例えば、江戸歌舞伎の世界、取り分け五代目市川団十郎(市川鰕蔵)とは極めて懇意、息子・徳像の初舞台を祝って、わざわざ狂歌集(『江戸花海老』1782年)を仲間内など多くの人々に一冊ずつ贈るほどの仲だった南畝こと大田直次郎(おおた・なおじろう,1749〜1823)は、自身の備忘録(後『一話一言』として纏められる)の中で、寛政六年十一月の出来事として、次のように書きとめています。(註・江戸時代「能」は、幕府により直接支配されていました)
公家衆ご馳走御能組
翁 三番叟 仁右衛門 面箱持 茂右衛門 千歳 六郎
和布刈 観世太夫・彦十郎 九郎兵衛 新九郎 惣右衛門 熊八郎
間 新右衛門
経政 金春太夫・源次郎 平三郎 喜太郎 清右衛門
三輪 金剛太夫・六右衛門 三郎右衛門 六蔵 兵次郎 又次郎 (以下略)
彼が、お上の登用試験第二回「学問吟味」(2月3日〜3月14日)を受けたこの年の十一月朔日、京都から下ってきた朝廷の使者たちを歓迎する式典の一部として「能」が振舞われたもので、江戸幕府の下級官僚のはしくれだった南畝も、この日は『御前置差引の役』(恐らく警備の役目)を勤め、最後まで役得で「見物」していたことが分かっています。そして写楽が江戸の町に役者の大首絵を引っさげて現れたのは、その半年前五月のことでした。
写楽が描いた五代目・団十郎
出番を待つ?徳蔵
東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく、江戸寛政期の浮世絵師で生没年などは一切不詳)という絵師の正体を探る試みには、古代邪馬台国の女王卑弥呼探しにも匹敵するほどの「人気」があり、かく言う管理人もオノコロ・シリーズで性懲りも無く何度と無く取り上げています。そして、どの推論・誰彼の論考を読んでも出てくる資料は「浮世絵類考(うきよえるいこう)」それも、江戸の町役人で時代考証家の肩書き?を持った斉藤月岑(さいとう・げっしん,1804〜1844)が残した『増補』版(1844年刊)一点張りなのである。「だって、それしか無いんだから…」仕様が無いと言えばそれまでなのですが、物は考えようじゃないのか!
一つ目の手がかり=写楽の描いた人物の殆どが江戸歌舞伎三座の役者なのだから、今も続いている歌舞伎芝居の世界に「言い伝え」の様なものが本当に残っていないのか?また、その聞き取りを過去に行ったことがあるのか?確かめてみる価値は十分にあると言えます。絵師と同様、江戸期の役者たちの社会的な地位は決して高いものではありませんでした。文献としては残っていなくても、各家々に何か伝えられた「話」があるように思えてならないのです。昔なら「口が裂けても」言えない事でも、今なら匿名で「告白」してもらえるのでは…。
二つ目の手がかり=神田雉子町の町名主だった斉藤月岑が、他の人と比べて「記録好き」だったという憾みは無きにしもあらずですが、それでも当時町政を与っていた町役人の家は多数あったはずで、それらの家に伝わった「書付」の類を調べてみるに越したことはありません。また、江戸期から続く商家も相当あると思われますから、どこかの大学・機関が関心を持ってくれると良いのですが…。関東大震災の影響(資料の焼失)が大きいとは思うのですが、是非とも調べてみたい文書です。落語に出てくるような放蕩息子は居なかったのかも知れませんが、物好き記録好きの旦那が何処かに幾人かは住んでいたはず。
三つ目の手がかり=江戸幕府が終焉し、明治新政府となった折、引き継がれた「公文書」は夥しい数にのぼるものと思われますが、その中には、江戸期に調べられ報告された「個人情報」も含まれているはずです。勿論、表向きの「事故・事件」に関するものだけではなく、時の奉行所(幕府)が「関心」を抱いた事柄に関連する人物たちの「周辺」調査も頻繁に行われていたのではないか。であるなら、幕府・奉行所の管理下にあった芝居小屋や出版業界に直接関わりを持っていた「写楽」や、版元の蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう,1750〜1797)についての「調査報告書」が存在している可能性が高いのではないでしょうか?何しろ、蔦屋には「身代半減(寛政3年)」の前歴もあるのですから…。また、江戸の出版物については度々「改革」の対象となっていますから、庶民に最も人気があった浮世絵版画の「作者」については、相当の調査が行われていたと考える方が自然です。(蔦屋に関しては寛政3年の処分後も、お上が監視の目を光らせていたと考えるべきでしょう)
