スサノオと「国譲り」神話について                            サイトの歩き方」も参照してください

おに」にまつわるお話しを取りとめもなく考えているうちに、京都の八瀬童子(やせどうじ)に思い当たり、WEBをあちこちうろついてはみたのですが、案外、資料としてまとまったものは公開されていませんでした。もっとも現地まで出かけて「八瀬童子会」の編修した文書でも見せてもらったなら、よかったのでしょうが…。それでも、一つのヒントに巡り会うことが出来、こうして新しいページを綴っています。そのきっかけとなったのは「八瀬ことば」と呼ばれる八瀬独特の言い回しで「あんな」「こんな」と言うべきところを彼等は「あがな」「こがな」と話すのだそうです。出雲方言のページを少しでも読んで頂いた方なら、直にもピンとくるはずですが、出雲地方では、同様のとき「あげな」「こげな」と言うのです。そして、この様な言い回しは他にも見られ「そんな」は「そげな」、「どんな」は「どげな」に変化する訳です。この二つの方言に出てくる「が」と「げ」が、極めて音的に似通った「訛り」であると思われたのです。出雲と京都−−何のつながりも無さそうに思える、とても離れた場所で話される独特の表現…、これは一体、どういうことなのか?と細胞数が冨に激減したオツムで考えていたとき、ふと、お馴染みのスサノオオオクニヌシの名前が脳裏に浮んだのです。

もう、このシリーズで何度も取り上げているので、読んで下さる方にとっては些か食傷気味だとは思いますが、今回のお話しを進める上で、どうしても前置きとして言っておかなければ先に進むことが出来ませんから、暫く辛抱して付き合ってください。それは、所謂「国譲り神話」の中身、筋書きに関する事柄です。極々大雑把に「神話」を纏めると、まず、

   もともとカミサマの世界に住んでいたスサノオは、

   そこで、大変、乱暴な振るまいをしたので、神々が相談の上

   人間の世界(舞台は出雲)に追いやられた

   スサノオは毎年高志(こし)からやって来て人々を困らせているヤマタノオロチを退治

   自分の娘にオオクニヌシという婿を迎え(彼にオオクニヌシに成れ、と言って)

   国の運営をまかせた(国を譲った)オオクニヌシはスサノオの六世の孫である

と言う前段(一度目の国譲り、スサノオからオオクニヌシへ)があり、続いて、肝心のアマテラスとオオクニヌシの「国譲り」に場面が移ります。その理由は、誰が考えても唐突に思えるのですが、

   スサノオの姉であるアマテラス

   スサノオから国の運営を任され「出雲」に居るオオクニヌシに使者を送り

   この国は、もともと私の子孫が治めるべきものである、

   だから、貴方は速やかに国を明渡すべきである。

との要求を突きつけ、再三に亙って使者を送り続け、最終的には「武力」でオオクニヌシ(正確には、彼の子供たち)を屈服させ、その支配権を獲得するのです。この要旨は無論『古事記』の記述を基本にしたものですが、それにしても、一旦、自分たちの世界(カミサマ界)から追放したスサノオ(の子孫)に、その追放先の国(土地・支配権)も返還しろ、と言うのは、どう考えても理屈に合いません。と言う事は、どこかに虚構が隠されているのです。それを一つ一つ地道に検証・実証するのが「学問」の正道なのでしょうが、このオノコロ・シリーズは、そんな制約を受けない、只の雑文に過ぎない特権で、妄想を以下に述べて行きます。皆さんが見易い?ように表にしてみました。

項  目 オオクニヌシ(大国主) ?1 ?2
 祖先・系図  スサノオの五世の孫?・六世の孫  応神天皇の五世の孫?  「?1」の五世の孫
 配偶者  スサノオ自身の娘  応神天皇の五世の孫  「?1」の四世の孫
 主な出来事   八十神(庶兄弟)たちの大変な妨害にあった   大和の地に20年も入ることが出来なかった   一度退位し、9年後に再び即位した
 国の運営  子供の世代国を譲らされた  お妃の実家が実権を握った  自分の子供と、その協力者が実権を握った 

