少彦名命と後裔たちが作り上げた大和朝廷                   「サイトの歩き方」も参照してください。

応神天皇が実力で勝ち得た大王の位は、幾つかの紆余曲折を経て息子の仁徳帝に受け継がれ、更に孫の世代へと繋がって行きますが、履中・反正帝の跡を継ぐべき存在であった允恭天皇は一風変わった諱(いみな)の持ち主でした。それが雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごすくね)というもので、二人の同母兄弟とも諱には最も一般的な「別=ワケ」が含まれているのに対し、帝室の男子としては大変珍しい「宿禰=スクネ」という呼称が用いられているのです。また、この大王は生来、病弱でもあったらしく、臣下の豪族たちの度重なる要請にもかかわらず中々帝位に登ろうとはせず拒み続け、最終的には妻の強い進言によって大王位に就くことを了承した経緯がありました。先ず、その諱にある「朝津間」ですが、彼の母親・磐之媛という女性は葛城襲津彦の娘ですから、旧葛上郡にある「朝妻(嬬)」の地名を冠したものだったと考えられます。つまり「朝妻で育てられた皇子」という意味だと言えそうなのですが、その地は葛木御歳神社と高鴨神社をむすんだ線上に在って、御所市條で発見された中西遺跡(弥生時代前期の水田跡、およそ二万平方メートル)とも近いことから、葛城一族が早くから開発に努めた穀倉地帯を背景にして、神々が最も古くから鎮座としていた地域の中心だったことを窺わせます。

夫である雄朝津間稚子宿禰の即位を誰よりも熱心に懇請した皇后の名を忍坂大中姫命と言いますが、彼女の父親は「品陀天皇の皇子」稚渟毛二俣皇子で、応神帝に最も近しい息長氏の本宗家と目される家柄に生まれた女性であり、允恭紀二年の条に載せられている闘鶏(つげ)国造との「因縁話」は古代史の中でも異彩を放っています。娘時代、家の前を通りかかった闘鶏国造が、馬に乗ったまま垣根越しに覗きこみ、

  あんたに畑がちゃんとつくれるのかい、お嬢さん(「能く圃を作るや、汝」)。ところで、そこに生えているアララギを一本くれないか?(「いで、戸母、その蘭一茎」)

と嘲りを籠めた口調で、ぞんざいに語りかけた出来事を極めて不快に覚えた忍坂大中姫命は、自らが皇后となった折『昔の罪を責めて』死罪にしようとした処、当人が「額を地に搶けて」謝罪し命乞いしたので、姓(かばね)を稲置に貶めるだけに留めた、というお話しなのですが、他国の者ならいざ知らず大和の都祁で生活していた地方の実力者が、大王家と最も親しい息長氏一族の「家」を知らないはずがありませんから、これは「良くできた」皇后伝説の一つだと言えそうです、それはさておき。JR北陸本線の坂田駅から西におよそ二qほど離れた琵琶湖北東岸に朝妻神社(米原市朝妻筑摩)が鎮座しています。その一帯は古代人によって朝妻湊が整備され、琵琶湖の水運を最大限に利用した日本海側と内陸大和を結ぶ物資の中継基地として大いに賑わった土地柄で、社の祭神も天孫族の太祖スサノオであることから、旧坂田郡を拠点としていた息長氏が祭祀を掌っていたのではないかと推測されます。葛城の山麓と近江坂田で同じ名称の土地が存在している背景には、やはり製鉄や鍛冶を得意とした息長氏と葛城鴨氏そして帝室の三者が奥深い処でつながっていた(いずれもがスサノオを祖神に持つ)天孫族だった事情が潜んでいるようです。神武天皇を初代とする帝室は記紀神話などにより皇祖アマテラスの後裔であると喧伝されてきましたが、筆者の系譜研究で得た知識から言えば、その実体は皆スサノオ神の子孫であり、天忍穂耳命と「兄弟」である天津彦根命の子供たち(天目一箇命=天御影命、天日鷲翔矢命=少彦名命)の子孫が物部氏を始めとする多くの古代有力豪族家を形成していたのです。そして、より重要な観点は、天津彦根命の子孫の中でも少彦名命の系統に属する氏族が古代の帝室にとって最も信頼される存在であり、天目一箇命一族は常に少彦名命の流れを汲む氏族との「対照的な低い(或いは否定的な)評価」で語り継がれてきたという処にあると言えます。同じ祖先を持つ二つの支族が記紀などでどのように扱われているのか?分かりやすく表にまとめました。