趣味の会?で談笑する南畝(右側)
四つ目の手がかり=大田南畝は確かに時代の寵児でもあり特異な才能をもった例外的な人物であったのかも知れません。しかし、江戸期の文化を支えた主柱の一つが武士階級に属する人々であったことも又、明白な事実なのです。写楽や南畝の周辺を見回しただけでも屋代弘賢(やしろ・ひろかた,1758〜1841)、酒井抱一(さかい・ほういつ,1761〜1809)、谷文晁(たに・ぶんちょう,1763〜1840)、朋誠堂喜三二(ほうせいどう・きさんじ、平沢常當,1738〜1813)、恋川春町(こいかわ・はるまち、倉橋格,1744〜1789)、近藤重蔵(こんどう・じゅうぞう,1771〜1829)など、いずれも「時代」を担った武士の名前が直ぐに浮かび上がります。南畝の「書き物」類では発見することが出来なかった、写楽に関する「ヒント」が、今あげたような人物の遺稿に残されてはいないだろうか?そんな期待が脳裏をよぎります。中でも探検家として知られる近藤は与力の家に生まれ、時代劇には欠かせない例の火付盗賊改方の職務もこなした人物で、晩年は息子の起こした事件に連座、地方の片田舎に蟄居したと言われていますから、何か「裏話」が聞けそうな気がしてなりません。
五つ目の手がかり=言うまでも無く、江戸の浮世絵版画界で写楽が活躍したのは200年以上も前の出来事なのですが、その作品を実際に作り出した「彫師」「摺師」といった職人たちの業を引き継ぐ人々の間に、何か、江戸にまつわる「言い伝え」が残されてはいないだろうか?明治・大正の頃には「名人」と歌われた人が確かに居たのですから、満更、夢物語ではありません。そして、それら名人たちが受け継いだ浮世絵版画を商いとした老舗も尚、残っているのですから、本気になって探してみれば案外容易く「答え」が見つかるのかも…。
江戸の町名主・斉藤月岑が天保15年(1844)に著した『増補浮世絵類考』の中で、
写楽 天明寛政年中の人 俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住いす
阿波候の能役者なり 号 東洲斎
と記したことから「写楽=能役者」説が一人歩きを始めた訳ですが、その脆弱性については、これまでもオノコロ・シリーズで取り上げてきました。是とするか、或いは否とするかは読者の皆さん方一人ひとりが自ら判断なさるべきことですが、ここでは、江戸時代という歴史的な背景を前提にした場合に想定される「問題点」を再度、指摘してみたいと思います。−−何々、そう難しい話しではありません。お気楽に推理を楽しみましょう。この「説」を大上段に振りかざす方々の「調査」によれば、写楽だとされる斎藤十郎兵衛という人物に関する過去帳が埼玉県越谷市にある浄土宗本願寺派の寺から「発見」され、次のような事実が明らかになりました。(そのお寺に伝わる12冊の過去帳によれば「斎藤家」を名乗る人物は28名、そのうち十郎兵衛に関わる者が18名にのぼったとされます。下表はWEB上に公表された講演記録から引用したものです。文字等に誤りがあれば、それは管理人のせいです。また、斎藤の「増補」を始め現在も多くの「類考」が資料として伝えられていますが、それらは当時の知識人や趣味人が自分専用の覚書・手引きとして書き写し残したもので、初めから出版を目的として書かれた文ではありません。つまり今で言う研究書ではないのです)
| 年 | 出来事 |
| 寛政 3年 | 6月、暁雲院釈素元居士、当時、八丁堀、松平阿波守様内居住、斎藤与右衛門 事 |
| 寛政10年 | 12月、貞楽院釈善信尼、南八丁堀、松平阿波様内、斎藤重郎兵衛 祖母 |
| 寛政11年 | 3月、釈智閑童子、南八丁堀、松平阿波守様家中、斎藤重郎兵衛 子 |
| 享和 元年 | 3月、釈教寿童子、北八丁堀地蔵橋、斎藤十郎兵衛 子 |
| 文化14年 | 7月、照寿院釈浄信禅尼、八丁堀地蔵橋側、斎藤十郎兵衛 母 |
