小説「東洲斎写楽」が誕生した日                          サイトの歩き方」も参照してください

ここからのお話は、別のページで試みた実証の続きではなく、管理人の、随分と頼りなさを増しつつある脳味噌のどこかに一瞬キラリと閃いた妄想を、小説のような形で書き進めたもので、世の中に溢れている「写楽研究」の文章ではありませんので、お間違いのないように願います。ただし、ここに登場する人物は、すべて江戸・寛政期に実在していた人たちであり、地の文に出てくる書物なども架空のものではありません。さあ、いらっしゃい、いらっしゃい、お代は見てのお帰りだよ!!

 前書き 

写楽の謎について書いた別のページ(「東洲斎写楽を探せ」)を読んでいただい方にはお分かり頂けると思うのですが、このページだけをご覧になる皆さんのために、何故「小説」の形で書くことになったのかを少し、説明しておきます。東洲斎写楽という浮世絵師は寛政6年(1794)5月、突然、江戸の出版界に現れ、10カ月ほど活躍した後、忽然と姿を消しました。これまで多くの人が写楽別人説=つまり、誰か他かの人が「写楽」という名前を使った=を発表しており、その中で写楽だとされた人物は実に30人近くにもなっています。そして調べられる範囲で、主だった人物と写楽自身との落款(らっかん=本人の署名)を比べてみた結果、その何れの人物の筆跡とも一致しませんでした。

もう、手掛かりは無いだろうと殆どあきらめていた時、管理人は、次に紹介する「字」と、偶然出合ったのです。それは安永8年(1779)に発刊された『役者手鑑』(やくしゃてかがみ)という歌舞伎関連の書物で、そこには「湖龍斎画」という文字が踊っていました。(写楽や他の人物の落款は別のページ(「落款の謎」を参照してください。下で紹介している写楽の落款には明確な相違があります。皆さん御自身の眼で探してみて下さい)

  「画」「斎」の字に特色が見られる   写楽の落款

ここから管理人の独り勝手な思い込みが始まり、この礒田湖龍斎(いそだ・こりゅうさい)が写楽である可能性について考えてみたのです。まず、湖龍斎という絵師が安永年間まで活躍したことについては確認できたのですが、写楽が登場した寛政年間まで生存していたのかどうかは、資料がなく確かめる事が出来ませんでした(彼の生没年は不明。海外のサイトの一つでは湖龍斎の活動期間を1766〜1788と断定していますが、その根拠は示されていません)。ただ、美術史的に見た場合、湖龍斎という絵師は「鈴木春信に絵を学び、大判錦絵の開拓者となった」人物で「リアルで彫像的な表現を得意とする18世紀後半の代表的な絵師」ということなので、絵画に関しての力量は十二分にあります。

そして、この湖龍斎は枕絵(春画)も得意としていたこともあり、これまで誰も正面きって写楽との関係で取り上げたことがありませんでした。ただ、役者絵や相撲絵も描いたという彼が、もしも写楽だとしたら面白い。そんな動機から「小説・写楽」を書いてみることにしたのです。以下の文章は、まったくの創り話であり、証明された事実ではありません。でも、何故、変名を使ったのか、何故、人気役者でもない都座・座元の浮世絵が存在しているのか、何故、1年足らずの間だけ活躍してすぐに消えたのか、無名の絵師に何故金のかかる出版が認められたのか、そして、何故、当事者のすべてが写楽の正体について語らないのか、といった謎にある程度答えることは出来ます。

第1幕・伝内からの使い、の場面

寛政5年が暮れようとする12月も押し詰まったある日の夕刻、一人の男が蔦屋(重三郎)の裏木戸に立ち、店の奥を窺がうように遠慮がちな声を掛けた。

「どちらさんで?」

「はい、葺屋町から来ました者で金作と申します。うちの伝内から蔦屋の旦那へ書付を持って参りました。どうぞ、お取次ぎを」

都座・伝内からの書面には、この秋に妻を無くした山東京伝(さんとう・きょうでん)への悔みが丁寧に記され、正月には年賀の挨拶にと思ってはいるのだが、何やかやとゴタゴタ続きの毎日なので、行けるかどうか未だ分からない。ところで日取りはお任せするから、京伝さんと蔦重さんに、是非折り入ってお話したい事がある、何とか都合をつけてもらえないか、とある。

