崇神大王と紀の国、日置氏が伝えるホムツワケ伝承                     「サイトの歩き方」も参照してください

「常陸風土記」が珍しい地名伝説を記録しています。時は、正にハツクニシラス崇神大王の頃、四世紀前半でしょうか。筑波の郡に云います(下右の画像)。

  古老のいえらく、筑波の縣は古、紀の国と謂いき。
  美万貴の天皇のみ世、采女臣の友属(ともがら)、筑箪命を紀の国の国造に遣わしき。時に、筑箪命いいしく、
  「我が名をば国に着けて、後の代に流伝えしめんと思う」と言いて、すなわち、本の号を改めて、更に筑波と称うと言えり。

有名な「富士と筑波」の起源説話とも言うべき「祖神」の宿交渉譚の直前に置かれた言い伝えなのですが、勿論、筑箪命が「紀の国造」に任命されたという記事は国造本紀にもありませんし、筑波国造に阿閇色命(筑箪命の孫)が任じられたのは、ずっと下った成務朝のことです。筑波の「古老」の言は、かつて未だ国の名前が定められていなかった頃、筑波の縣一帯は「城塞」の意味を含めて「城(き)の国」と呼ばれていた事情を述べたものではないかと考えられています。その後、筑箪命に因んで国名も「つくば」に変わったのだと言う訳なのですが、確かに崇神帝と紀の国は深い縁で結ばれています。何より、東国と濃厚な関係を持つ豊城入彦命(豊木入日子、毛野氏の始祖)を産んだ、妃の遠津年魚眼眼妙姫は木国造(古事記)の荒河戸畔の娘でした。また、スサノオ大神の子である五十猛神が「多くの樹種」を持ち込み「凡て大八州国の内に蒔き」全国を青山に成した話が書記神代上の段で紹介されていますが、同神が紀伊国に鎮座する大神であることから、緑の多い土地柄である筑波の国造も、天孫である天津彦根命の後裔を称えていますので、祖神にあやかった名前の由来を是非とも風土記の冒頭で語りたかったのかも知れません。

また、さり気なく書かれた「采女臣の友属」という文言から、読み手は筑箪命の一族も又、物部の流れを汲む天孫氏族なのだと言う情報を得ることができます。更に「先代旧事本紀」などが伝える様々な系譜を参考にすると、崇神妃を出した荒河戸畔の娘である中日女という女性が物部の大新河命に嫁いで多くの子孫を残したことになっています。垂仁朝に活躍したとされる大新河命の母親は天津彦根命の血脈を受けた山代国造長溝の娘ですから、この崇神垂仁の時代王家と物部が極めて親密な関係にあったことを窺わせ、古代の帝室が如何に祭祀を重く見ていたかも分かります(中日女の「中(なか)」は神々と人との間を取り持つ巫女的存在を表す言葉だと見られ、山代氏は物部宗家に代々娘を輿入れさせている三上氏と同族です。崇神七年にオオタタネコが大物主を祀るべきだとする「同じ夢を見た」一人とされている倭迹速神浅茅原目妙姫を、通説は一様に倭迹迹日百襲姫の別名であると片づけていますが、彼女は第八代孝霊帝の娘であって崇神の時代とは到底時間的に同期しません。恐らく欠史八代と呼ばれる間にも存在していたはずの王家等の系譜に、後世大幅な改編が施されたのだと思われますが、荒河戸畔の娘に纏わる伝承が基になった可能性があると考えられます。初期ヤマト王朝を語る場合でも中日女を取り上げる文章は多く有りませんが、荒河家を通じて崇神と大新河命は義理の兄弟になった訳ですから、二人の配偶者が王家の祭祀面で影響力を持たなかったと考える方が困難でしょう)

瑞籠宮の跡地  常陸風土記より  天津彦根命の系譜

各地の風土記には正史の記紀が語らない(語れない)独自の情報が含まれていることが、儘、あります。オノコロ・シリーズで度々登場している垂仁帝の長子、誉津別王(品牟都和気命、ホムツワケ)に関する伝承では、彼が言葉を中々話すことが出来なかったのは「出雲の大神の祟り」だったと古事記などが記しているのに対し「尾張国風土記」(逸文)は、全く異なる内容を詳しく伝えています。

