垂仁天皇の后妃たちと息長氏の血脈について                         「サイトの歩き方」も参照してください。

『沙本の方から暴雨零り来たる』異様な夢を見た垂仁帝は、皇后の狭穂姫に『これは何かの祥なのだろうか』と何気なく尋ねたのだが、兄の狭穂彦と政権の転覆を画策していた彼女は、陰謀を隠し切れないと判断して全てを夫に告白します。『吾は、殆(ほとほと)に欺かえつるかも(私は、危うく騙される処だった)』咄嗟に討伐を決意した垂仁は素早く軍を興して佐穂彦の稲城を攻めたてます。兄と生死を共にする決意の皇后は、その城に逃げ込み、何と、その城の中で男の子を出産したのです。帝は何とかして妻児を助けだしたいと考えて選りすぐりの力士(ちからびと)に任務を命じますが、皇子の救出には成功したものの、姫は尚「火の稲城」に留まって垂仁に最期の呼びかけを行います。

  旦波比古多多須美智宇斯王(丹波道主王)の女、名は兄比売、弟比売、この二柱の女王、清き公民なり。故、使いたまうべし。

彼女が自ら「本牟智和気(ホムチワケ)」と名付けた皇子の養育を異母姉妹の二人に任せて欲しいと訴えている訳ですが、丹波道主王と丹波の河上の摩須郎女との間に産まれた子女(の数)については記紀間だけでなく記自体にも齟齬(伝承の相違、混乱)がそこここに見受けられます。因みに古事記を中心に一覧で示してみると以下のようになります。

 1 開  化  記    比婆須比売命   真砥野比売命   弟比売命   朝廷別命(三川の穂別の祖)   三姉妹と皇子一人 
 2 垂  仁  記   氷羽州比売命    沼羽田之入毘売命   阿邪美能伊理毘売命(稲背入彦命の妻)    三姉妹
 3 狭穂彦の段   旦波比古多多須美智宇斯王(丹波道主王)の女、名は兄比売、弟比売、この二柱の女王、清き公民なり。   二姉妹
 4 円野媛の段   比婆須比売命(後の皇后)   弟比売命   歌凝比売命   円野比売命   四姉妹
 5 垂仁紀15年    日葉酢媛   渟葉田瓊入媛   真砥野媛   薊瓊入媛   竹野媛   五姉妹

つまり古事記が開化記の中で初めに「三姉妹と一人の皇子」だとしながら、狭穂彦・狭穂姫の反乱の場面では「二人の姉妹」と表現し、その直後の「円野媛の段」では「四人の姉妹」だったと言っている事になります(「二人」を返したので残ったのが二柱というなら、本編とも言うべき垂仁記の『三姉妹』とも合致しません)。また「五人姉妹」だと主張する日本書紀が「形姿が醜」かった竹野媛だけを「本土」に送り帰したと記録していますが、記は「比婆須比売命と弟比売命の二柱」を宮中に留めて「二柱の弟王」を本つ土(くに)に送り帰したのだとも書き記しています。更に、些細な点に拘れば、表で示した姫たちの中で名前が一貫して出ているのは「ヒバスヒメ」唯一人であることも分かります。つまり、書紀が多くの子弟を産んだとする三人の妹たちの名前は、関連する全ての記述で必ずしも共通している訳では無いのです。つまり「先の皇后」が炎の中で産み落とした本牟智和気(書紀は誉津別命とする)の呼称が一定していないのと同様に、垂仁妃と子女の系譜には加筆潤色の跡が明確に見て取れるのです。この帝の配偶者(正妻)は、どういう訳か二人とも早世していますが、日葉酢媛の妹たちが居たお蔭で?多くの子孫を後世に残すことが出来ました。出雲の大神の「御心」により、言葉を封じ込められていた過去を持つ「最初の皇子(ホムツワケ)」の後日談や、極めて有能な殖産興業の技術で国土を開発した「二番目の皇子(イニシキイリヒコ)」後裔の消息も伝えない記紀の記した、丹波道主王の娘たちの系図を表にすると、次のようになります。