 天津彦根命と天目一箇命の後裔たち  天日鷲翔矢命(少彦名命)の後裔たち
 天若日子(天津彦根命の別名)は高天原から葦原中国へ遣わされたにもかかわらず、
 オオクニヌシの娘と結ばれ、使命を果たさず返し矢に斃れた。
 布津主神と武甕槌神の二神でも服従させられなかった香香背男(天若日子の別名)
 を倭文神、建葉槌命(天日鷲翔矢命の子)が遣わされ、服従させた。 
 神武帝の大和入りに際し、ニギハヤヒの義兄である長脛彦が敵対し激しく抵抗した。  神武帝の軍勢を八咫烏(少彦名命の別名)が郷導者となって大和まで案内した。
 允恭帝の皇后に無礼を働いた闘鶏(都祁)国造は姓を稲置に貶められた。  鳥取(造)連はホムツワケ皇子に出雲で捕えた白鳥を献上し天皇が大変喜ばれた。
 安閑帝の勅使に対して凡河内直は嘘をつき自らの良田を献上することが無かった。  三島縣主(少彦名の子孫)は安閑帝に対し、四か所に及ぶ良田を喜んで献上した。

葛木御歳神社  高鴨神社  一言主神社

記紀神話の根幹は「皇祖アマテラス直系の子孫が唯一正統な存在である」と云う一点に在りますが、オオクニヌシの「国譲り」の前段において既に「天若日子(実体は天津彦根命でアマテラスの三男)の反乱」という出来事が発生していたのだとすれば、その理論は初めから破綻しています。事実が果たしてどうであったのか、もう今となっては確かめようもありませんが、天孫族の「東のクニへの移住」は「神武東征」以前から天津彦根命と近親者たちによって行われ、日本海ルートを採った一団が銅鐸を祭器とした文化圏を作り上げていた出雲に勢力圏を拡大する「前」に、天津彦根命自身は同族の手によって葬られていたのかも知れません。神武とヤマトに君臨したニギハヤヒとの対立、そして義兄ナガスネヒコの排除という筋書きは「国譲り」神話の模擬であることは明白です。また、オオクニヌシは天孫族の要求に際して「応諾の返答は息子のコトシロヌシがする」と応え、自らの意志表示よりも子の考えを優先させていますが、その「話」も形を変え「香香背男を服従させた建葉槌神」の物語となって繰り返されています。

垂仁の「皇子」ホムツワケと白鳥伝説は、このオノコロ・シリーズでも再三取り上げてきましたが、要は応神天皇という大王が「神武……崇神−−垂仁」と続く大王家の正統な後継者であり、かつ偉大な神功皇后のお腹の中に居た時から天皇の位を約束されていた「胎中天皇」なのだという伝説の一部を構成するもので、当然後代に加筆された内容であると推測されます。また安閑天皇に纏わる二つの氏族の話も、息長氏=応神天皇の後裔である継体天皇(450?〜531)が大王として「復活」した後に作成された物語であるに違いありません。(註:ホムツワケが『火』の中で生まれたという設定は、彼等の源泉が『火の国=肥の国』つまり健緒組にあることを示唆しているとも考えられそうです)この様に五世紀初め頃大王家の嫡流となった応神と六世紀初頭に登場した継体一族によって、記紀の原典(伝承などを含む古事)には無かった逸話が次々と盛り込まれ、天孫族の中でも天日鷲翔矢命(少彦名命)の後継氏族を顕彰する「神話」が入念に作り上げられたと考えられるのです。また、時代は更に下りますが敏達天皇の大連であった物部守屋(?〜587)を倒した蘇我馬子により、朝廷の権力は一気に蘇我氏に集中して行きますが、その流れも蘇我入鹿(?〜645)の暗殺事件により再び大きく方向を変えられる事となります。この「物部」対「蘇我」の対立も見方によっては天孫族内部の主導権争いだったと言えそうですが、息長氏の栄光は敏達帝の孫・舒明天皇の諱「息長足日広額」に見事に収斂されているかに見えるのですが如何。歌聖・人麻呂は麓の街道を歩きつつ、朝妻山にたなびく霞を見ながら何に想い馳せていたのでしょう。

  子らが名に 懸けのよろしき 朝妻の 片山崖に 霞たなびく  (万葉 1818番)  「柿本人麻呂歌集」

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