「伝内さんに、年が明けたらお返事します、と伝えておくれ」

「はい、伝内に、そのように申し伝えます。では、ご免ください」

若い者を見送った蔦屋の顔が心なしか曇り勝ちに見えたのは京伝の事が気になっているからに違いない。3年前、やっとの思いで添い遂げた妻・お菊を、この秋、病気で失った京伝は、一時、腑抜けのようになり、折角開いた煙草屋も人任せの有様だった。なだめすかし、おだてあげ、やっと此の頃になって得意の絵文字入り引き札(広告ビラ)を描くようになったばかり。芝居小屋からの招きに果たして二つ返事で応じてくれるかどうか、思案顔の蔦屋である。

松飾も取れ、そろそろお屠蘇気分も抜けようかという寛政6年正月の下旬、都座の伝内達が行きつけの小料理屋・二階に設けられた宴席に蔦屋と京伝が揃って顔を見せている。朝方からちらほらと降り続いていた白いものが、あと少しで屋根瓦を蓋い隠すほどになり、時たま軒先から路地にしたたり落ちる雫の音が微かに聞えて来るのは、闇が迫った証なのだろう。常連客が「大舞台」とふざけて名づけた二間幅の床の間を背にしているのが京伝で、顔色はやはり冴えない。蔦屋にしたところが渋る京伝を浮世の義理だとかなんとか丸め込んで連れては来たものの、伝内の手の内がさっぱり読めない、頼まれ事には違いないのだが…。型どおりの挨拶が終わり、仲居を下がらせひとしきり世間話が続いた。

「なんですねぇ先生も、蔦屋の旦那も、そんな小難しい顔ばかりしてないで、まぁ、おひとつ、ぐいっとやってくださいよ。折角、こうして三人が久しぶりに顔を合わせたんですから」

「そんな気分じゃねえんだよ伝内さん、今の、俺は…。重さんだって、そんなにかわらねぇだろうよ、きっと」

「…、まあ、あたしは、別に、何もそういう訳じゃありませんがね。それにしても、晴れの大舞台を前にして、野郎が三人雁首揃えて座り込み、井戸端会議の真似事とは、なんとも色気のない話じゃないか、えぇ」

伝内の当り障りのない無駄話を聞き流し生返事を繰返す蔦屋の横で、一人手酌で呑んでいる京伝の脇息が、少しずつ船を漕ぎはじめたのは、彼が苛立ってきた兆しである。しばらったって、痺れをきらした京伝が杯をぷいと膳に置き、切り出した。口調に棘があるのは承知の上のようだった。

「で、一体今夜の趣向は何だね。言付けじゃあ何も詳しい事も書いてなかったようだが…、こう見えても煙草屋の仕事が、此の頃、結構忙しいんだよ」

「それはそれは結構なことで、やっばり先生の腕がモノを云うんですねぇ、いや、あやかりたいものですよ」

「おだてたってダメだよ、今は、もう、人様のことをあれこれ考えていられるようなご身分じゃない、俺一人のことでさえ持て余してるんだから」

第2幕・五月の節句に「曽我祭り」、大評判

芝居小屋を度重なる火事騒ぎで焼失、その都度金主・地主の間を飛びまわり、米搗きバッタのように拝み倒して資金繰りに目処をつける毎日だった。今回も小屋の再建になんとか目鼻を付け、主だった役者連中との二年越しの給金交渉もあらかた終えた。ぐずっていた役者たちも『小屋を潰して、一体どこで芝居が出来るというんだね』という伝内の一言で渋々引き下がり、夏までに歌舞伎大芝居の興行を打つ算段にとりかかろうとしている最中なのだ。そんな折、訪ねて来たのがあの娘だった。

