崇神天皇は何故「短命」と言われたか?垂仁との確執は!             「サイトの歩き方」も参照してください。

第十代崇神帝の治世に関して古事記は『ここに天の下太く平らぎ、人民富み栄えき。是に初めて男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女の手末(たなすえ)の調を貢らしめたまいき。故、その御世を称えて、初国知らしし御真木天皇と謂う。また其の御世に、依網池を作り、また軽の酒折池を作りき。天皇の御歳、壹百陸拾捌歳。戊寅の年の十二月に崩りましき。御陵は山辺の道の勾の岡の上に在り』と、最大級とまでは行きませんが「良い大王だった」と評価しているのですが、日本書紀に掲載された一つの別伝は、大変辛口の批判を含んだものでした。書紀も崇神紀十二年秋七月条において確かに『家給ぎ人足りて、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す』と称えてはいるのですが、垂仁紀二十五年三月条の神祇に関わる個所で「一書」を採り上げ次の様に記しています。

  一に云わく。天皇、倭姫命をもて御杖(みつえ)として、天照大神に奉りたまう。ここを以て、倭姫命、天照大神を以て、磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祀る。
  而して後に、神の誨のままに、丁巳の年の冬十月の甲子を取りて、伊勢国の渡遇宮に遷しまつる。この時、倭大神、穂積臣の遠祖大水口宿祢に著りたまいて、誨えて曰く、
  「太初の時に、期りて曰く『天照大神は、ことごとくに天原を治さん。皇御孫尊は、専に葦原中国の八十魂神を治さん。我は親ら大地官を治さん』とのたまう。言既に訖りぬ。
  然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまうといえども、微細しくは未だ其の源を探りたまわずして、粗に枝葉に留めたまえり。故、その天皇の命短し
  是を以て、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭いまつりたまわば、汝尊の寿命延長く、また天下泰平がん」とのたまう。(註・倭姫命は垂仁と日葉酢姫の娘)

穂積氏は物部氏の嫡流とも言うべき存在で、大水口宿祢自身の母方は近江の三上氏出身(天津彦根命後裔)ですから謂わば祭祀の専門家といっても良い家系の当主です。その彼の「口」を借りて倭大神が先帝の業績を明確に批判したうえで『神祇の本質を正しく理解せずに祭祀を行ったから短命だった』と「息子」の伝記の中で述べている訳です。多くの論者が崇神帝を大和初期王朝の開祖であると考え、その王家が「崇神−−垂仁−−景行」と血脈が途絶えることなく続いたとする立場を取っていますが、偉大な創業者が苦心の末「初めて」行った天神地祇の祀り事の「瑕疵」について論い、尚且つ父親が「短命」だったのも祭祀を「祖に(おろそかに)」した報いであると、二代目の事績紹介の途中でわざわざ取り上げ文章化しているのは少々腑に落ちません。それは、時代を経た仲哀帝の伝記にも次のような記述があることを私たちは知っているからです。それは熊襲の反乱鎮圧のため九州に遠征した大王たちの前に顕れた「神」が、

  若し能く吾を祭りたまわば、かつて刃に血らずして、その国必ず自ずから服(まつろいしたが)いなん。また、熊襲も為服いなん。

と神がかりした神功皇后の口を借りて託宣を下したのですが、天皇は「神の言葉を聞いたものの、疑いの情」を抱き次のような本心をつい言葉として出してしまいました。

  朕、周望すに、海のみ有りて国無し。あに、大虚(おおぞら)に国有らめや。誰ぞの神ぞ徒に朕を誘(あざむ)くや。
  また、我が皇祖諸天皇等、ことごとくに神祇を祭りたまう。あに、遺れる神有さんや。

