写楽探索、江戸八丁堀地蔵橋を訪ねて。「奥書」への疑念                 「サイトの歩き方」も参照してください

東洲斎写楽という名の浮世絵師の実像については大きく分けて二つの見方があります。一つ目が『写楽は、別人が名乗った変名ではない』とする本人説であり、二つ目が『写楽は、誰かの別名である』と考える別人説で、平成二十五年初めの現在、写楽=能楽師説が最も有力な見解だとされています。その根拠の大元となっているのは、

  @ 町名主の斎藤月岑が著した『増補浮世絵類考』(1844年編)に、写楽が「俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す。阿波候の能役者なり」と明記されていること。
  A 江戸の歌舞伎役者・三世瀬川富三郎が文化14年末頃までに作成した『諸家江戸人名方角分』八町堀の項に「(故人の)浮世絵師・写楽斎」の名が掲載されていること。

の文献資料二点にあるのですが、研究者たちの調査によって、阿波蜂須賀藩のお抱え能役者斎藤十郎兵衛、斎藤与右衛門親子の実在が確かめられ、斎藤家所縁のお寺に残されていた過去帳の記載内容からも、丁度、江戸で写楽が活躍していた時期(1800年頃)に壮年期を迎えていた斎藤十郎兵衛(1763〜1820)という人物が江戸に住んでいた事実も明らかになりました。一方、歌人国学者で町奉行与力・加藤(橘)千蔭(1735〜1808)と学問を通じて大変親しかった村田春海(通称・治兵衛1746〜1811))の研究で明らかになった「隣家の能楽師」が、嘉永六年版の「八丁堀組屋敷図」(1853)によって、十郎兵衛と息子である斎藤与右衛門(1792〜?)その人であることも分かったのです。つまり「全ての証拠が写楽能役者説」を間接的に証明している様に見えるのですが、並みの歴史サイトとは一味異なるオノコロ共和国主筆の脳裏には「あぁ、そうなのか」と素直に納得出来ない疑念がこびりつき、なかなか拭い去れないのです。第一「方角分」にあるのは『写楽斎』という号であって、東洲斎写楽がそのような画号を名乗った証は何処にも在りません。今回も、自らの直観を信じて写楽探しに出かけます。論点は二つあります。一つは専門家が太鼓判を押している「方角分」の奥書について、もう一つは別の資料に見える斎藤与右衛門に関する推理です。合わせて、江戸という町の素顔を描いてみたいと願っていますが、さて、どうなりますことやら…。

 「方角分」に関する疑問点=南畝が所付を書き加えて、二条もの奥書を認めたにもかかわらず、何故、その写本に南畝の蔵書印が無く、彼の蔵書目録にも書名が無いのか。
大田の本好きは、夙に有名で広くも無い自宅には万巻の書が蓄えられていた。また「狂歌」は彼の原点であり、その大切な資料となるものを何故早々と手放すことになったのか。
人名録の多くは氏名を「いろは」順に並べて記載するのが通常だが「方角分」は、各人の並び方が錯綜している。また斎藤月岑の書の師匠であった谷口月窓(1774〜1865)
が文化末年に八丁堀地蔵橋に住んでいたという確かな資料は見つかっていない。国学者としても又大通人としても知られた村田春海に故人印が無い、エトセトラ。

南畝の周辺には「二代目」蜀山人を名乗る人物(亀屋久右衛門1768〜1829))があり、彼の独特の筆跡を真似る「蜀山流」の書き手も複数いたことは既に『南畝の奥書』の中で詳しく紹介をしてきましたが「写楽斎」の唯一の同時代資料については、早くから偽筆説が提唱されていました。その代表格が『総校日本浮世絵類考』(昭和54年刊)を著した由良哲次(哲学者、美術史家1897〜1979)によるもので、彼は自説の証明にも大きな影響を及ぼしかねない「方角分」そのものを『南畝の奥書を偽造して』古書店などに売りつけようとした「偽書」以外の何物でもないと断じ、これに基づく「能役者説」など成立しないと公言しています。これに対して美術史家たちからは『学者らしからぬ、我田引水の見本のような暴論』という反論が散見されます。では、問題となっている「奥書」とは一体どんなものなのか?写楽の解説本などでも全てが画像を紹介している訳ではありませんから、再度、掲載して皆さんの判断材料に供したいと思います。(「奥書」とは写本の末尾などに附された本の来歴等を記した識語のことで、著名人が記すことで本の価値を保証する事になります。所謂お墨付きです。下の画像は全て国立国会図書館収蔵のものです。尚、左画像にある朱の蔵書印は書肆達磨屋のもので南畝のものではありません)