「聖なる五世」の区切りと系譜の構図

さて、お立会い、果して「?1」「?2」の処に入る人の名前は誰でしょう?このような「系図上の設定の類似性」は「古事記」「日本書紀」に良く見られるもので、それは、取りも直さず記紀の編集者たちが、或る「前提」に基づいた編修方針で個々の「神話」などを繋ぎ合わせる作業を行っていた証だとも言えそうです。そして、その編修方針が八世紀初頭、政界中央の実力者に台頭していた藤原氏の意向を十分に受けたものであったことは言うまでもありません。もう、お分かりかと思いますが中央の欄「?1」に入るべき人物の名は継体天皇けいたいてんのう)その人です。そして「?2」の欄には斉明皇極)天皇が入ることになります。そして、この皇極(斉明)天皇を基点としたとき、大変興味深い一つの事実が浮かび上がってきます。それは、次のような「系図」の構成です。

   皇極天皇----五世の祖先----継体天皇----五世の祖先----応神天皇----五世の祖先----崇神天皇
  ----五世の祖先----孝昭天皇----五世の祖先----神武天皇

これを、この整然とした世代間の区切りを偶然と考える方は、恐らく誰一人としていないでしょう。ここで言う「五世」とは「五世代」の意味です(つまり何代という天皇の歴代の意味ではありません)が、記紀の編集者たちが極めて意図的に「天皇の系図」を「作成」した証のように思えてならないのですが…。(この系図に見える孝昭天皇は記紀に殆ど記事らしいものが無い人物なので、恐らく『神武』の時代を出来るだけ古くしたかった編集者の意向を反映した創作上の存在だと想像することも出来ます。また、皆さんも一度、天皇系図を見てもらえば分かりますが、初代・神武から第十三代の成務までは《親から子へ》の整然とした直系相続が続いているのに対し、第十六代・仁徳以降《兄弟による相続》が頻繁に見られるようになり、継体に至って《天皇の姉妹の婿》が相続人になるのです)

    素鵞社   熊野川   

HG 1/144 GNX-Y901TW スサノオ (機動戦士ガンダム00)

新品価格
¥1,200から
(2016/10/29 11:41時点)

そこで、妄想その2に移りますが、一見「唐突で理不尽」だと思われるアマテラスの「国譲り」に、若しも根拠があったとしたら、どうなるでしょう?つまり「本当に、葦原中国がアマテラスのものだった、としたら」と言う設定です。この推論の根拠になる文献資料などは勿論、欠けらもありません。手がかりに成るのは、一つの神社、それも摂社(せっしゃ)の存在です。全国の神様が旧暦の十月、一同に集う神社として有名な出雲大社には多くの摂社が祀られていますが、本殿の真北に主祭神のオオクニヌシを監督するかのように設置されたお社があります。その名を「素鵞社」(そがのやしろ)と言います。そして出雲大社を両側から挟みこむように流れる二本の川があり、東側を熊野川、西側を素鵞川と呼んでいます。素戔嗚尊を祀る社が、どうして「そがのやしろ」と名付けられているのでしょう?

記紀が編集されたのは八世紀初頭、日本書紀の編者は舎人親王(とねりしんのう、皇極・斉明の孫)たちです。祖父母たちの世代に起きた数々の事件、中でも蘇我一族の巻き起こした政権基盤を揺るがせかねなかった「出来事」が、彼らの意識に無かった、と考えるのは余りにも不自然だと言えるでしょう。上で見た「五世の孫」という、ある意味恣意的な歴史(時間)の物差しとも言える雛形を考え出したのが誰なのか審らかではありませんが、その時間軸・座標の基点は、やはり、特別な就任の仕方を余儀なくされた(その人しか適任者が見つけられなかった)「継体天皇」にあると思われます。皇極が「たまたま」継体の五世の孫であったのかどうか、は別にしても、記紀の編集者は、継体を基点として二十世を遡り、そこに「神武」を配置したのです。では、その聖なる「基点」から五世の孫に当たる皇極・斉明の時代、最も重要で深刻な出来事と言えば何だったでしょう。そう、蘇我氏の「横暴」に他なりません。

