スサノオとツノゴリオオクニヌシ                              「サイトの歩き方」も参照してください。

簸川の河上で出会った足名椎・手名椎夫婦との約束通り、高志(越)のヤマタノオロチを退治したスサノオは彼らの娘・櫛稲田姫を妻として迎え、出雲の須賀の地に建てた宮で新生活を始めます。そして目出度く誕生した子供が八島士奴美神(ヤシマジヌミ)で、この神様が所謂「大国主命の神裔」の原点となり、

  八島士奴美神--布波能母遅久奴須奴神--深淵之水夜禮花神--淤美豆奴神--天之冬布神--大国主神

の系図が示す様に古事記の中でオオクニヌシは「スサノオ六世孫」に位置付けられている訳です。一方、日本書紀は神代上第八段の本文でスサノオと奇稲田姫との間に生れたのが大己貴神(オオアナムチ、大国主神の別名とされる)であると記録し、記紀の間でオオクニヌシの位置付けが大きく異なっています。この背景には幾つかの要因があるのでしょうが、古事記が詳述する大国主神の「試練」の数々と根の国訪問、更にはスサノオの娘・須勢理姫命との劇的な「妻問」(略奪婚)などの逸話を見ると、もともと古くから出雲周辺に勢力を有していた先住の人たちの間で語り継がれてきた、建国にまつわる神々の伝承が豊富に有り、それを天孫族の「神話」に都合よく取り込んだ事が一因だと思われます。また、記紀の編集にあたって本来「数代前の祖先」であるスサノオという始祖神を「皇祖アマテラス」の兄弟に位置付けた事から、そこに大きな世代のズレ(数世代?)が生じることとなったのも事実です(系譜の面から見て、世代の改変は神々の世界だけではなく、初期王朝から垂仁天皇~景行天皇の時代でも行われ、継体天皇などの系図にも大幅な改編が加えられています、それはさておき)。

書紀の一書によればスサノオ・稲田姫夫婦が儲けた子供の名前は「清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠、或いは、清の繋名坂軽彦八嶋手命、また、清の湯山主三名狭漏彦八嶋野」という意味深長で殊更に「解説調」の文言が含まれた長いものですが、以前オノコロ・シリーズで取り上げた「銅=カル=軽」の解釈を適用すると、この子供は「銅山」つまり金属開発や鍛冶の分野で活躍した神様だったように思われます。その意味では大国主神が一名を「大穴持神」(穴は坑道・鉱山を意味する)と呼ばれる事にも通じそうです。さて、出雲風土記にはオオクニヌシという名の神様は登場しませんが「国引き」を果敢に行った八束水臣津野命そして「天の下造らしし大神」大穴持命が意宇郡の段で続けて紹介され、後者は「越の八口=大蛇?」を退治したとも記されています。この二柱の関係は明記されていませんが、同じ国内に鎮座し、いずれもが「国」を造ったと謂われているのですから、極近しい間柄と考えるのが自然です。敢えて分けるとすれば前者が国土の創造(祖神)、後者が実際の国造りを担当した跡継ぎ(子孫)に相当するのかも知れません。

古事記より  出雲風土記より  オオクニヌシ 

素鵞社(出雲大社)  諸系譜より  勇者スサノオ

オオクニヌシを考える時、資料によって大きな世代の差異が存在する点が常に懸念材料となるのですが、八束水臣津野命(ヤツカミズオミツ)が淤美豆奴神(オミズヌ)の亦名ではないかとする説に従うなら、出雲風土記などが伝えた神名が意外な処で天孫族の一系譜と交錯します。それがオノコロ・シリーズで何度か取り上げてきた「東国諸国造」(『諸系譜』第一冊収録)伊勢津彦之裔という文書です(上画像参照)。ここでは不思議なことに出雲国造の先祖、つまり天孫である天穂日命の「親」の神名が淤美豆奴命と記されています。明治期の研究家である中田憲信が依拠した原典の資料名を知ることは出来ないものの、これと対になっている「天津彦根之裔」に見える、

  天津彦根命(一名、波多津美命)--天目一箇命(一名、明立天御影命)--意冨伊我都命--阿多根命(山背国造の祖)

という内容の系図冒頭に書き込まれている『出雲風土記、意宇郡の段に天乃夫比命(天穂日命と同神)の御伴に天降り、出雲意宇郡屋代に居』たの註文から、彼が風土記に「天津子命」の名称で登場している神様を天津彦根命と同神と見做し、出雲国造の祖先である天穂日命は出雲郡伊努郷に鎮座している「国引きましし意美豆奴命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命」(出雲郡、伊努の郷)と同神であると判断した上で、これらの系譜を作成したものと推理出来そうです。少し話が込み入ってきましたので、参考のため出雲風土記にある記述を抜き書きしてみます。[註:天津子命は『天津彦根命の子=天目一箇命、少彦名命』を意味している可能性もあります]