仲哀にすれば、見渡す限りの海原しか見えず、どこにも「国(国土、領土)」らしきものは影も形もありません。ましてや彼には「我が皇祖」を始めとした「ことごとくの神祇」を正しく祀ってきたという自負もあり、安易に領土や反乱軍の降伏を保証する神の声に素朴な疑念を抱いたに違いありません。ところが、この天皇の呟きを聞いた神は自らが「誹謗」されたと怒り出し「熊襲にも勝てない」「私が見て教えた国も得ることは出来ない」「国は皇后のお腹の中に居る子(応神)が得る」と言い放ったのです。仲哀紀九年春二月条に云います。『癸卯の朔丁未に、天皇、たちまちに痛身みたまうこと有りて、明日に、崩りましぬ。時に年五十二。即ち知りぬ、神の言を用いたまわずして、早く崩りましぬることを』解説を加えるまでもなく、書紀の編集者は明らかに神の言葉を信じなかったことを以って仲哀を批難しており、その背景には王統が息長系に移り、或る種の「易姓」革命が発生していた事情があったと思われるのです。この「先の帝は不徳だったので」今の大王が位を継いだのだという「論理」は、継体帝が登場する前段にも明確に現れます。それが武烈帝の「悪行」の数々でした。男大迹天皇と呼ばれた継体が「誉田天皇(応神)五世の孫」であると記紀が伝えているのは周知の通りです。更に書紀は男大迹の母・振媛が「活目天皇(垂仁)の七世の孫」とも記録しています。果たして崇神から垂仁への日嗣は円滑に進められたのでしょうか?

瑞籬宮跡の碑  檜原神社 PR

垂仁帝は記紀が多彩な伝承を採録しており、その実在自体を疑う史家も限られているようですが、不透明な部分が少ない訳でもありません。その筆頭にあげられる事柄が皇后狭穂姫との間に生まれた誉津別命(ホムツワケ)の存在ですが、彼は生まれつき言葉が不自由で、古事記は『出雲大神の祟り』だと記しています。神々の「祟り」とは必ず其の原因となる出来事が当事者の間で起きていなければならない性質のものですが、垂仁が初めの皇后を娶り皇子が産まれるまでに何か出雲大神を怒らせるような事を為したという記述は見当たりません。しかし崇神紀六十年条には、大王が『武日照命が天より将ち来った神宝が出雲大神の宮に蔵められているらしい。見たいものだ』と言いだし神宝を献上させたとあり、兄弟の間で「相撃つ」お家騒動を起こした出雲臣の当主振根は朝廷が派遣した吉備津彦と武渟河別の軍隊によって粛清されてしまいます。ところが垂仁二十六年秋八月になって、再び出雲の国の神宝を「検校」するための勅使物部十千根大連が派遣され、彼が神宝を「掌る」ことになったと書紀は伝えます(十千根の母親・玉手姫も天津彦根命の子孫、山代国造長溝の娘です)。出雲に服従を強く求めた大王は一体誰だったのか?その答えも書紀の文言から導き出されます。

崇神紀六十年の神宝献上譚には続きがあり、振根が大和勢力によって亡き者にされた後、朝廷との対立を大変「畏れた」出雲臣たちは出雲大神を祭る事さえ控える様になります。ところが丹波の氷上の人で氷香戸辺(ひかとべ)という人物が『私に幼い子供が居ますが、その子が盛んに出雲の鏡が水底に沈んだままで誰にも崇められずにいる。そのような出雲の底宝御宝を放置しておくことは大変恐れ多いことだと申しております。是は若しかして小児の言ではなく、神が託いて言わせているのかも知れません』と皇太子活目尊に言上します。神宝を差し出させたのは崇神帝なのに、この戸辺は何故「皇太子」に神の言葉を伝えようとしたのでしょうか?神の言葉は祭政の最高責任者にこそ伝えるべき性格のものであることを思えば、出雲神宝「事件」を惹起したのが崇神ではなく垂仁帝であったと判断できます。そして、だからこそ出雲大神の祟りが息子の異変となって表面化したのでしょう。書紀は誉津別命の一件を単なる白鳥伝説のようにしか触れていませんが、古事記は「本牟智和気王」の物語として一つの段を設けて皇子たちの出雲参拝の模様を詳細に伝えています。二つの資料の温度差は、勿論、編集の主体が抱いた関心度の差ということになりますが、古事記では大王家の核となった息長一族と共に、日子坐王並びに垂仁帝と深く結びついていた天津彦根命の子孫(山代氏)たちの意向が重視されたのだと考えられます。

 本牟智和気王(古事記)皇子は「八拳鬚」が胸の前に伸びるほどの年になっても言葉を発することが無かった。或る日、空高く飛ぶ鵠を見て片言を喋ったので、その鳥を捕えて皇子に献上したが、それ以上物をいう事はなかった。患いている天皇の夢枕に出雲の大神が現れ『我が宮を天皇の御舎の如くに修理すれば皇子は話すことが出来る』と告げた。垂仁は日子坐王の孫である曙立王(あけたつのみこ)兄弟を介添え人として皇子を出雲に行かせ大神を拝ませると、立派に話をすることが出来るようになった。天津彦根命の後裔、山代之荏名津姫(亦の名、苅幡戸辨[カリハタトベ])と日子坐王との子・大俣王が曙立王の父母であり、彼は品遅部君の祖とされています。