 都伝内  幸四郎 子猫  曽我祭り  PR

「実は、今日、わざわざお運びいただいたのは他でもありません、この伝内、京伝先生に、是非ともお願いしたい事がありまして」

「ちょっと待った、大体、お前さんほどの人が改まってお願いなんて云うときは、碌なことがあった験しがねぇ、ちょい待ち、ちょっと待ってくれ。その、お願いの中身が何だかしらないが、家内を亡くしてまだ半年にもならねぇんだ、分かるだろ、なんにもやる気にならねぇんだよ今の俺は。何も、したくねぇ」

滅多に弱音を吐かない京伝の台詞が蔦屋の胸に突き刺さった。天明2年『御存商売物』が大田南畝(おおた・なんぽ)に激賞され、以後、京伝の戯作者としての評価は鰻登りに一作ごとに高まり、本人も、自分の才を疑わず時代の寵児としてもてはやされた。お上の締め付けが厳しさを増す中、書き渋っていた京伝に無理を承知で書かせたばっかりに、きついお咎めを受ける羽目になったのは寛政3年のことだった。洒落本として題材にも注意を払い、教訓読本と銘打った工夫が裏目に出た。

「いや、先生、そうじゃないんで。おかげさまで役者連中との掛け合いも終わり、大工・左官の手配もなんとか目処がついたもので、この五月には、やっと芝居興行が打てそうな塩梅」

「そりゃあよかった、また、大芝居が見物できるのなら、今年は、ひょいとして良いことがあるのかも知れないねぇ」

「旦那、そこなんですよ、今日のお題目は」

「芝居のお話かね」

「そ、そう、芝居の、お話で」

座元・伝内の話は、こうである。地主、金主たちとの話し合いも収まるところに収まり落ち着いた。今、大工の棟梁に図面も渡して新しい小屋の手配をかけてもらっているので三月もすれば舞台が出来上がる。そこで、ちょっと時節はずれが気にはなるが、秋まで待っている訳にも行かないので、どうしても五月の節句に合わせて一興行打ちたい。演目は曽我物に決めている。多分、他の座元たちとも話しがつけば三座で揃って曽我物興行ができるようになるだろう。そこで、きっと大入り間違いなしの仕掛けを京伝先生と蔦屋の旦那に考えてもらいたい、というよりお二人のお力が拝借したいのだ。

 一口メモ 曽我物=仇討ち話を中心にした芝居全体のこと 

「何しろ、御存知のように、うちもよそも、いや、今、櫓(やぐら)は、どこもかしこも火の車。大借金で首どころか、眉毛ひとつ回らない。このまんまだと江戸大芝居も、もう、お先真っ暗。是非是非大入りの名案を」

と伝内が云ったかどうか。

「なんとも、小難しい話じゃねえか、とても素面のまんまで聞いてられるような話じゃねえなぁ。おーい」

京伝が手を挙げて仲居を呼ぼうとしたとき、隣り部屋を隔てていた襖がすっと開いて男が一人部屋を覗き込んだ。

「ああ、伝内さんには、まだ顔見世を済ませてなかったっけなぁ。俺の弟分で、今、重さんとこに厄介かけている滝沢だ。ひとつ、ご贔屓に。悪いな、酒を三本、いや五本もってきておくれ」

