写楽と「写楽斎」は本当に同一人物なのか?                  サイトの歩き方」も参照してください

別段、とりわけ歴史に興味があった訳でもなく、学校で教わる日本史は年号や地名・人名そして煩瑣な出来事など、無味乾燥な文字列を覚えることにだけ時間を費やしているようで面白味を感じることもなかった。そんな男が浮世絵というか写楽という絵師に関心を持ち始めたのには何か特別の理由があっても良さそうなものだが、これといって思い当たる節もない。恐らく、高校時代に古文や現代国語を教えに来ていた若い非常勤講師が、授業そっちのけで少しく熱く語った『謎の人物云々』の話しぶりが心地良い思い出の一つとして心の片隅に残っていたのかも知れない。それから十何年かの月日が経ち、いつも通り通勤の満員電車(正確には地下鉄)に否応無く押し込まれ、身動きもままならなくなった、丁度その時、目の前に宙吊りの黒っぽいポスターがぶら下がっていた。それが写楽との再会だった、ように思う。出張で訪れた或る地方都市、用件は商工会議所大ホールで早々に済ませたのだが、その通りを挟んだ向かい側に、出来たばかりなのか、周囲とはそぐわない妙に凝ったデザインの白っぽい建物が聳え立ち、男の関心を惹いた。何気なく近づくと、入り口と思われる場所に派手な看板が立て掛けられ『開館記念特別展示・東洲斎写楽の世界』『特別講演・写楽が見つかった!!』の文字が躍っていた。見覚えのあるポスターの役者が見得をきりながら路行く人々に無言で呼びかけていた。

お馴染み「奴江戸兵衛」  絵師便覧より  斎藤写楽の名

寛政六年(1794)五月、江戸・河原崎座で演じられた『恋女房染分手綱』に出演、奴江戸兵衛の役柄で人気があったと言われる三代目・大谷鬼次の一枚は余りにも有名だが、写楽という絵師そのものが当時から「上手」として庶民に受け入れられていた訳ではないらしい。そもそも、写楽を「芸術家」として最初に取り上げたのが外国の批評家であり、国内の美術関係者の間でも写楽などという絵師の存在そのもの自体が知られてはいなかったと云う。今でこそ、北斎や歌麿そして豊国などと並び称されるほどの「有名人」だが、恐らく錦絵の好きな江戸っ子でも、彼の名前を知っていたのは、ホンの一部の好事家たちだけにとどまったに違いない。江戸の後期を代表する知識人で文芸にも明るかった大田南畝(おおた・なんぽ,1749〜1823)は寛政二年頃、つまり写楽の絵が売り出される数年前に『浮世絵類考』という、いわば絵師の解説書を著しているのだが…。

と、ここまでは常套手段の「小説もどき」な書き出しで皆さんの興味を惹いたつもりなのですが、謎解きは幾つになっても楽しいものです。学者先生や何々評論家さんたちのように証拠主義一点張りで「論」を推し進める訳には行きませんが、写楽にまつわる幾つかの「謎」について、考えてゆくことにしましょう。まず、写楽が外国人によって「発見」されるまで、彼の浮世絵は世間で殆ど評価されていなかった、と云う通説についてですが、確かに、クルトの『SHARAKU』(明治43年刊)が写楽再評価の大きなきっかけにはなっていますが、それ以前の国内美術界で写楽が「全く知られていなかった(評価されていなかった)」と言うのは明らかに間違いです。何故なら、浮世絵研究の先駆けで『葛飾北斎伝』を著している飯島半十郎(1841〜1901,虚心)が、明治二十六年九月に出版した『浮世絵師便覧』(上左の画像参照)には、

