗る一族に大事な愛娘の養育を任せたのかとても不思議だったのですが、炊屋媛の出自を調べてみて少しは理解できるような気がしています。この「額田部」「額田」氏には幾つかの流れがあり、その主なものとして、

  額田部氏=天戸間見命の後裔    額田部連=意富伊賀都命の後裔    額田部湯坐連=天御影命の後裔    額田臣=伊香我色雄の後裔

などの各氏族が系譜を伝えていますが「天戸間見命」「天御影命」がいずれも天津彦根命の息子・天目一箇命の別名に過ぎず「伊香我色雄」も又、同族「物部」の始祖という存在であることを勘案すれば、世に言う「額田部」氏とは天津彦根命一族の別称に他ならないことが明らかです。また推古の母・堅塩媛の立場から見れば小姑のような位置にあったのが宣化帝の妃・凡河内稚子媛ですから、凡河内国造家を通じて「額田部」家を紹介されたとも考えられます(凡河内氏の祖は彦伊賀都命の弟・彦己曽根命。蘇我氏の棟梁・稲目を初めて大臣に登用したのが宣化帝でした。蘇我氏は欽明にもう一人の娘・小姉君を嫁がせていますが、その子弟も実家では育てず「穴穂部」「長谷部」などの氏族に任せています。こちらの理由は未だ不明です。しかし、蘇我氏の娘を母親に持つ子供たちが何れも『名代』を管理していた氏族の元で養われたと見られる事実は、同氏が只の新興貴族ではなかった証のように思われます。つい何代か前に渡来した新参者がいきなり大臣に取り立てられることなど有り得ません)

額田部連の出自について「日本書紀」は、神代紀上、第七段、第三の一書の中で『次に天津彦根命、これ茨城国造、額田部連等が遠祖なり』と明言していますが「播磨風土記」は次のような不思議な伝承を記録しています。それが、

  意此川、品太の天皇のみ世、出雲の御影の大神、枚方の里の神尾山に坐して、常に行く人を遮へ、半ば死に、半ばは生きけり。
  その時、伯耆の人小保弖・因幡の布久漏・出雲の都伎也の三人相憂いて、朝廷に申しき。ここに、額田部連久等等を遣りて、祷ましめたまいき。

というもので、播磨の枚方という土地で「道行く人を遮」って困らせる「出雲の御影の大神」を鎮めるために都から派遣された人物が、額田部連久等等だったと分かりますが、実は先に見た『東国諸国造系譜』には続きがあり、そこには、

  国忍富命−−筑箪命−−忍凝見命−−建許呂命−−筑波使主命−−久等足祢−−美呂浪足尼(弟・己呂毛)

の名前が書き連ねられています。そして国忍富命からみて五代孫にあたる「久等足祢(くとすくね)」が出雲御影大神を奉斎した本人だと考えられるのです。更に「新撰姓氏録」には允恭帝に「馬」を献上した功により姓を賜ったとする額田部湯坐連と額田部河田連の由緒書が見られる様に、天津彦根命を祖と仰ぐ一族には優秀な馬飼を従えた家柄の者も在りました。推古十六年秋八月三日、遣隋使・小野妹子の帰国時に随行した裴世清の一行が筑紫からの長旅を終えて都に入ります。この時、飾騎七十五頭を従えて、大唐(随)の客人たちを海石榴市の巷に迎え、禮の辞を述べた役人が額田部連比羅夫でした。その飾騎(かざりうま)たちを育てた人々が継体帝に大和政権を構成していた豪族たちの詳細な情報をもたらした河内馬飼首の縁者であったかどうかまでは明らかではありませんが、推古帝の周辺には古代から連綿と受け継がれた「神々との交感」を至高の権威とする雰囲気が満ち、女帝自身もまた不可侵の巫覡的役割を政に不可欠な要素だと理解していたのではないかと思われるのです。料理を得意とされたかどうかまでは分かりませんが…。

オマケ話と言えるほどの事でもありませんが、東国諸国造の系譜に見えている珍しい姓について少し触れておきます。上で見てきた額田部連の祖・久等宿祢には三人の男子がありましたが、その内の一人次男と思われる人物の名前が「己呂毛」といい、系譜上「高市県主、菴知(あんち)造の祖」だと記されています(上右の画像参照)。この「菴知」を名乗る氏族は、古事記が「天の安河の誓約」の段で、