もう一度、国譲りの「神話」を読み直してみて下さい。アマテラスは「弟」(と呼べる程親しい間柄・あるいは夫であったかも知れない)スサノオの「横暴」に困り果て、彼を追放したのですが、その時アマテラスも「岩屋」に籠ってしまったことを忘れてはいけません。そのため「天界」は陽の光を失ったのですから、実質的にアマテラスの威力(光)も影響力を無くしていたのです。以前、別のページで、スサノオが暇乞いに来る場面を紹介したとき「何故、アマテラスは軍装のような格好をしてスサノオを迎えるのか」という疑問を提示したことがありますが、実際に両者が対立していたと考えれば、その謎も解けます。

「記紀」はオオクニヌシと言う神様(神格)を創造したのか?


さて、妄想も終わりに近づきました。結論を急ぎましょう。スサノオと言う名前に象徴される「古いカミサマ」は、民衆にとって必ずしも乱暴な神様ではなく、むしろ製鉄に代表される当時の先端技術集団等を率いた農耕生活に豊かさをもたらす「良い」神様だったはずです。そして、そのスサノオには「外国から海を渡ってやってきた」と言う言い伝えも根強かったのです。出雲風土記には一切登場しない「オオクニヌシ」を創作した記紀の編集者たちは、古くて権威のあったスサノオの威光を最大限に利用するため、彼を「アマテラス」の兄弟に位置づけ、その子孫・オオクニヌシに国を任せる筋書きを展開しました。外国からの渡来者、そして民衆にも人気があった実力者、自分の娘の婿に「オオクニヌシ」に成れ、と言って国を任せた神様……、何か、何処かで聞いたような話ではありませんか!オオクニヌシは、自分の子供が「国譲り」を承諾したことを知ったとき、ある一つの条件を出して冥界へ旅立ちました。その、たった一つの条件が「自分を出雲の大社に祀る」ことでした。

   満智----韓子----高麗----稲目----馬子----蝦夷----入鹿

蘇我氏の始祖とされる「満智」は、外国から渡来した知識人であったとされ、蘇我入鹿六世の孫にあたります。稲目の時代から急速に頭角を現した蘇我一族は、その豊かな知識と財力を武器に政界中央に進出、稲目の三人が、それぞれ天皇の妃となり二人の天皇の母親となった後、稲目の孫娘にあたる三人が同様に天皇および皇太子の妃となって、その勢力は天皇をも凌ぐほどに拡大したのです。日本書紀は盛んに蝦夷・入鹿の「横暴ぶり」を喧伝し、彼らが自分たちの住居を「宮門」と呼ばせたと記述していますが、若しも、それが事実に基づいたものであったのなら、蘇我氏が実質的に「宮門(みかど)」と大衆から呼ばれるほどの存在に上り詰めていたのでしょう。
そして運命の西暦645年6月12日、飛鳥板蓋宮大極殿内で行われていた「三韓内調」の儀式に出席していた蘇我入鹿は、中大兄皇子と中臣鎌足らの勢力により謀殺され、その悲報を聞いた父・蝦夷は自宅に火を放ち自害、こうして蘇我の宗家はあっけなく繁栄の幕を閉じたのです。
記紀神話を個々に取り上げ、その内容を歴史的な事実とつき合わせ、自説に都合の良い部分だけを主張することに余り意味はありませんが、記紀そのものが八世紀初め、この国の実権を掌握していた藤原氏の立場を考慮して編集されたものだと判断するのであれば、神話の形をとった記述の中にこそ、物言わぬ人々の声が隠されているかも知れません。そう考えれば、オオクニヌシの国譲りと、蘇我氏一族の盛衰には暗示以上の相似性を感じてしまうのですが、皆さんの感想はいかがでしょう?