「はい、お師匠。…私は滝沢ではなく、ただの馬琴です。」

「おや、そうだったね馬琴さん、でも、その師匠っていうのは止めとくれ、何度も言ってるじゃないか」

「はい、お師匠」

滝沢と呼ばれた男は表情も変えず、身体の陰に隠すように置いてあった盆から湯気のたっている二号徳利を2本、それぞれの膳の前に置いて、後は何も言わずに襖を閉じた。

「随分と気の効いたお方のようで」

それでなくとも細い伝内の鋭い眼が、より細くなったように見えたのには訳がある。その事をなにより誰より知っているのは蔦屋自身であることも。

常日頃「物書きに師匠はいらない、物書きに弟子はいらない」と公言していた京伝が、何を思ったのか滝沢に入門を許したのが寛政2年秋。翌年『仕懸文庫』など三冊の出版についてお咎めを受けた際、蔦屋は、なんとか処罰の対象を自分一人で済ませようと白洲の場で、ひたすら恐れ入ったのだが、その時、取調べにあたる役人の態度が、それまでとは微妙に異なり、彼等の表情には自信のようなものさえ見え隠れしていた。出版に到るまでの経緯や、出版にあたっての宣伝、本の仕様などについても蔦屋は、すべて自身の一存でございます、と繰り返し証言したのだが、役人たちは鼻先で笑うように退け、『京伝が、既に、このように申し立てておる』と証言記録を眼の前に突きつけ、洒落本の出版が共同合議であった事実を認めさせられてしまったのだ。後に、落ち着いてから京伝は「あいつら、何からなにまで知ったうえで、吟味してやがった」と述懐している。その出身が旗本御家人であり、京伝の最も身近に居た事から、誰言うわけでもなく滝沢の存在が噂の種になった。

「うちで手代のようなことをやってもらっているんだよ、あの、御仁は」

「ああ、俺が頼み込んだんだが…、いやいや伝内さん、ご心配なく、確かにあいつは、いろいろ外じゃあ云われているようだが、そんな男じゃない。そいつは俺が極めを押すよ」

「まさかねえ、それで座元は、先生とわたしに、一体、どうしろと」

「それそれ、5月に芝居とは、ちょっと時期はずれ。そこで、勝手にお祭りでもやってしまおうかと」

「一体、なんのお祭りかね」

「ええ、曽我祭りっていう趣向は、どんなもんかと。役者連中、お囃子、踊り子から小屋掛かりの者みんなで、そこいらじゅうを練り歩く算段で。それに、京伝先生のお店にあやかって、うちでも、ちょいとした摺り物を出してはどうかと考えておりましてね」

「錦絵かい」「役者絵かい」

「お察しの通り」

「役者絵なら、いつものように主だった役者さんや出し物なんかを摺るんだろう?それとも、誰か、気に入りの絵師を連れてきて欲しいっていうことなのかね」

「いやいや、もう、段取りは出来たも同じなんですよ」

「なんだい、えらくもったいぶった言い方をするじゃないか、気になる台詞だねぇ」

京伝の機嫌も少しは良くなったらしく、盃を茶碗に取り替えて話を聞く様子。座元は先ほどから膝の横に置いてあった風呂敷包みをほどき、その中から選った一枚の下絵を取り出し、二人の真ん中に押し広げ、行灯の明かりも二つ脇に添えた。伝内の目付きが、どことなく二人を窺がう気配になったようにも思われた。

 

「こりゃあ、四代目の肴屋だろう。でも、見立てにしても、えらく彫りの深い顔に仕立てたねぇ。きっと四代目は気に入らないと思うよ、これじゃあ。でも、一体、誰の手だい?」

「うちの麻呂さんじゃないし、春朗でもなし…、でも、なんか、知らないお人じゃないような」

そう云った蔦屋の脳裏を、つい、この間年始の挨拶に訪れた喜多川歌麿の一言がよぎっていた。『蔦屋さんには本当に、これまで随分お世話になりました。あたしも、それじゃあいけないって、よく、此の頃、思うようになったんですよ。いつまでも蔦屋さんのご厚情に甘えてちゃあいけない、ってね』歌麿の『婦人相学十体』が大当たりしたのは寛政4年、翌年にも『歌撰恋之部』で彼の絵は上々の評判をとった。だが、例のお咎めから、歌麿に限らず、これまで蔦屋の子飼いだった絵師や堀師、戯作者の連中も、なんとはなしに他人行儀な物言いをするようになり、いつもなら時分の食事をたいらげ、酒の一つも呑んでから話に入る商売相手も、要件だけでそそくさと立ち去ることが多くなった。それもこれも皆、お上の意向を気にしてのことなのだろう。