 妃の名前 皇子・王女たちの名前     
 氷羽州比売命
 (日葉酢媛)
 古事記
日本書紀
 印色入日子命
 五十瓊敷入彦命 
 大帯日子淤斯呂和気命
 大足彦尊(景行天皇)
 大中津日子命(吉備石无別の祖) 
 大中姫命
 倭比売命
 倭姫命(伊勢の斎宮) 
 若木入日子命  
 稚城瓊入彦命
 沼羽田之入毘売命
 (渟葉田瓊入媛)
 古事記
日本書紀
 沼帯別命
 鐸石別命
 伊賀帯日子命(イカタラシヒコ)
 膽香足姫命
 鐸石別命は稲城壬生公、和気朝臣、山辺公などの祖(新撰姓氏録より)
 (和気氏の祖の一人が戦功により吉備磐梨の地に封ぜられたとする)
 阿邪美能伊理比売命 
 (薊瓊入媛)
 古事記
日本書紀
 伊許婆夜和気命 
 池(息)速別命
 阿邪美都比売命(稲瀬彦王の妻) 
 稚浅津姫命
 書紀が四姉妹の一人とする真砥野媛は子を儲けていないとされているが、
 先代旧事本紀は同媛が磐撞別命と稲別命を生んだと伝えている。

黒と赤の太字で示した部分は、記紀の間で大きな相違がある子女の名前です。一見して分かる通り二つの資料の伝えた内容が一方では皇子、他方では皇女に成っています。古事記が「吉備の石无別の祖」「春日の山君の祖」であるとする二人については、その後裔氏族が明らかなので、問題は無さそうにも思えるのですが「伊賀帯日子(イカタラシヒコ)」の名称に注目すると、また別な見方が浮上してきます。それは、垂仁帝と天津彦根命の子孫である山代(山背)氏の娘たちとの間にも、ほぼ同様の名を持った皇子が誕生しているからに他なりません。少し煩雑になってしまいますが、垂仁記などから帝のもう一つの系譜を再現してみます。(「大中姫」=オオナカツヒメは固有名詞ではなく、四人姉妹の二番目の娘という古代の呼び名だそうです。従って、書紀の編集者には作為があったと見て差し支えなさそうです)

   苅羽田刀辨(書紀では山背の苅幡戸辺)  弟苅羽刀辨(書紀では山背大国の不遅の娘・綺戸辺)
 古事記  落別王 五十日帯日子王(春日の山君らの祖) 伊登志別王   石衝別王(三尾の君の祖) 石衝毘売命(亦名、布多遅能伊理毘売命。倭建命の后)
 日本書紀  祖別王 五十日足彦命(石田君の始祖) 膽武別命  磐衝別命(三尾君の始祖) [註]三尾氏は継体の母親を出したとされる地方豪族]
 [註]先代旧事本紀は、薊瓊入媛が池速別命、五十速石別命、五十日足彦命の母親だとし、 渟葉田瓊入媛が鐸石別命、胆香足姫命を生んだと伝えている

略系図  垂仁陵  三上氏系譜

上にある二つの表の対比分析から、古事記が「吉備の石无(イワナシ)の祖」であると注を付けている皇后所生の大中津日子命と、渟葉田瓊入媛が産んだ「和気朝臣らの祖」鐸石別命が同一人物であることは明らかです。従って「瓊」の一字を冠してはいるものの渟葉田瓊入媛の実在性は薄いと思われるのです。筆者の編み出した「瓊・玉・渟理論」から、皇后ヒバスヒメが大足彦尊(景行天皇=五十瓊敷入彦と同一か)を産んだ可能性はほぼゼロに近くなりますが、鐸石別命の実母が同妃で無いのであれば、同じ所生とされる伊賀帯日子命の母親も別人だったと考えるしかありません。同じ理由から山代氏の苅幡戸辺という女性の存在も疑われますから、この表で照会した五人の后妃のうちで実際に垂仁が妻としていたのは阿邪美能伊理比売命(薊瓊入媛)と弟苅羽刀辨(綺戸辺)の二人だけだったのではないかという推論が導き出されます。では、何故このような系譜の大幅な造作が行われたのか?又、誰によって行われたのか?という疑問が当然生じますが、一つ目の理由は応神帝を仲哀帝の「子」に位置付け、加えて一族の祖先を出来るだけ皇統に近付けるためであり、二つ目の理由は、後に応神の跡を継ぐ者として帝位に就いた継体帝一族の系譜を再び加筆する目的で、帝紀などに潤色加工が施されたのだと推測されます。また「倭建命」の妻になった布多遅能伊理毘売命(フタジノイリヒメ)の別名を「石衝毘売命(イワツクヒメ)」としている点も注目されます。(あたかも三尾氏の祖になった「石衝別王」の配偶者でもあるかのような名付け方は不審と言えるのですが…、それはさておき、石衝別王と倭建命は義理の兄弟だと言っていることに成る訳です)。更に想像を逞しくすれば「綺戸辺(カムハタトベ)」の分身と思われる「苅幡戸辺(カリハタトベ)」の産んだ「五十日帯日子王(イカタラシヒコ)」は『新撰姓氏録』が右京皇別に掲げる「讃岐公=大足彦忍代別天皇 皇子 五十香足彦命 [亦名、神櫛別命]之後也」の「五十香足彦命」とも同じ人物だと仮定出来るのなら、一人の王族が幾つもの名前で垂仁・景行の系譜に書き加えられた証になると考えられます(この讃岐公は、後に讃岐朝臣更には和気朝臣を賜姓されています)姓氏録は讃岐公に続いて羽咋公についても『磐衝別命の後、亦名、神櫛別命なり』とも記載してますので「イカタラシヒコ=イワツクワケ=カミクシミコト」の等式が成り立つことになります。