  写楽=東洲斎と号す。俗称八郎兵衛、一に十兵衛

として紹介されていますし、それから三年後の明治二十九年十二月、吉田竹次郎が編集した『諸画家系譜鑑及年代図形高評品』(上右の画像)という出版物でも、写楽は、

  斎藤写楽=東洲斎、天明

と「浮世絵の部」に明記され「高評品」作家の一人に上げられているのです。更に、経済雑誌社が明治三十三年四月に発売した『百家系譜』という各界の系図集の中でも写楽は「伝統未詳」の一人としてではありますが、ちゃんと紹介されています。つまり、明治の末期頃まで写楽が「無名」の存在だったというのは誇張した言い方で、彼の名前も作品も「その筋」の人たちからは正当な扱いを受けていたのです。そして、その唯一とも謂える支えとなっていた書物が、先に見た「類考」なのですが、最近では、もう写楽探しは終わった、と言わんばかりの「説」が大流行のようです。それは「類考」にあった書き込みを根拠とした「写楽能役者説」なるものなのですが…。では、二番目の謎「写楽とは誰なのか?」について考えて行きます。

明治の中期に刊行された『浮世絵師便覧』『諸画家系譜鑑及年代図形高評品』などの本は、明らかに斎藤月岑(さいとう・げっしん,1804〜1878。神田の町名主。父親と大田南畝との間には交遊があったとされる)の「増補浮世絵類考」にある写楽の紹介文を無条件に踏襲しています。また、当時の美術界にあっては「写楽」の俗称も「斎藤」である、という認識が一般的であったように思われます。つまり、これも月岑の「増補」類考を典拠にしたものと考えられます。また「系譜」での紹介順は、喜多川歌麿北尾重政の間に置かれ「天明」と活動の時期が示されていることは注目されます。(くどいようですが写楽の絵が発売されたのは寛政六年です)

浮世絵類考」は、いつ書かれたものか

上でも触れましたが、現在、蜀山人・大田南畝が認めた浮世絵師に関する私的な覚書『浮世絵類考』が、写楽に関する唯一と言っても良い手掛かりなのです。つまり、それ以外には写楽について書かれた文献資料は残されていない(見つかっていない)という事です。では、その書物には、一体どのような文言が書かれているのか、気になりますよね。直ぐにもご紹介したいところですが、その前に「類考」の説明をしておきます。何故なら、この書物は一人の人が或る時期に内容の全てを書き切ったものではなく、多数の人々が何十年にもわたって書き写し、自ら得た情報や風聞を新たに書き加えていった手書きの特殊な書物だからです。その経過を大まかに見ると次のようになります。

  寛政初め頃  「浮世絵類考」を南畝が創る 笹屋邦教が「附録 古今大和画浮世絵始系」を付け加える(1800年?)

  享和 2年頃    「浮世絵考証」が出来る

  文化12年      加藤曳尾庵が「曳尾庵」本として書写、加筆する

  文政 4年頃    達磨屋伍一が「伍一」本として書写、加筆する

  天保 4年      渓斎英泉(無名翁)が「続浮世絵類考」として書写、加筆する

  天保15年   斎藤月岑が「増補浮世絵類考」として加筆する(1844)

つまり約半世紀の時間が経過し、上では紹介をしていない多くの人々も「加筆」と「写本」に加わっていた事実を踏まえて、斎藤月岑の「増補・類考」の文章を読んでみてください。(なお、月岑の直筆本は既に国内には無く、WEBで見つけた「月岑本」より引用したとされる文言を、そのまま転記していますので、誤字脱字の可能性も尚、残されています、悪しからず)