    奥書にある「此」の字  所附の一部分

上に掲げた画像を良く見てください。「奥書」が態々左右別のページに分けて書かれていることが分かります。普通、何かの忘備録、つまり来歴などを書き留める場合、最低の必要事項=ここでは「編者」と自分が書物を受け取った「期日」そして、肝心の「署名」を一か所に並べて書き記すものだと思うのですが如何でしょう。そして編者だとされる三世瀬川富三郎の「書」であることを認めた「此」書の字体に注目してください。この文字の書き手が本当に大田南畝なのかという疑問については既に述べてきましたが、再度、WEB上に公表されている画像を紹介しながら、読者の皆さんの判断を仰ぎたいと思います。管理人は書の専門家でも書の鑑定が出来る者でもありません、しかしWEB上で公開されている太田南畝の自筆資料と呼ばれる書き物に見られる彼の書体と、この「方角分」に記された文字が同一人の手によるものだとは到底思えないのです。南畝は、ほぼ六十年近くの年月を下級官僚として暮らしました。当時の役所の仕事と云えば、その大半が文書による記録と報告だったことは言うまでもありませんが「此」という漢字は、そのような文書類で頻繁に使用する文字の一つであり、蜀山人が奥付をかき入れる時にだけ「異なる書体」を用いることなど考えられません。では、次に彼の自筆文書に現れる「此」の文字を幾つか取り出して見比べてみましょう(下右端は南畝の随筆『一話一言』巻八のものです)

「蜀山百首」   「蜀山百首」  

敢えて説明を加えるまでも無く、上で見た「奥書」にある文字と『蜀山百首』『一話一言』に記された「此」という文字の形は、明らかに別の人が書いたものに見えます。字体と云う以前に「方角分」の奥書を認めた人は「此」という字を「横一筆」と「縦三筆」で書く癖があるようですが、南畝は『一話一言』の字体で最も明らかなように「横一筆」に「縦四筆」で字を表し、その内、右端の一筆は丁寧に「右下」に向けて払ってあります(もっと言えば奥書の文字は普通「此」という字には見えません。一般的に云えば、この形であれば『三十』を表す略字とするのが穏当ではないでしょうか)森鴎外とも面識のあった明治大正期の文人、梅本高節(1862〜?)の『狂歌師伝』によれば、南畝とも極親しかった酒月米人は、

  吾友軒、四方滝水楼等の号があり(中略)、狂歌を四方赤良に学んで、秀逸が甚多く、師の筆跡を学んで善くした

との評判がある人物で、昭和期の通人として知られる三村竹清(1876〜1953)も昭和六年に発表した『判取帳筆者小伝』の中で

  米人は、蜀山流の手をよく書きて文宝亭を凌げり(註・文宝亭とは二代目蜀山人亀屋のこと)

と評しています。研究家によれば三村自身が蜀山流の書き手でもあったようですから、恐らく南畝の筆跡「そっくり」に文字が書ける人は何人も居たに違いありません。亀屋文宝亭については南畝「公認」の代筆者だった云々の文章がWEB上にも見られる程ですが「方角分」を語る時、そのような人物の存在も、また蜀山流の書体を自在に操る同時代人が複数いたことも全くと言って良いほど取り上げられる事はありません。写楽研究の分野で「方角分偽書説」を炊飯ものだと評するのであれば、これらの南畝の筆使いを巧みに真似る者が確かに実在し、世間にも代筆による「作品」が広く流布している事実も併せて公表し、諸家の批判を仰ぐべきではないかと思います。蛇足になりますが、この亀屋という人物は曲亭馬琴とも交友があり、南畝没後の文政七年から八年にかけて馬琴が主催した「耽奇会」に会員として名を連ねています。この会の主旨は名称の如く「奇妙な」あるいは「珍奇」な物品を皆で持ち寄り賞玩することにあったと言いますから、彼が取り分け「珍しい物」に興味があったことは間違いなさそうです、閑話休題。