  屋代の郷 天乃夫比命の御伴に天降り来のしし伊支等が遠つ神、天津子命、詔りたまいしく「吾が静まり坐さんと志う社」と詔りたまいき。故、社(やしろ)という。
  山口の郷 須佐能烏命の御子、都留支日子命、詔りたまいしく「吾が敷き坐す山口の處なり」と詔りたまいて、故、山口と負せ給いき。
  伊農の郷 出雲の郡、伊農の郷にむ坐す赤衾伊努意保須美比古佐和気能命の后、天𤭖津日女命、国巡り行でましし時、ここに至りまして「伊農はや」と詔りたまいき。
  杵築の郷 八束水臣津野命の国引き給いし後、天の下造らしし大神の宮を造り奉らんとして、諸の皇神等、宮處に参集いて杵築たまいき。故、寸付という。
  伊努の郷 国引きましし意美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命の社、即ち郷の中に坐す、故、伊農(いぬ)という。

スサノオを始祖と仰ぐ天孫族の一団が九州から四国や本州西部を経て出雲に入った時、既にそこで生活を営み独自の文化を作り上げていた勢力があったはずです。その人たちは当然固有の信仰対象や祖神に関わる伝承を持っていたに違いありません(筆者は元々地域に古くからあった「越の八口」の言い伝えがヤマタノオロチという物語の原型ではないかと想像しています)。また記紀が神話の中で「反逆者」の烙印を押した天若日子(実体が天津彦根命=天穂日命)の後裔としては、せめて地元出雲の風土記の中だけでも自分たちの祖先たちの名前や業績を語り継ぎたかったのかも知れません。さて、東国諸国造の系図によれば、国引きを成し遂げた創造神以降は、次のように表記されます。そして、ここにオオクニヌシの神裔系図(古事記)と三上祝(山背国造)の系譜を重ねてみましょう。(註:二行目の八島牟遅能神と鳥耳神は親子で、鳥耳神はオオクニヌシの妻)

  淤美豆奴神--天穂日命--天夷鳥命(天日名照命)--伊佐我命(伊勢津彦命)--津狡命--櫛𤭖前命--櫛月命--櫛𤭖鳥海命--櫛田命
  八島牟遅能神--鳥耳神--鳥鳴海神--国忍富神--速甕之多気佐波夜遅奴美神--甕主日子神……布忍富鳥鳴海神
  天津彦根命--天目一箇命--意富伊我都命--彦伊賀都命--天夷沙比止命--川枯命--坂戸命--国忍富命--大加賀美命--鳥鳴海命(弟・速津鳥命

一見して明らかな事は、三者とも「鳥」を象徴とする氏族だという点です。そして最も重要なのが「オオクニヌシ」の称号で良く知られている神格の実体は、出雲地方の一国津神などでは決してなく、高天原の神々の子孫の一柱である「天穂日命=天津彦根命=天若日子」(と天夷鳥命=天目一箇命=天御影命などの子神)を全て包括した天孫一枝族の祖霊神として崇められた存在なのです。また「国」「忍(オシ)=治める」「富」の三文字は「大国」の「主」に最も近い概念を表す言葉だと思いますが、この神様の母親には「日名照額田毘道男伊許知邇神」のとても複雑な名称が与えられています(本来の名前が後世、加工された可能性があります)。その中に含まれている「日名照(ヒナテル)」は明らかに出雲国造家の祖神・天日名照命(天夷鳥命)から受け継いだものだと思われ「額田」は天津彦根命の子・天御影命が額田部湯坐連の先祖であり、額田部宿禰が『角凝魂命の男、五十狭布魂命の後』また無姓の額田部が『額田部宿禰と同祖、明日名田命の後』(いずれも新撰姓氏録による)と称しているので、製鉄や鍛冶の技術に長じた一族の出身であることをも意味した名称を負っていると考えられます。

鳥取連  委文連  額田部湯坐連

角凝魂命・五十狭布魂命の親子神は余り一般的ではなく知名度も高くありませんが、古代祭祀の分野で重きをなした阿波忌部氏の伝える資料にも登場し「神魂命--角凝魂命--伊佐布魂命--天底立命(天照大神)--天背男命(天津彦根命)--天日鷲命(少彦名命)」という内容の神統譜冒頭近くに記されていますので、天孫族の始祖神であることが分かります。また「新撰姓氏録」に収録された各氏族の祖先としても名前が見えており、そのほとんどがオノコロ・シリーズの常連たちです。

  鳥取部連  角凝魂命の三世孫、天湯河桁命の後なり。            鳥取連   天角己利命の三世孫、天湯河板拳命の後なり。
  美努連(三野県主)  角凝魂命の四世孫、天湯川田奈命の後なり。     委文連   角凝魂命の男、伊佐布魂命の後なり。  

ここに見られる「天湯河桁命・天湯河板拳命・天湯川田奈命」は皆同じ神様であり天津彦根命の別名ですから、角凝魂命(ツノコリ・ツノゴリ)とは天孫族の頂点に立つスサノオと考えて間違いなさそうです。

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