ホムツワケ王子の特異な出生譚そして出雲の大神による「祟り」と神との和解、それを実現した祀り事の第一人者としての曙立王家の存在など、古事記が王子に与えている特別な待遇(特記)は、この物言わぬ皇子こそ「未来の偉大な大王」であり、垂仁帝は崇神に匹敵するほどの「始祖王」的な存在なのだという意味合いが込められたものだと考えられます。また冒頭で見た書紀の「神祇への理解不足のため短命だった」という文言も、垂仁が「新たな王朝の基礎を築いた大王」の一人であったことを認めた記述だと思われ、王子の介添え役として重要な役目を果たした曙立王に『倭者師木登美豊朝倉』という他に類を見ない称号が与えられ、垂仁皇后の祖母息長水依姫が「天之御影神の娘」に位置付けられているのも、ホムツワケの地位を殊更高めるためのものだったと想像できます。(蛇足になりますが、氷香戸辺の故郷である丹波地方は垂仁の後の皇后とされる日葉酢姫(氷羽須比売)の父・丹波道主王が治める地であることは言うまでもありません)

ここで再び初めに記した「崇神の間違い」について話を戻します。五年六年と続いた「治め難い事態」に苦慮した大王は神祇をひたすら祀る日々を積み重ねた末、天照大神と倭大国魂の二柱を宮殿内で一緒に並祭ること自体が「安からず」と判断して、皇祖天照大神を娘の豊鍬入姫命(母親は紀伊国、荒河戸畔の娘)に託して倭の笠縫邑に祭ることにしたのです。現在の檜原神社が「元伊勢」を称し、その論社のひとつであることは良く知られていますが、若し、そうだとするなら極めて不自然な移動と言わざるを得ません。何故なら「天神」であるアマテラスは「都の南郊」の地に祀るべき存在なのですから、崇神の磯城瑞籬宮の「南方」に社は造らねばならないはずです。地図を見れば直ぐ分かる事ですが、神社は宮跡とされる志貴御県坐神社(桜井市金屋)のほぼ真北に位置しているのです。繰り返しになりますが、崇神の母親は祭祀の頂点を占めていた物部一族の謂わば宗女とも言うべき伊香色謎命(イカガシコメ)その先代孝元帝の妻もまた物部の女でした。そのような家族環境の中で育った大王が、祭祀の根幹の部分で致命的なミスを犯すことはどうしても考えにくいのです。であれば、この書紀の記述そのものを疑うべきなのかも知れません(彼のために一言弁護しておくと、崇神以前のヤマト三輪に於いて、元伊勢と呼ばれた地に天神を祀る一族があり、記紀の編集者が『天神』という存在をアマテラス以外に考えられなかった為、このような混乱を招いた可能性があります。また、後世、息長系統の大王の出自を飾るため垂仁帝を始祖王並に扱う必要が生じ、その前の大王の「誤り」を敢えて盛り込むことになったとも言えるでしょう)。次回は「笠縫」そのものの実体に迫りたいと思います。また、崇神の名前を手掛かりに、所謂「欠史八代」の実像を探りたいと考えています。

檜原神社は元伊勢を称している。 笠縫の天神社

 天神について=後世に菅原道真という人が出たために、現代に住む人たちにとっての「天神さん」と言えば、菅公を指す場合が多いようですが『神祇令』天神地祇条の義解には、「天神者、伊勢、山城鴨、住吉、出雲国造斎神等類是也。地祇者、大神、大倭、葛木鴨、出雲大汝神等類是也。」とあって平安時代の都人にとっての「天神」は、正に名前の通り「天孫の守り神」たちであった訳です。ここで注目されるのが「出雲国造が斎く神」という文言で、これは明らかに出雲大神を指しています。つまり神祇を扱う人たちにとって出雲大神と出雲大汝神は異なる神だという認識があり、今、オオクニヌシに象徴されている国譲り神話の主役と出雲国造が斎祀った神(スサノオ)は峻別されていた訳です。アマテラスの弟の坐を与えられた素戔嗚は言うまでも無く天津彦根命の祖神であり出雲国造家も同族だったのです。
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