「事実」を「神話」に埋め込むことは可能であったのか

須佐神社本殿  石舞台古墳   PR

オオクニヌシに仮託された神格を蘇我氏の祖先そのものだと断定している訳ではありません。ただ、出雲大社の主祭神を背後から監督、あるいは見守っている神社が「素鵞社」であることは事実です。惨殺された蘇我入鹿は皇極天皇の葬儀に出現し、参列していた百官の人々の眼に怪しく映りました。国家として、その霊を慰めるための神社が是非とも必要だったに違いありません。都の近くではなく、出来るだけ遠くに、しかも、ある程度の格式のある社に「霊」を封じ込めたいと考えたとき、都の西北に在った出雲大社は格好の材料と映ったのではないでしょうか?幸い、出雲の地は古くから大和政権の支配下にあり「神話」の古里としても十分な資格を持っています。記紀神話の編集段階において編集者たちは、出雲独自の、つまり出雲土着の神々を差し置いて「スサノオの子孫のオオクニヌシ」という神格を創り上げ、現実に起こった「国譲り」(権力の奪還)を、カミサマたちの時代の出来事として描写、合わせて自身の正当性を強調したのです。ただ、記紀編集者たちの頭の中で、余りにも蘇我氏滅亡に関する記憶が生々しかったため、記紀の「神話」と「事実」を混同してしまう、という過筆があったため、後世それらを読む私たちの目には、混沌とした「神話」の世界しか見えない、予期せぬ効果をもたらしたのです。

つまり、最大限の妄想をここで働かせるとするなら、アマテラスが言ったように『葦原中国は、もともと自分たちのものであった』のです。それが事実であり、一旦、その国はスサノオに象徴される一族に支配されていたのです。だからアマテラスが、その正当性を主張して返還を強く求めたのですが、記紀神話では「国の支配権が失われた」という事実を故意に記述せず、天孫系の「国譲り」神話だけを前面に押し出したため、読む側にとって、それがとても唐突なように思われる結果となったのです。簡単に表にすると次のようになります。

系    譜 国を支配するまでの経過 国譲りの経緯と結果
 オオクニヌシ   スサノオの六世の孫  義理の父親から国を譲られた   子供たちの意見に従い国を譲り自ら幽界に去った
 蘇我入鹿  蘇我満智の六世の孫   実力で国の支配権を得た  子供の死を聞いたの蝦夷は、家に火を放ち自害した 

「国を支配するまでの経過」について補足をしておけば、入鹿の父・蝦夷は事件の当日既に政界を「引退」しており、その意味では『父親から国の支配権を譲られた』と解釈してもおかしくありません。また、国譲り=権力の奪取後の、それぞれの親の対応が、いずれも「現世から去」ることになっているのも奇妙な一致点だと思われます。そして何より、記紀神話の国譲りの場面で、伊奈佐の浜に剣を突き立て、強引に迫った神様の武甕槌神(たけみかづちのかみ、建御雷之男神)を祀る春日大社が藤原氏の氏神であることが、すべてを物語っています。

出雲大社そしてオオクニヌシという存在が後世(七〜八世紀)に「創られた」ものであるのなら、納得の行く事柄があります。まず最初に、出雲の国の第一の宮が熊野大社であること。つまり神格として熊野の方が出雲より何故高いのか?それは、もともと出雲地方の神様として尊崇を集めていたのは熊野の神であり、まさに、それが本来のスサノオです。だから、出雲大社で重要な儀式を行う時には熊野へ頭を下げて頼みごとをしなければならない訳です。そして、出雲大社が本来「非天孫系」(所謂アマテラス系列に属さない)の社であるにも関わらず、代々国造(こくぞう)を務める千家氏の祖先が天孫系の天穂日命(あめのほのみこと、アマテラスの子供)である不自然さも、天孫系の一族がオオクニヌシの霊が暴れださないように見張っていると考えれば辻褄が合います。

そして最後に一言、やはり、オオクニヌシというカミサマ(神格)は、もともと出雲に居た神様ではなかったのです。この主題は、サイトとして今後も取り上げて行きます。オオクニヌシと云う名の神様には、まだまだ隠された複雑な事情がありそうです。

  TOP  

 人気の頁   お地蔵様の正体   オオクニヌシ伝説   出雲阿国は歌舞伎の元祖   山背大兄王と聖徳太子   トランペットの正しい吹き方   卑弥呼と邪馬台国