「お二人が、よく、ご存知の絵師ですよ、お分かりにならないのは、無理もありませんがね。もう、お忘れになった方のほうが多いかも知れません、最近、滅多に人の口端に登らないようですから」

「分かった分かった伝内さん、降参します。それで、この絵をどうしろと言うのかね、私たちに」

第3幕・湖龍斎の願い事とは

30枚近い下絵を部屋中に広げ、膳も取り払った座敷の中央に座り込んだ京伝が、ため息混じりに呟いた。

「へーっ、これが湖龍斎の手とはねぇ、それに、まだお江戸にいたとは知らなかった、もう、随分以前に上方へ帰ったもんだと思っていたよ」

「薬研堀に居たんじゃあなかったかね、あの人は」

「流石に蔦屋の旦那は、よくご存知で、今は、八丁堀に移り住んでますがね」

伝内の語るいきさつとは、こうである。寛政5年(1793)11月、葺屋町の小屋が焼け落ちて間もなく、一人の娘が座元を訪ね、思いつめた顔付きで、ある人からの書き物を預かってきたので是非とも読んで欲しいという。差出人の名は礒田湖龍斎とあり『この手紙を持参したのは実の孫娘である。実は、私も寄る年波で、後、何年お天道様を拝めるものか不安な毎日を送っている。私のことは別にして、お江戸にたった一人の身寄りも無い孫娘の先行きだけが心配でならない。この孫娘だけは自分の眼の黒いうちに上方の親戚の許へ送り、なんとか生活が成り立つようにしてやりたいのだ。突然の無心が筋違いであることは重々承知している。この手紙も、何度、止めようかと思い悩んだ末に、やっとの思いで持たせたものだ。私の行く末はどうでもいい。私は、自分で好き勝手に今日まで生きて来たのだから。身勝手な無心だと重々承知の上でお願いする。他に頼る人もない。どうか私への香典だと思って、是非是非聞き届けてもらいたい』

「それで承知したんだろう伝内さんは」

「ええ、知らない仲じゃ、ありませんからね、あの人とは。ただね、あの人の為を思うと、はいそうですか、と金子を渡してしまうのも芸のない話じゃないですか、ねえ、先生」

「それもそうさなぁ、そこで役者絵かい」

人づてに聞いた所では、裏店にくすぶってはいるものの気は確かで筆も棄てた訳ではないらしい。伝内はその時、何も深く考えず適当に歌舞伎恒例の演題と、思い付く役者連中の配役を一通り書き出し、湖龍斎に届け、香典ではなく画料だといって五十両を奮発した。それが、5月の曽我祭りの摺り物に使える、という事らしい。

「なるほどねぇ、世の中、不思議な縁(えにし)があるもんだ」

「伝内さん、今年の年行事が私になることを何処でお聞きになったんです?」

「いや、それは、旦那、持ち回りと…」

「まぁいいでしょう。あの人の名前を使う訳にはゆかない、そうなんですね」

「実は、そこのところが難題でして…」

極めを付けるとすりゃあ、誰かの名前がどうしてもいるぜ、重さん。そうだろう」

「お上のご意向は、必ず本名を、ということですが、枕絵じゃないんだから、そこまで詮議されることはないでしょう」

「それじゃあ蔦屋さん、この絵、摺ってくださるんで」

「そのつもりで見せたんでしょう、伝内さんは」

「いやー、お見通し、お見通し」

 一口メモ 極めを付ける=当時の浮世絵は、お上の意向に沿った内容のものであり、風紀を乱すようなものではない、という
 意味で検「印」を付けなければならなかった。この「極」印は出版業者が持ち回りで務めており、その役を「年行事」と呼んだ。

