奇々羅金鶏と山東京伝そして蔦屋重三郎               「サイトの歩き方」も参照してください。

天明の打ちこわし(七年五月に集中)が幕府の屋台骨を大いに揺るがせた、その僅か一年余り後に戯作者の山東京伝が得意の黄表紙で江戸っ子たちの興味をいやが上にもかき立てた作品が『嗚呼奇々羅金鶏』という変わった名称の二冊本だったのですが、物語の主人公を「霊」の力で助力したのが、かつて大坂で贅の限りを尽くした挙句、幕府に訳もなく一方的に咎められ、全ての財産を没収された五代目淀屋辰五郎の秘蔵品と伝え聞く「黄金の鶏」だったという絶妙な設定の背景には、京伝の深い思惑があったに違いないと睨んではいるものの、明確な裏付けとなる資料が手元に有るわけではありません、それはさておき。二年足らず後には、盟友とも言うべき版元の蔦屋が財産半減の重い処分を受けようとは流石の彼にも予測することが出来なかったと見るべきなのでしょうが、耕書堂に相当額の出資をして幾つもの出版物に自らの作品と名前を載せていた駿河の商人・吉野七兵衛(吉野家酒楽、酒楽斎瀧麿)は、喜多川歌麿が天明六年に描いた「三保の松原道中」のモデルになったと考えられている人物でしたが、その優雅な絵に賛を寄せた四方赤良(大田南畝)の門人でもありました。軽妙でテンポのある文章は天の羽衣伝説を題材に、駿河の国の「瀧麿ぬし」を寿き、詞書は『吾妻遊びの駿河舞かも』の文言で締めくくられるのですが、寛政二年に刊行された『絵本駿河舞』は不思議な序文が冒頭を飾っています。

  耕書堂に奇石あり その形 鶏に似たりとて 金鶏石と名付く

の文言で始まる序を記しているのは奇々羅金鶏を名乗る人物で、自分はかねてより唐丸の愛蔵している珍しい石に大変関心を持っていたが、このほど蔦屋の方から、その奇石と私の作品群(狂歌)を交換しようという申し出があった。そこで「やほやちまたの名所をさぐり」「たはれたる歌百首をよりて」一つの歌集にすることを思いついた。誠に夢のようで「かの乙女の天の羽衣を得しこゝちして」と最大級の謝辞をも述べています。蔦屋重三郎が大坂の豪商所縁の「金鶏」石を持っているなどとは彼の最も親しい京伝も前作の中で語ってはいなかったはず、そこで少し調べてみると幾つかの疑問点が浮上しました。先ず一つ目の?「絵本駿河舞」という絵入り狂歌集は、確かに寛政二年に公刊された書物に間違いは無さそうですが、その巻頭に載せられている一首は何故か金鶏のものではなく、駿河の商人・酒楽斎瀧麿のものなのです。確かに金鶏自身は歌集の撰者という立場を奥ゆかしく守ったとも言えそうですが、何か不自然なものを感じてしまう「配慮」のように見えてしまいます。つまり、どうして瀧麿に華を持たせる必要があったのか?

   「駿河舞」巻頭の一首は酒楽斎 

「方角分」より  「吾妻遊」の瀧麿  金鶏の書状

二つ目の疑問点は書名に関するもので、一部の研究者たちは「駿河舞」と同じ年に刊行された『絵本吾妻遊』という書物の「別書名」が「駿河舞」であると考えており、『日本風俗図絵』(黒川真道編、大正三年刊)の解説者も両書が正編・続編の関係にあると解説しています。そこで吾妻遊の内容に目を移すと、序の文言が全く異なっていることが分かります。金鶏は『創作文芸の道こそ自分が進むべき分野と思ってきたが「武城(江戸)の唐丸(蔦屋)」に一連の作品を託すことにした。たまたま撰者の名を負うことになった』と述べるに止め、そこには金鶏石のやり取りなどは一切触れられてはいません。そして、この歌集でも巻頭の一首は酒楽斎瀧麿の「中の町 われは司馬徽か 心にて 花もよしよし 君もよしよし」という作品でした。また、先学の調査によれば、この歌集には天明六年に発売された『江戸爵』(朱楽菅江編、歌麿画)で使われていた挿絵九点が再利用されているらしく、二番煎じの復刻版の感が否めません。江戸文芸の解説書などには、これら二つの絵本歌集を当時一部の富裕層の間で流行していた「入銀物」だった、つまりは作品化を望む者が版元に出資し、ある程度の部数を買い取り予約した企画本だったと見ていますが、一介の若い藩医であったはずの金鶏はどのようにして費用を捻出できたのでしょう。

