東洲斎写楽は恋川春町を知っていたか?                                             「サイトの歩き方」も参照してください。

雲母(キラ)摺りの歌舞伎役者大首絵二十数枚を引っ提げて東洲斎写楽が江戸の町に現れたのは寛政六年五月、恒例の曽我祭に合わせた蔦屋の企画物に飛び付いたのは芝居好き、役者好きの人たちばかりではなかったようです。同時代の生き証人とも言うべき大田南畝(1749〜1823)は寛政期に書き留めた『浮世絵考証』の中で、

  これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を描かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む

と簡潔に事実のみを述べています。写楽の描いた役者の似顔絵は「真」に迫るものがあり、余りにも「あらぬさま」に描いたばかりに人気も長続きはしなかったとも回想している訳ですが、この「あらぬさま」が「ありのままではない」という意味ではなく「(誰かにとっては)望ましくない」というニュアンスを込めたものであったとするなら、歌舞伎役者たちからの不評が噴出していた可能性も否定できません。美人画とは異なる範疇の版画であったとしても、人気商売の役者たちにしてみれば「真に迫る」素顔に近い表情よりも「美しく着飾った人形」の様な麗しい似顔画が、より望ましい物であったことは間違いありません。歌舞伎好きという事では人後に落ちなかった南畝ですが、彼は、早くから文才に恵まれ学問に勤しむ一方で江戸狂歌の発展に少なからず寄与しています。最晩年とも言える文政四年(1821)に記した随筆『奴師労之(やっこだこ)』の中にも、南畝が唐衣橘州(田安家家臣、小島謙之、1744〜1802)の屋敷で初めて開かれた狂歌の催しに参加した様子が綴られていますが、それが明和六年(1769)のことで、南畝自身は既にその二年前狂詩狂文をまとめた『寝惚先生文集』を上梓して文壇の注目を集めていました。お江戸ではここから所謂、天明狂歌と後に呼ばれる一大ブームが巻き起こるのですが、世情は凶作飢饉打ちこわしなどにより必ずしも落ち着いていた訳ではありません。武家と町人が同じ場所で暮し、消費社会を構成していた江戸という、むしろ混沌カオスとも言える時代の背景が「正統」な純文芸ではなく黄表紙、川柳、狂歌(詩)などの俗文化を育んだと云えるのかも知れません、それはさておき。

奴師労之   金々先生

十八世紀という時代は赤穂浪士たちの吉良邸討入り(元禄十五年、1702)事件が幕開けとなったのですが、それから少しして紀州藩の徳川吉宗(1664〜1751)が第八代征夷大将軍として徳川宗家を継いで江戸城の主となりました。彼は参勤交代制度の緩和を含めた「享保の改革」を行い、タガの緩み始めていた幕府の足元を何とか一度は固めなおした「名君」だという評価がありますが、百姓たちは一律に増税を課せられたため困窮して一揆も頻発するという事態も惹き起こしています。吉宗の跡を継いだのが家治、そして有名な田沼意次が老中にまで出世したのが1772年のことでした。天明の大飢饉は1782〜1787年にかけての事で、昨今注目を集めている浅間山の大噴火(1783年4月)は天変地異の象徴のような出来事として江戸庶民に受け取られていたのかも知れません。正に「激動」を繰り返す時代の真っただ中にあった訳ですが、人々の志向・嗜好の流れと云うものは又微妙に不思議なもので、武士階級からも江戸文化・風俗を描き多くの町人たちから評判を得る戯作者が現れたのです。その代表格とも言える人物が、安永四年(1775)恋川春町のペンネームで『金々先生栄花夢』を出版した駿河小島藩藩士の倉橋格(通称・寿平、1744〜1789、狂名は酒上不埒)だったのですが、皆さん、上右画像で示した「画工」の文字にどこか見覚えがありませんか?

 倉橋格:主家は一万石の身代に過ぎない小藩だが、江戸藩邸において側用人など要職を務め、最終的には百二十石取であった。彼は、文才に秀でていただけでなく、
画業も巧みで、浮世絵は妖怪画で知られる鳥山石燕(1712〜1788)に学んでおり、出世作の挿絵も自分で描いている。また、恋川春町の筆名は、小島藩の江戸屋敷が
小石川春日町にあった事から付けたものだと伝えられている。[武鑑にある藩屋敷の住所は『富坂』となっている]喜多川歌麿、栄松斎長喜とは兄弟弟子の関係になる。

オノコロ・シリーズでは、過去十年余りの間、筆者が関心を持ち続けている東洲斎写楽に関わる幾つかの謎に纏わる記事を紹介してきました。写楽の自筆署名だと思われる「落款」についても何度か取り上げてみたのですが、彼が残した「画」の字体には一目で分かる大きな特徴があり、写楽が他の人物の別名だと見る場合などには、双方の落款を比べてみることで当否が判断できると今でも考えています。では、以下に幾つかの署名そのものを上げてみます(註:ネット上には沢山の写楽の浮世絵版画が掲載されており、その中には複製品も含まれています。それらの複製品の中には[正しい画の字体]に直したものがあります。つまり[正しい画]の落款があるものはオリジナルでは無いという事です)