京伝の発案で、幾つかの下絵は、役者の表情を最大限に描写できる湖龍斎得意の大版に仕立て直し、雲母摺りの豪華版で最初から何版も摺り置きにして、伝内の云う「曽我祭り」で道行く人々にも配ることにした。また、費用についても『お上からの内々のお達しで、既に役者の給金を半分近くに減らすことが決まっている』とのことで、摺り上がりは全て伝内が買い取ることで話がついた。構図や役者の表情についてもお祭りなのだから、今までの役者好みの無難なものばかりではなく、少少、誇張したほうが見た目も面白いと言い出したのは誰だったのか…。

日もとっぷりと暮れ、帰り支度を始めた三人だったが、忘れ物をしていることに気がついて、はたと顔を見合わせた。

「ところで、その、名人の名前はどうするね」

おらく、って云うんですがね、名前は」「誰の?」

「その、湖龍さんの、無くなったおかみさんが」「ほー」

「で、湖龍さんが言ってるらしいんですよ、生き写しだって。例の、孫娘が」

「決まりだな。おらくさんに生き写しなんだろう、それじゃあ写楽でいいじゃねえか、えぇ。誰かさんの向こうを張って東洲斎写楽、こりゃあ洒落た名前だ、きっと売れるぜ、なあ、重さん」

久しぶりに晴れ晴れとした顔付きを見せた京伝に頷いてみせた蔦屋の脳裏をかすめた悪い予感が、5月の曽我祭りで「お咎め」の形になって現れることを三人は未だ知らない。(おわり)

写楽誕生の「お話」は、ここまでです。最期に、もうひとつ。別のページで検証した『増補浮世絵類考』(斎藤月岑)の記述で、大変気になる言葉があるので紹介しておきます。この類考は、現在では写楽研究の基本的な資料だとされているようなのですが、そこに『写楽、天明寛政年間の人』とあって「天明」(1781〜1788)年間にも写楽が活躍したかのように記されていることは、研究家の間で余り問題になっていません。「天明」とは写楽が浮世絵を書き始めたとされる寛政6年(1794)からみて十年以上も遡る時代であり、この月岑の記述が(と言うより誰かから得た情報、聞き書きの内容)正しいのだとすると、写楽という絵師は別の名前で、相当以前から浮世絵を描いていたことになります。また、これも研究者の間でも余り取り上げられることがありませんが「風山本」(1821)と称される増補類考には『写楽、東洲斎と号す。俗名金次…薬研堀不動前通りに住す』という記述もあります。さてさて、誰の言うことが真実を伝えているのか。皆さんも、写楽探しに出かけては如何でしょう。最期の最期にこじつけ話をもう一つ。別のページで十返舎一九の凧絵を取り上げましたが、その絵に添えられた文章の中に『おいらもたこならきさまもたこ』という自虐めいた台詞が含まれています。「凧」と「たこ」が掛けてある言葉の遊びですが、その意味合は明らかに批難と卑下を含んでいます。では、若し、写楽がそのように批難されるべき(一九から見て)存在であったとするのなら、その理由は一体、なんだったのでしょう?それはさておき、湖龍斎の苗字は礒田と言いましたね、では「礒 田湖 龍斎」と書いてみたらゴチックの処はなんと読めるでしょう??

 後書きの付けたし 

写楽に限らず、江戸期の浮世絵を語るとき斎藤月岑を「時代考証家」として紹介している記述が多く見受けられます。勿論、彼が「考証」をしていることに異論はないのですが、斎藤自身は唯の町人(町名主)に過ぎません。また、逆に言えば斎藤だけが当時の町名主だった訳ではないのですから、時代考証を進める上で、他の町人・武家の「日記・覚書」をもっと研究するべきだと思います。また、写楽だけに限って言えば、当時、あのような形で描写された歌舞伎役者の家にこそ、写楽の正体を探る一級の資料が伝えられているのではないでしょうか。

       

東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

     
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