 磐衝別命の系譜=伊久牟尼利比古王(垂仁)−−イワツクワケ−−イハチワケ−−イハコリワケ−−マカワケ(中略)−−振媛(継体帝の母親。『上宮記』逸文より 

次に、系譜の編集が何故、垂仁帝(と景行帝)の子女に集中したのかについてですが、これは帝の娘婿が稲瀬毘古王(稲背入彦命)その人であり、彼が応神王朝の基を築きあげた人物だったからに他なりません。詳しい資料の分析内容はサイト内の各ページを読んで頂くとして、結論的に述べれば「稲背入彦命」が垂仁・景行の時代に鍛冶金属加工などの新技術(を有した集団)を用いて大和朝内部で重きを為し、彼の子供であるホムツワケが遂には甥たちをも駆逐して帝位に就いたと想像されるのです。記紀は景行が最晩年に行った遷都について詳しく語りませんが、その目的の一つが新たな鉱山資源の開発にあったとしても、その時点で既に稲背入彦命の深慮遠謀が発揮されていたと見ることも出来そうです。書紀は上で見てきた「神櫛別王(記は神櫛王とする)」について景行四年条の中で、

  次の妃、五十河姫(イカヒメ)は神櫛皇子、稲背入彦皇子を生めり。その兄、神櫛皇子はこれ讃岐国造の始祖なり。弟、稲背入彦皇子はこれ播磨別の始祖なり。

と述べて「二人が兄弟」だと主張していますが、その点を除けば二人が極めて近しい親族であったことは間違い無さそうですから、姓氏録が伝えた「五十香足彦命(イカタラシヒコ)=神櫛別王=神櫛王」の妻が「五十河姫(イカヒメ)」だった可能性が高くなるでしょう。最後になりましたが謎の多い彦坐王との関係にも触れておきます。彼の最初の妻が山代之荏名津媛であり、二人の間に産まれた大俣王の息子・曙立王(アケタツオウ)が、垂仁の皇子・ホムツワケの介添え人として出雲大神の社へ参詣したことは何度か取り上げてきましたが、彦坐王には天津彦根命の子「天御影命の娘」だと云う息長水仍比売命も嫁いでおり、その子孫が「丹波道主王−−日葉酢媛命−−五十瓊敷入彦命(景行?)」ラインを形成しています。現在伝わる三上氏の系図には確かに「息長水仍比売命」の名前が記されてはいますが、それは天御影命の娘としてではなく、ずっと時代が下った国忍富命の子の位置づけです。従って、彦坐王が娶った山代氏の娘は一人だけであり、その本名が「荏名津媛」だったと思われます。「阿蘇ピンク石と茨田勝」のページで詳しく解説していますが、

  茨田連(九州・彦八井耳の後)−−茨田勝(景行皇子、息長彦人大兄瑞城の後)−−豊門別命・豊戸別(奄智・火別君・火国別の祖)−−茨田連(讃岐、櫛角別命の後)

の連環の中心に居る「彦人大兄」こそが稲背入彦命その人であって、彼が所謂、息長系の大王を実現する基を確立したのだと言えます。茨田氏は珍しい姓を持った豪族ですが、上記の様な「景行天皇皇子 息長彦人大兄瑞城命之後也」を称する者の他にも諸流がありますが、いずれも息長氏から出た大王家を経済、技術の両面で支えた頼りがいのある親族だったと考えられます。

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