市川三舛  坂東三津五郎  大谷鬼次  「画」の字に特徴がある

柳巷訛言  狂歌本より  「武鑑」   PR

一見して両者の書体が似ている事が良く分かります。本来「画」という漢字は「一」「由」が「凵(かん)」の上にありますが、写楽は「由(ゆう)」ではなく、明らかに「田(た)」という文字を「凵」の中に入れています。また、その「凵」という部分もアルファベットの「L(エル)」のように直角に書くのではなく「左上から右下に斜めに線を引く」癖があるのです。比較のために用意した『柳巷訛言(さとなまり)』は春町の盟友とも謂うべき朋誠堂喜三二(出羽国、久保田藩士、1735〜1815、狂名・手柄岡持)が天明三年(1783)に上梓した噺本に恋川が挿絵を描いたものですが「凵」の止めの部分にある「撥ね」を除けば、二人の書く「画」の字体はほとんど「瓜二つ」と云っても良いでしょう。では、同時代の画作者である著名な恋川春町が寛政に入って東洲斎写楽の名前で役者絵を発表したのだと考えられるのでしょうか?残念ながら、その推理を是とすることは出来ません。理由は至極簡単で、1789年に没した恋川が1794年に浮世絵を描くことは不可能だからです。ただ、倉橋の最期については謎が無い訳ではありません。

久保田藩の江戸留守居役を務める平沢平格(筆名・朋誠堂喜三二、狂歌名・手柄岡持)は、天明八年(1788)松平定信の改革を揶揄した『文武二道万石通』を発表して喝采を浴びます。彼の仕事ぶりに強く共感した倉橋は、その続編とも云うべき『鸚鵡返文武二道』を寛政元年に蔦屋耕書堂から出版します。その売れ行きは曲亭馬琴が『近世物之本作者部類』の中で「流行此の二編に勝るものなし」とまで評したほどで、江戸中の人気を独り占めにする勢いだったのですが、この世情の動きは当然改革を推し進めている定信の耳に入らない訳がありません。馬琴は、黄表紙の大評判に加えて以下の様に書き留めています。

  鸚鵡返し文武の二道(北尾重美[ママ]畫、天明九年正月出つ。三冊者蔦屋重三郎板)彌益行れて、こも亦大半紙摺りの袋入にして、二三月頃まて市中を賣あるきたり。
  (流行此前後二編に勝るものなし)當時世の風聞に右の草紙の事に付て白川侯へ召されしに、春町病臥にて辭して參らず。此年寛政元年己酉、七月七日没。年 若干。

大正期の新聞人・宮武外骨(1867〜1955)も『青本年表』という資料の「寛政元年の項」を引用した形で、恋川春町が「筆禍」に遭い「秋七月をもって不帰の客となった」と自らの著書『筆禍史』(明治44年5月刊)の中で述べていますが、馬琴が伝えた「白川侯」との確執については何も触れていません。彼が春頃に呼び出しを受けたものの出頭には応じなかった事実があったのかどうか?今一つはっきりとしないのです。確かに松平定信の側近である水野為長(1751〜1826)が残した『よしの冊子』には、定信が未だ老中職に在った「寛政元年四月下旬」秋田藩の佐竹義和に会った際、

  ご家来の草双紙を作り候ものは、才は至極これ有り候様に聞こえ候えども、家老の才には、これある間敷く

と苦言を述べたため、佐竹侯が「差し置き難く=黙って見過ごす訳にはゆかず」「国勝手に申し付けた=国許への転勤を言い渡した」らしいようだ、と書かれてはいるのですが、倉橋の主君である松平信義に「家臣を出頭させて欲しい」と申し出たとは一切記録されていないのです。そして、余り知られてはいませんが、老中と将軍補佐の職を辞した定信は自藩の経営に専念する一方で文化的な活動にも積極的に取り組み、文化二年(1805)には江戸の職人たちの物づくりの世界を画家の鍬形寫ヨ(浮世絵師時の筆名は北尾政美、山東京伝の弟弟子、1764〜1824)に描かせたりもしています。それが『近世職人尽絵詞』(全三巻)と云われる肉筆画集なのですが、各巻にはそれぞれ大田南畝(杏花園)、平沢平格(手柄岡持)そして山東京伝の三名が詞書を寄せているのです。これを双方の「和解」大団円と見るべきなのか、それとも偶然の一致なのかについての判断は読者の皆さん御自身にお任せしたいと思います。蛇足ですが、春町の遺作となった『鸚鵡返文武二道』の挿絵を描いた絵師は鍬形寫ヨその人だったのです。

定信は十五歳の年、奥州白河藩松平氏に請われて安永三年(1774)に養子となりますが、同じ年生家の田安家を継いだ兄の治察が僅か二十一歳で急死します。慌てた田安の関係者は松平氏との養子縁組を解消して聡明な定信を第三代当主にするべく幕府に働きかけたのですが、御三卿の家督相続に関わる決め事を理由に許可とはなりませんでした。そのため田安家では1787年まで十数年間も当主が不在という異常事態が続くことになったのです。飢饉による騒然とした世情をよそに唐衣橘洲は天明三年正月、自選の『狂歌若葉集』を出版して四方赤良の『千載狂歌集』と競い合いを演じました。同じ年の十月、定信は白河藩主となりますが、父や兄に仕えた家臣のこのような生き方は彼の眼に一体どのように映っていたことでしょう。

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