  天津日子根命は、凡河内国造、額田部湯坐連、茨木国造、倭田中直、山代国造、馬来田国造(中略)倭菴知造、高市県主、周防国造、蒲生稲寸らが祖なり

と述べている氏族と見られます。一方、物部の「先代旧事本紀」の天皇本紀、景行帝条によれば、

  日向襲津彦命、奄智君の祖(日本書紀では阿牟君)    豊門別命は三嶋水間君、奄智首、粟首、筑紫火別君らの祖

とあって、何れも景行帝の九州遠征に関連した氏族であるかのように伝えられています。このサイトでは以前、兵主神社と稲背入彦命という皇子を主人公にした記事を掲載し、そこで景行帝の系譜が改変された可能性について指摘しましたが「新撰姓氏録」左京神別に『奄智造、額田部湯坐連と同祖』大和国神別にも『奄智造、天津彦根命十四世孫、建凝命の後なり、三枝部連と同祖』とあることなどから見て、景行帝あるいはヤマトタケル皇子の九州遠征に随伴して功績のあった物部氏族が幾つもあり、後世、各豪族が自家の系譜を編んだ折に、天津彦根命の子孫・建凝呂命(国忍富命の三世孫・建許呂命)を祖神として仰いだ可能性は十分ありそうです。「造」「君」そして「首」はそれぞれ異なる姓ですが、今見てきた「菴知」「奄智」を一族同族と仮定し豊門別命に注目すると、日本書紀の次の記述が気になります。

  次妃、襲武媛、国乳別皇子と国背別皇子と豊戸別皇子とを生めり。その兄、国乳別皇子は、これ水沼別の始祖なり。弟、豊戸別皇子は、これ火国別の始祖なり。

景行紀四年春二月条にある一文は、景行の「八十の子」のうち豊戸別皇子が「火国別の祖」つまり肥の国を治める長になったと主張している訳ですが、これを先の天皇本紀にあった「筑紫火別君の祖」「豊門別命」と同一人であると見なせるなら、奄智一族は火(肥)国に所縁の深い古代氏族であった可能性が高くなります。更に、多氏などの系図上では豊門別命は「筑紫大分国造」の祖であって神武帝の子・神八井耳命の四世孫・健緒組命の後裔という位置づけになっています。管理人としては、阿蘇ピンク石を畿内に持ち込んだ人物の特定に、この推論が役立たないか思案しているのですが、さて、どうなりますやらご期待ください。

推古の諱などについて気になる点が幾つか残っていますので付け足しておきます。まず「額田」「額田部」についてですが、物部にとっては始祖に相当する天津彦根命を神話の「天若日子」に比定する説があります。筆者も、出雲神オオクニヌシは天津彦根命・天目一箇命そして天日鷲命親子を象徴化したものではないかと考える一人なのですが、若し、この「天津日子根命=天若日子」という仮説が成り立つのなら、女帝の諡号に含まれる「炊屋姫」も含めて悪意ある意図が透けて見えます。先ず、国譲り神話に於いて「天若日子」は反逆者として高木神の「返し矢」で死亡しているのに加え、日本書紀は応神帝の息子・額田大中彦皇子が『倭の屯田と屯倉を掌握しようとし』て仁徳帝の勘気に触れたと記し、その弟も反逆を企てたと伝えています。(古事記は弟・大山守命の話のみを伝える)そして和風諡号に含まれていた「炊屋姫」は言うまでも無く神武帝の大和入りに対抗して最後まで戦う姿勢を変えなかった長髄彦、つまり反逆者の妹=最も近しい身内だったのですから、これも謀反人というイメージに覆われています。入鹿の従兄弟で乙巳の変でも功のあった蘇我倉山田石川麻呂(?〜649)の「謀反」に連座して死罪となった者の一人に額田部湯坐連が居たことも併せて推理すると、日本書紀の編集者が蘇我氏を大悪人に仕立て上げる過程で、女帝の名誉をなるべく貶めようと画策した疑いが極めて濃厚になったと言えます。天武帝の妃で、あの有名な『茜さす』の一首で知られる美女の名が額田女王であったことも何事かを示唆しているように思えてしまいます。まだ大海人皇子であった天武が、近江朝に対抗して東国で兵を興そうとした時、真っ先に知らせた先が美濃国安八磨郡の湯沐令多臣品治であり、和名抄に見える郷名に「額田」が在ることも決して偶然ではなかったのです。この詔を受けた豪族の一人、村国連男依の後裔が自らの支配地だった美濃国各務郡に村国神社を創建していますが、その主祭神の一柱が石凝姥命ですから、鏡作連との同族関係も窺えます。終わりにもうひとつだけ、久等宿根の兄弟の子弟に「努賀毘古、努賀毘刀vとあり「ぬかひこ」「ぬかひめ」と読めます。名代の管理者だと思われますが、親の名前が「鏑子」ですから武具、金属がらみの命名とも考えられます。

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