「八町堀」地蔵橋に住む写楽斎を誰が、いつ能役者と判断したのか

では二つ目の疑問点に話を移します。これまでに何度も確認してきたことですが、写楽の研究家たちの努力によって斎藤家の過去帳が探し出され、そこに記されていた文言から寛政期の家族に関する幾つもの情報が明らかになりました。その内の一つが十郎兵衛の住居に関わるもので、過去帳にある記述によって彼の家族は「寛政十一年三月以降、享和元年三月以前」の二年間のいずれかの時期に「南八丁堀」にあった松平阿波守下屋敷から「北八丁堀地蔵橋」に転居したと考えられてきました。そして問題の「江戸方角分」に名前が見える「浮世絵師・写楽斎」の住いも「八町堀地蔵橋」であったことから、十郎兵衛=写楽の信憑性が高められたと評されている訳です。ところが、実は、この二つの事実から東洲斎写楽が斎藤十郎兵衛その人であるという結論を導き出すことは不可能です。何故なら「八町掘地蔵橋」という俗里名の所にある家屋は、先に見た村田春海と斎藤与右衛門たちが暮らした元与力板倉善右衛門屋敷があった角地だけに建っていたのではなく、奉行所勤務の同心たちの拝領屋敷地などには貸長屋が林立していたのです(「方角分」が編まれた時期に最も近いと思われる文化十二年版武鑑にも『じぞうばし』に住む能役者として四人の名前を確認できます)。私たちの脳裏には「写楽=能役者」説そして何より「写楽斎=斎藤十郎兵衛」説が刷り込まれていますから、@斎藤十郎兵衛と云う人物の実在、A写楽斎という浮世絵師が八町掘地蔵橋に住んだという記述、B歌人村田春海が八町掘地蔵橋に住んだという事実、C江戸期の切絵図に村田春海と斎藤与右衛門が隣同志に住んでいたという記載があること等々から、あたかも写楽斎の住んでいた「地蔵橋」にあった家と与右衛門たちが実際に暮した家屋が「同一」のものだと考えて仕舞いがちですが、それは単なる錯覚に過ぎません。また、WEB上で散見される記事の中に、斎藤十郎兵衛(写楽?)が八丁堀地蔵橋の居宅で浮世絵を描いていた等の文章が頻繁に見受けられますが、写楽が役者絵などを精力的に描いていた寛政六〜七年に斎藤一家は阿波藩の下屋敷内で生活していたのであって、地蔵橋の居宅がアトリエだったのでは無いのです。では、何故「写楽斎=十郎兵衛」の等式が成り立つ事になったのか?それが或る「浮世絵類考」の写本に見える註文に他なりません。

欄外の註文  安永武鑑  酒月米人  方角分より

専門家たちが「達磨屋五一本」と呼んでいる写本の欄外に、

  写楽は阿州侯の士にて、俗称を斎藤十郎兵衛といふよし、栄松斎長喜老人の話なり、周一作洲

とあり、ここで初めて写楽と十郎兵衛が同一人である「伝聞」の存在が示され、斎藤月岑も『増補・浮世絵類考』(天保15年、1844)を編む際、この書き込みを傍証として、つまり同様の註文があったと考えられる「浮世絵類考」の写本を参照して写楽の記事を認めた可能性があります。筆者は、その達磨屋五一(1817〜1868)の収蔵していた写本は見ていませんが、現在内閣文庫に収められている「奈河本助本」(幕末期の歌舞伎作者が天保2年、1831年に入手した写本、上左画像参照)にも、ほぼ同じ趣旨の文言が書き入れられています。つまり、類考の書き継がれた内容別に、作成された年次と関連事項を抜き書きしてみると、

  @ 南畝が著した「浮世絵考証」に笹屋新七が絵師の系譜を付け加え、更に山東京伝が「浮世絵追考」を加えた=享和二年、1802。  (文化五年頃に長喜没か)1808。
  A 加藤曳尾庵が「しかしながら、筆力雅趣ありて賞すべし」の書き込みを行う=文化十二年、1815。同年『江戸当時諸家人名録』が発刊される。翌年、京伝亡くなる。
  B 南畝が京伝の「追考」を更に加えて「浮世絵類考」(正本)とした=文政元年、1818。
  C 歌舞伎役者三世瀬川富三郎が編集したとされる「諸家人名江戸方角分」の写本が、竹本某氏によって南畝に届けられる=文政元年七月。
  D 阿波藩お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛が「北八丁堀地蔵橋」の自宅で亡くなる、享年五十八=文政三年、1820。当時29才の息子・与右衛門が跡を継ぐ。
  E 戯作者の式亭三馬が「写楽号東周斎、江戸八丁堀に住す、半年余行わるるのみ」の按記を行う=遅くとも文政四年頃、1821。翌五年、三馬没する。六年南畝没。
  F 歌舞伎作者の奈河本助が「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎平というよし、栄松斎長喜老人の話なり、周一作洲」の註文がある写本を購入=天保二年、1831。
  G 達磨屋五一が所有していた写本に「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎兵衛というよし、栄松斎長喜老人の話なり、周一作洲」の書き込みが行われる=天保年間。
  H 斎藤月岑が著した「増補浮世絵類考」で写楽の項に「俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者也」と詳述される=天保十五年、1844。