近世文学研究の分野で多くの著述がある藤井乙男(1868〜1946)によれば、金鶏は天明三年に初めての狂歌集『網雑魚(あみざこ)』を公刊した人物で、生まれは江戸、早くに上州七日市藩の藩医として召し抱えられたものの、文芸創作への思いを断ち切れず「三十六歳の時に致仕して、江戸の墨田川の畔に居をトし、花月を友として、悠々風狂を事とした」とされ、確かに写楽探しの大切な資料でもある『諸家人名江戸方角分』にも名前が採録されています。また「あみざこ」には、狂歌の先輩である「つむり光」が序を寄せ、その中で『かばねは赤松 名は金鶏 家の名を荻野屋とか聞こえし 今は上毛の国七日市という所に居まして』と綴っていることから、本姓を赤松と称する畑道雲(1767〜1809)の狂名が奇々羅金鶏だったことが判明しています。そして、藤井は「あみざこ」の奥付に「癸卯七月」とあることから、歌集の出版を天明三年(1783)と判定しているのですが、彼の生年が1767年であったとすると数え年十六歳での上梓となり、元服間もない頃の作品集と考えられるのですが、この「あみざこ」には山東京伝の妹である狂名・黒鳶式部の死去(天明八年)を悼んだ一首が末尾近くに収められていますから、寛政初め頃に刊行されたと見るほうが妥当なようです。この点を含め、同時代の戯作者で自らも狂歌に親しんだ経験の持ち主である曲亭馬琴が、親しい交際のあった大坂の商人・小津桂窓(1804〜1858)に宛てた書簡の中で、金鶏に関し凡そ次のように述べています。

  金鶏は元、上州の人。松平右京亮殿医師なりしが、放埓に付き、いとま出、浪人いたし、寛政中、京都に遊歴いたし、その後、三河の吉田に在住いたし候、
  狂歌師に御座候。享和中、江戸へ立ちかヘリ、吉田人の売薬を引き受け、本所に罷在候が、ほどなく病死いたし候。         天保六年九月十六日付
  父の金鶏も才子にはあらず候き。狂歌を好み寛政の頃まで松平右京大夫殿の医士なりしに、身持宜しからず候ゆえ暇給わり候て流浪致し、三河の吉田に僑居致し候て
  狂歌を倡て吉田人に尊信せられ、五六年も彼地に在りしに、吉田人の売薬店を預かり候て、江戸本所なる見売薬店の仮主人になりしに、いく程もなく文化の初めに没故
  いたし、その売薬店も跡なく成行候。
  右、ききら金鶏は、天明中、四方山人の社中にて、狂歌は下手なれども、当時、多く銭を使候故に名を粗人に知れ候者。     弘化二年九月十三日付

馬琴の言葉が全て正しいとは限りませんが、彼の記憶を元にした証言によれば畑金鶏の仕えた大名は七日市藩ではなく上州高崎藩の松平氏で、藩医を辞したのも「三十六歳の時=享和二年?」よりも可成り早い寛政年間の中頃だったことになります。また金鶏自身が文化元年(1804)九月に馬琴に宛てた書簡の中にも「別後三年」とあり、その後に続けて『僕も近頃訳合有之、またまた止事を不得、人間中へ出現いたし、本丁一丁目鈴木越後の側へ出申候』の記述が馬琴の言う「売薬店」を預かった時期に相当するものと考えられそうです。また金鶏には『燭夜文庫(くだかけぶんこ)』(寛政12年刊、須原屋ほか四者)という歌集があり、巻末近くで瑞宝堂主人が「先生、永々浪人」と表現している事と合わせて、彼は寛政初め頃に最初の狂歌集『あみざこ』を出した後、数年も経たない内に医業を廃し(或いは主家から暇を出され)、京都大坂に遊んでから一旦三河の吉田に生活の拠点を構えたが、享和二年前後に再び江戸に舞い戻り、吉田薬の売薬に関わりながら創作に励んでいたと云うのが事実に近いようです。さて、そうなると愈々彼の「銭」の出所が気になります。同門でかつ入銀物で実績があり、二つの歌集で巻頭を飾る「栄誉?」を与えられている酒楽斎が資金源だったと考えても間違いは無さそうですが、問題は両者の「関係」間柄です。

勿論、二人とも狂歌を大先達である大田南畝に師事していますので、酒楽斎こと吉野屋が入門した天明六年以降に「同門」の兄弟弟子としての交際が生まれていたであろうことは簡単に想像できます。ただ「同じ四方連」に属す者同士であると云うだけの理由で、果たして出版の費用まで面倒を見るものなのか?疑問は残ります。馬琴も「多く銭を使」ったとは書いていますが、誰かに「金を出させた」とは言っていません。金鶏には寛政二年生まれの児・銀鶏がおり、藩医の俸給で家族を養いながら「多くの銭」を捻出できるものなのか、謎は残ったままです。

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