  写楽  天明寛政年中人

  俗称 斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者  号 東洲斎

  歌舞伎役者の似顔を写せしがあまり真を画んとてあらぬさまに書きなさせしば、長く世に行れず一両年にて止む 類考

  三馬云僅に半年余行るるのみ

  五代目白猿 幸四郎 後京十郎と改 半四郎 菊之丞 富十郎 廣次 助五郎 鬼次 仲蔵の類を半身に画廻りに

  雲母を摺りたるもの多し

では、今でも誰にでも見ることの出来る『浮世絵類考』(昭和15年に仲田勝之助が編校したもの、岩波文庫本)には、写楽のことは如何書かれているのか参照してみると。

  写楽斎  「」東洲斎写楽  「」俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也。

  これは哥舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなせし故、長く世に行はれず一両年に而止む

  「」しかしながら筆力雅趣ありて賞すべき。

  「」三馬按、写楽号東周斎、江戸八町堀に住す、はつか半年余行はるる而已。

  「」五代目白猿 幸四郎(後京十郎と改) 半四郎 菊之丞 富十郎 廣次 助五郎 鬼次 仲蔵の類を半身に画たるを出せし也

  「」回り雲母を摺りたるもの多し、俗に雲母絵と云。

この並べ方では分りにくいかも知れませんが、もともと南畝が「浮世絵類考」に書いていた文言は、見出しの人名と赤字の紹介文「これは…」の一行だけなのです。そうすると如何いうことになるのか…。皆さんもお気づきのように南畝が「類考」で述べているのは「写楽斎」という絵師であって「写楽」ではありません。その「写楽斎」を「東洲斎写楽」のことだと書き入れたのは曳尾庵ですから、少なくとも十数年後の加筆ということになります。更に戯作者の式亭三馬(しきてい・さんば,1776〜1822)の書き込みでは「写楽」の号は「東斎」に代えられ、その住まいが「八町堀」に限定されているのです。三馬が「類考」に書き込んだ時期は文政四年(1821)以前だと考えられていますが、写楽の浮世絵版画(写楽の登場は1794年)をリアル・タイムで見ていたはずの三馬が、「洲」の字を「周」と代えていたのは何故なのか?また、この三馬の書き込みは別様な解釈の余地を残しています。当たり前の話ですが浮世絵版画に「写楽斎」あるいは「東周斎」と落款のある作品は、現時点で一つもありません。(三馬が類考に書き込みを行った時期は、勝川春潮という絵師の項において、

  三馬云、春潮(中略)、吉左堂と号す。文政四年今尚存命、長寿人なり

と書いていることから文政四年頃であることが推定されています。それから、一部の研究者の中には「写楽」と「写楽斎」を分けて考える必要はない。何故なら「江戸期の人々は鷹揚で、画号に『斎』の一字を付け加えることなどには頓着しなかった」と云うのですが、歌麿や豊国などの他の絵師についても同様の表記があったと言う資料が示されない限り、写楽と写楽斎は区別して考えるべきだと思います)

  市川鰕蔵の竹村定之進   成田屋市川三升   式亭三馬の肖像  

これまでの研究では「類考」に関わった人々の情報の積み重ねが「写楽」という謎の人物に肉付けを行い、本名や住所などが次第に明らかとなった、とされてきたのですが、上で見た三馬の書き込みは違う意味で重要な示唆と成り得ます。言葉尻だけを捕らえる訳ではありませんが、三馬の言い方を、そのまま読めば、

  東周斎という号を持つ者が江戸八町堀に住んでいた

のであり「写楽斎」の住所を推測している訳ではないからです。お話が少し込み入ってきました。ここで「浮世絵類考」そのものの成立について整理しておこうと思います。昭和十五年『浮世絵類考』を出版した仲田は明治以降に刊行されていた『校訂浮世絵類考』『無名翁随筆』『増補浮世絵類考』そして『新増浮世絵類考』などを参照すると共に、享和三年頃(1802)に写筆されたと思われる「最も原撰」に近い写本を底本にしたことを明言、更に「類考」の成立過程については、

  元来、浮世絵類考は笹屋新七邦教の編せる所と考えられ、久しく左様に思われて来たが、

  近来の研究では、類考は寛政二年頃大田蜀山人之を撰し、邦教は寛政十二年に附録始系を作った。

  これその原撰にして、享和二年山東京伝追考を付し、文政元年より四年頃までに式亭三馬補記を加え、

  次第に増補せられたるを、天保四年無名翁、即ち渓斎英泉以上の三書を集めて一部となし(中略)、

  その後、弘化元年斎藤月岑これに補記を加えて増補浮世絵類考と改題す。なお龍田舎秋錦なるもの、

  右の数部を改撰し、慶応四年新増補浮世絵類考と題して一部に行われた。

と明快に解説しています。大田南畝の書き始めを「寛政二年頃」とした根拠は、恐らく加藤曳尾庵(1763〜?,江戸末期の医師)が自筆の写本(文化十二年,1815)の中で、

  この書は、蜀山人の編尓して寛政の初の此集られし物ならんか

と推量していることによるものと思われるのですが、さて、ここまで読んでくださった皆さん、何かが根本的にオカシイことに気づかれたでしょうか!お分かりになった方は、当サイトの写楽シリーズを真面目に「お勉強」された方に違いありません。さて、焦らすのは止めて種明かしに移りましょう。なになに、簡単な仕掛けです。管理人も、このページを書くまでは気がついてはいなかったのですが……。