表にある記述の「寛政10年、11年」の項で通称がいずれも『重郎兵衛』となっているので、この講演を催した団体に直接問い合わせてみたのですが、回答をもらえませんでした。従って「重」そのものが誤植であった可能性もありますが、この資料を発掘した人たちが「十郎兵衛(原文では『十良兵衛』)と「重郎兵衛」を同一人物だと判断した結果であった事も考えられます。其れはさておき、斎藤家では「十郎兵衛と与右衛門の名を交互に名乗った」そうですから、写楽と目される人は、父親である(と思われ)、
寛政三年に先代・与右衛門が亡くなった後
寛政十一年までの間、松平阿波守の屋敷内に住みながら
寛政の改革の只中、己の趣味で浮世絵版画の下絵を描きながら
生活していた、と言うことになるのですが、藩お抱えの能役者とは、そんなにも「お気楽」な存在だったのでしょうか?記録によれば、幕末に大老となった井伊直弼(いい・なおすけ,1815〜1860)の彦根藩は石高25万石の大大名で、寛政11年に喜多織衛始め6人の能役者を抱えたことが明らかになっていますが、阿波藩の石高も同じであったことを考慮すると、ほぼ同数の役者が藩に抱えられていたと想像されます。一方、江戸幕府は三百数十名もの能役者を抱え、その実態は、
幕府や諸藩は 能楽の保護者であると同時に厳しい監督官でもありました。
頻繁に出される厳しい通達によって、技芸の鍛錬と伝統の正確な継承を要求された結果、
能はだんだんと重々しさを増し一曲の所用時間も長くなって、気力と体力を消耗する厳しい芸質へと変化していきました。
と同時に、ワキ方・囃子方・狂言方などの細かい役割分担が分化確立し、
大夫を中心とした家元制度に守られた「座」付の体制が整備されたことによって、
逆に能楽の歴史の流れの中では自由な発展性が閉ざされる結果となりました。
とされ(『財団法人能楽協会』のページより引用)、幕府から発せられる「厳しい通達」が「頻繁に」あったことが分かります。一部の研究者は「能役者」説の補強材料として、
能役者には「非番」の年があり、その年は相当「暇」であった
事を取り上げていますが、徳川幕府のお抱えならともかく十名足らずの藩役者に「非番」は在り得ないお話しではないでしょうか!そして「能役者」説に欠けているものが、もう一つあります。それが江戸時代の「武士(身分)」に関わる感覚なのです。今の時代を生きる私達にとって二世紀前の封建社会を想像してみることは大変難しくなっていますが、物の見方・価値観が激変しようとしていた幕末とは言え、尚、武家と町方は厳格に「区分」されていました。大大名の「家来」として、態々、その技能の故に「召抱え」られた侍身分の役者が、本来の「仕事」そっちのけで余技に現を抜かすとは到底考えられないのです。(能役者が、もしも写楽であったとするなら、彼は2日に一枚のペースで絵を書き続けたことになります)また、公儀・幕府に奉行所があり目付・見廻りが存在していたように、藩にも独自の目付制度はあり、その意味で藩士はことごとく「監視下」にあったのです。国許なら未だしも、狭い江戸屋敷それも同役が居並ぶ長屋の一隅で、誰の眼にも触れずに、1年余りも絵を描き続けると云うことが、一体どれほど「絵空事」に近いものか考えてみて下さい。また、例え諸藩であれ専門家として士分に抱えられること自体が名誉であったに違いなく、その「身分」を危うくしてまで能役者が歌舞伎役者たちの似顔絵を描かねばならなかった理由が思い浮かばないのです。(上表の過去帳記録に従えば彼は両親、祖母、子そして表には入れていないが姉も同居していました。その全生活を「棒に振る」行為に、どのような理由付けが可能なのでしょう)
俺が「写楽」だ!
三代目・菊五郎
文政六年四月三日、芝居を見物していた大田南畝のもとに人気役者三代目の尾上菊五郎が挨拶に来たそうです。櫓中の注目を一身に集めた南畝は大層ご機嫌で菊五郎に自慢の狂歌を贈りました。この年の三月中村座で初演された『浮世柄比翼稲妻』が出し物だったそうですから菊五郎は鈴ケ森で有名な「白井権八」の扮装だったのかも知れません。(幡隋院長兵衛役は、もち論、市川団十郎です)それから僅か三日、七十五歳の大田直次郎は眠るように旅立ちました。写楽に擬される阿波松平家お抱え能役者・斎藤十良兵衛が、江戸八丁堀地蔵橋で亡くなってから三年後のことでした。(「能役者」説に関連する、もう一つの資料に『諸家人名江戸方角分』があるのですが、こちらについては別のページで疑問を提示してあります。興味のある方は覗いてみてください)
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