  丹羽の郡、吾縵(あづら)の郷。巻向の玉城の宮に御宇しめしし天皇のみ世、品津別の皇子、生七歳になりて語いたまわず、あまねく群臣に問はすれども
  能言さざりき。その後、皇后(狭穂姫)の夢に、神ありて告りたまいしく「吾は多具の国の神、名を阿麻乃彌加都比女という。吾、未だ祝を得ず。
  若し吾がために祝人を宛てば、皇子能言い、また、これ、み寿考からん」とのりたまいき。

そこで垂仁帝が、誰に祀らせれば良いか占うと「日置部等の祖、建岡の君」が吉とでたので、早速彼を美濃の国の花鹿山(現在の揖斐郡?)に赴かせ、榊の枝を捩って「縵(かづら)」に作り、手厚く呪術を施し、その縵が落ちた所に神がおられることを確かめ、その地に社を建てて日女神を祀ったと言うのです(阿豆良神社か?)。そこには「祟る大神」などは存在しておらず、何より「炎の中で兄・狭穂彦と共に焼死した」はずの狭穂姫自身が生きて霊夢を見ていることになっているのです。「多具の国」と呼ばれたのは今の島根県松江市鹿島町辺りだと研究家が比定していますが、出雲系の神様が物語の核になっている「神話の構図」自体には変わりないようです。自らを祀って欲しいと皇后に直接要求した女神は「出雲風土記」(秋鹿郡、伊農の郷)にも登場する天甕津日女命(アメノミカツヒメ)で系譜上、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(阿遅須枳高日子命の別名とする)の后神であるようですが、その神名に含まれている「ミカ(御食、ミケ?)」から類推すると、その父親は紀伊の櫛御食野神(熊野大神)ではないかとも想像され、古代における紀伊と出雲との地縁の濃さを感じさせます(宍道湖を挟み湖の南岸近くには熊野神社が建立されており滑稽な亀太夫神事でも知られています。)

ところで、余り取り上げられる機会も少なく周知されてはいませんが「大切な跡取りが言葉を話さずに苦労した」という昔話はホムツワケの専売特許という訳ではなく、実は、出雲神の直系であるアジスキタカヒコネ自身についても同種の伝承が記録されているのです。出雲風土記は、仁多郡三沢の郷の項で次のように語っています。

  大神大穴持命の御子、阿遅須枳高日子命、御須鬚八握に生ふるまで、夜昼哭きまして、み辞通わざりき
  その時、御祖の命、御子を船に乗せて、八十嶋を率いて巡りてうらがし給えども、なお、哭きやみまさざりき。
  大神、夢に願ぎ給いしく「御子の哭く由を告らせ」と夢に願ぎませば、その夜、御子み辞通うと夢見ましき。即ち、覚めて問い給えば、その時「三沢」と申したまいき。
  その時「何処を然言う」と問い給えば、やがて、御祖の前を立ち去り出まして、石川を渡り、坂の上に至り留まり「ここぞ」と申し給いき。

尾張風土記  難波田使首系譜  熊野那智大社

「出雲風土記」神門郷の項   PR

地名伝承の一種には違いないのですが「子供の哭き続ける理由」や「言葉が不自由な理由」について全く「答え」が示されていない、極めて不完全な物語と言わざるを得ません。恐らく、地域に伝わっていた古言の肝心な部分が欠落したのだと思われますが、神門郡高岸の郷にも阿遅須枳高日子命が「甚く夜昼哭」いたと云う話が伝わっていたようですから、風土記の世界では同神の逸話が広く知られていたのかも知れません。良く泣く神様と言えば直ぐスサノオを連想してしまいますが、それはさておき尾張風土記に話を戻します。ホムツワケの言葉の問題を解決するため曙立王という王子が活躍し、鳥取氏の祖先も鵠を捕まえて帝室に献上した手柄の故、姓を賜った詳細については白鳥伝説を読んで頂くとして、記事の推論の核心は『神々が直系子孫によって祀られる事を望む』ものであるという点でした。その仮説に従うなら、ホムツワケと天甕津日女命の「伝承」を風土記に書き留めさせた日置氏もまた鳥取氏と同様、天津彦根命−−天日鷲翔矢命(少彦名命)の子孫でなければなりません。「新撰姓氏録」によれば和泉国の未定雑姓の項に入っている日置部が「天櫛玉命の男、天櫛耳命の後」を称しています。史学者太田亮の「姓氏家系大辞典」によれば、