写楽については膨大な「説」が色々な処で繰り広げられ、その唯一と言っても良い文献資料の「浮世絵類考」も、至る所で引用されてきました。ただ、我々のような「素人」は、類考の写本を現実に見ることは出来ないので、諸説に引用されている「文言」を、そのまま信用するしかない訳です。しかし、本当の意味で「資料」というものは、素直に読めば、それなりの答えを与えてくれるものだと思います。『浮世絵類考』の出来上がるまでの過程を詳細に見てきた今、次の事実が浮かび上がりました。

  1 大田南畝が紹介した絵師は「写楽斎」である

  2 大田南畝が類考を書いた時期は寛政初め頃である

「2」が曳尾庵の推量を前提としたものであることを割り引くとしても、

  寛政六年に登場した写楽の名前が「類考」にあるはずがない

それが論理的な結論です。つまり、居ない者の「紹介」は誰にも出来ない相談だからです。そして、いつも通り、ここからは管理人の独創・妄想になりますので、他言は無用です(誰かに話すと鼻で笑われる恐れが十二分にあります)。一体、写楽斎が、どのようにして「写楽」と混同され、遂には、何処かの能役者に間違われるようになったのか、その重要な三つの過程を次に記します。

  1 寛政の初め頃「写楽斎」という絵師が居た(それ以前から活動していた可能性もある)

  2 寛政六年に登場した「写楽」を知っていた曳尾庵が「写楽斎」と「写楽」を同一人だと思い書き込んだ

  3 三馬は「東周斎」を名乗る絵師が「江戸八町堀」に住んでいると知り書き込んだ

この様に推理すると写楽を「天明寛政の人」と解説した文言が別の類考に見られることも納得が行きます。何故なら、南畝が知っていた「写楽斎」は当然、寛政期より前に絵を描いていた訳ですから。じゃあ、一体「写楽」は誰なのか?余計に分らなくなってきましたが、実は「浮世絵類考」には、その疑問について鍵となるかも知れない一つの書き込みがあるのです。謎に輪をかける、その文言を紹介して、今回のお話もお開きにしたいと思います。

  歌川國直(文化の比より天保の間に至る) 吉川氏、俗称四郎兵衛

  「」鯛蔵(居始、麹町より所々に移る、后、田所町に住す)

  「」柳烟堂、写楽翁

この歌川國直(うたがわ・くになお)という絵師は歌川豊国の門人で、式亭三馬とも関係の深い人物なのですが、彼が何故、一部の資料だけにせよ「写楽翁」の画号で紹介されていたのか、これは調べてみる必要がありそうです。(資料に「」とあるのは「故法室本」の書き込みによるものです)それから「類考」の記述に関して文政四年(1821)に写筆された「風山本」に、

  写楽  東洲斎と号す  俗名 金次

  隅田川両岸一覧の作者にて、やげん堀不動前通りに住す

とあることが、写楽を葛飾北斎だとする「根拠」になっている点についてですが、これは、もともと「類考」の「補遺」にあった、

  (鶴岡蘆水) 俗名 金次  隅田川両岸一覧筆者 屋げん堀不動前通り

の文言を誰かが故意に紛れ込ませたものではないのか、と考えています。と云うのも蘆水には「隅田川両岸一覧」という作品が実際にあり、北斎の作品は『絵本隅田川両岸一覧』であり、非常に混同しやすい作品名同士だからです。別のベージにも載せた浮世絵師たちの相関図絵を参考のために再録しておきます。本当に、写楽とは誰なんでしょうかねぇ。

写楽が「歌川」一門に最も近い絵師であることが想像されます。 活字版

ここまで書いてから「類考」に関係した新しい資料が見つかりました。次回は「浮世絵類考」自体について、もう少し詳しくご紹介することが出来ると思います。請う、ご期待!!

         

東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

     
 写楽のページ   東洲斎写楽と十返舎一九   浮世絵類考について   武鑑と斎藤与右衛門   八丁堀は情報発信の基地だった   松平定信は写楽を知っていたか 
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