のように比定することが可能です。FとGの後先については見方が分かれる処ですが「より単純な記述が先行している」と考えられるなら、奈河が購入した写本が「より古い」形態を伝えていると見做せます。更に、写楽を特定する最も重要な情報である『阿州侯の士、俗称斎藤十郎平』という内容を誰かが絵師の長喜から「リアルタイム」で聞き、自らの手許にあった「浮世絵類考」に書き入れたとする解説がありますが、詳細は不明でも栄松斎長喜と名乗る浮世絵師は、遅くとも文化五年頃(1808)には物故しているので、この記述は四半世紀以上も昔に長喜老人から写楽の素性を聞いた人物が、たまたま二十数年後に南畝が著した「浮世絵類考」という書物に出会い、書き加えたものだと解釈するのが妥当なのかも知れません。或いは、長喜から情報を得た人物から話を聞いた別人が記入した可能性すら残されています。従って、斎藤月岑が自ら「増補浮世絵類考」を編集する際参照したと思われる、古書専門店の鎌倉屋(石塚豊芥子、?〜1861)から『借獲た蔵本』の中に、奈河本および五一本と同様の内容を含んだ「浮世絵類考」と「方角分」の写本(現在の『東都諸家人名録』上右の画像)が在ったことは想像できます。つまり大田南畝も山東京伝も知らなかった(書けなかった)東洲斎写楽という絵師の本名を、活躍から半世紀後に月岑が明らかに出来たのは、唯一、長喜という絵師の「証言」というより「伝聞」に依拠しているという訳なのです。珍書・奇書の収集で定評のあった五一や豊芥子は、恰好の材料が自らの書庫に在りながら、何故、写楽の実像に気づくことが無かったのでしょう。それはさておき、上述からは「阿州侯の士」とだけ紹介されている斎藤を「能役者」と断定したのも月岑自身であったことが分かります。名主という仕事柄、八丁堀の与力、同心たちとは顔なじみだったので二つの資料を突き合わせ、

  八丁堀地蔵橋に住居のある(在った)、阿波蜂須賀藩の藩士で俗称が斎藤十郎兵衛

という者が本当に実在しているのか(かつて存在していたのか)内々調べて欲しいと依頼し、回答を得ることなど極めて簡単なことだったでしょう。何のことは無い、南組の同心・飯尾の隣人が斎藤家だったのですから。最早、斎藤十郎兵衛の実在を疑う余地はありません。ところが、ここで実に不思議な現実に突き当たります。江戸期を通じて、ほぼ毎年刊行された紳士録で『武鑑』という名の書物があるのですが、天和元年(1681)から慶応三年(1866)にかけての約180年間、斎藤与右衛門の名前は各版に出ているにも関わらず、斎藤家が「一代ごとに名乗った」はずの斎藤十郎兵衛という名は一度も、どの武鑑にも記載されていないのです。尤も、筆者は江戸時代に刊行された全ての「武鑑」に眼を通した訳ではありませんから、断定するのは早計に過ぎるかも知れませんが、写楽ではないかとされる十郎兵衛の生きた時代一世紀に限ってみただけでも、

  父・与右衛門(1721年生?)−−本人・十郎兵衛(1763年生)−−子・与右衛門(1792年生?)−−孫・十郎兵衛(1820年生)

と斎藤家の当主名は交代しているはずなのに、同時期に出版された「武鑑」のどこにも「十郎兵衛」の名前だけが見当たらないのです。果たしてこれは何を意味しているのでしょう?資料として「武鑑」の価値を余り認めない史家もあるようですが、次回は与右衛門の足跡と地蔵橋に住んだ能役者について詳しく紹介したいと思います。


俳書浄瑠璃本黄表紙洒落本なぞに明きは下谷御徒町の吉田なるべし。主人咄しずきにて客をそらさず、鑑識なかなか高し。東五軒町の文林堂も人の知る処こゝには扇面短冊の面白きもの多く蓄へたり。この店の品他に比して価いつも高からず勉強と云ふべし。主人能筆の聞え高く蜀山人の筆致殆ど其の真偽を弁ぜざる程なりといふ。

永井荷風が『古本評判記』で述べた一文です。南畝流の書き手は、昭和の世にも居たようです。「方角分」の取り扱いには慎重を期すべきだと云うのが結論です。蛇足ついでにもう一つ。「増補浮世絵類考」の著者である斎藤月岑(1804〜1878)は、祖父の企画を受け継ぎ『江戸名所図会』を刊行していますが、その出版元だったのが「武鑑」を売り物にしていた須原屋でした。月岑は、その七代目茂広とは個人的に懇意だったようですから、畑違いの分野とはいえ浮世絵師に関する「内部情報」を提供してもらった可能性があります。

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