  神皇産霊尊−−天神玉命−−天櫛玉命−−鴨建角見命−−建玉依彦命−−剱根命    

とつなげる「賀茂県主系図」の存在が早くから知られてきましたが、ここに掲げられた神々はそれぞれ「天神玉命=アマテラス」「天櫛玉命=アマツヒコネ」の別名を伝えたものだと分かり、鴨建角見命(八咫烏)という神様こそが今回の主役である天日鷲翔矢命に他なりません(難波田使首が伝える系図にも明らか。上の画像参照)。従がって日置氏が祀るべき女神の正体が熊野の大神(スサノオ?)の娘ではないかとする筆者の想像も強ち間違ってはいないでしょう。祀りの原点は何より直系子孫に依らなければならないからです。王朝の基を盤石なものにするため菟砥の河上宮で「裸伴」とも呼ばれる剱一千口を拵え忍坂邑(おしさかのへき)に収蔵したと伝えられる五十瓊敷入彦命は、その功により大王から「十箇の品部」を下賜されましたが、記憶力の良い読者の皆さんは、その中にも「日置部」が含まれていたことを覚えているでしょう。大王の分身とも考えられる皇子に「日置部」が与えられたという伝承は、日置が王家の祭祀等にとって欠かせない存在であったことを窺わせます。時代は六世紀まで下りますが、出雲風土記には志紀嶋の宮に御宇しめしし天皇(欽明)のみ世、日置の伴部らが「遣わされ来て、宿停まりて政為し所なり」(神門郡、日置の郷)という記事も残されていますから、王朝内で早くから管理部門を担っていた可能性があります。その具体的な業務が何であったのか諸家の意見は様々ですが、物部の祖神の一柱に「手置帆負(たおきほおい)」という神様が居たことを参考にすると、やはり何事かを「計算して記録する」実務を与えられていた人々ではなかったかという思いを強くします。今なら差し詰め上級国家公務員といったところでしょうか。

今回取り上げた日置氏は、自らの祖神を天孫族の一員ではないかと思われる女神に求めた訳ですが、新撰姓氏録は「日置」を名乗る氏族を他にも幾つか記録しています。その代表格が左京諸蕃に区分された日置造です。また大和国諸蕃(高麗)の項には、日置造と「同じ祖」を持つ鳥井宿禰、栄井宿禰、吉井宿禰そして「許呂(コロ)使主」を祖とする日置倉人の各氏が記録されています。「井(井戸?)」の一字を共通した姓を名乗った三氏は以前、大阪の坐摩神社を紹介した折にも触れた、帝室祭祀の原点とも関わる「生井、福井,綱長井」を含んだ坐摩五神とのつながりを念頭に置いた主張を自らの姓に込めたのではないかと推測されます。奈良朝で順調に官僚社会を生き抜いた日置蓑麻呂(704〜?)は、天平宝字六年外従五位下の位にあって丹波守に任じられますが、翌々八年「栄井宿禰」に改姓、経師を勤めた後図書頭、東宮学士などを歴任し、延暦元年には陰陽頭(正五位下)を拝命しています。単なる学者というよりは、天文、数学などにも長じた才能の持ち主だったように感じます。また、無姓の日置倉人は大変珍しい名前の祖神を挙げていますが、筑波国造になった阿閇色命の別名を「安倍色呂(アベシコロ)命」と言い、彼の兄は「建許呂命(タケコロ)」と云う名前の持ち主でした。恐らく倉人は「クロ(コロ)人」であり、金属鉱物の生産加工に従事していた可能性がありそうです。ここまで書き進みながら漠然とした懸念が脳裏をよぎります。それは、日置の「言い伝え」自体がヤマト王朝の誕生間もない頃の出来事として記録されているにも関わらず「今来」の諸蕃の諸家が、恰も四世紀に実在した氏族と同列(同族)に扱われている部分です。七世紀に来朝したという「伊利之」と「伊利須使主」は全くの別人であることは明白なのですから。

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