謎の浮世絵師・東洲斎写楽

このページで紹介している画像の全ては
東京国立博物館が収蔵しています

近づく台風のせいなのか、妙に湿気た空気が夏を思わせる鋭い日差しと一緒にのしかかる。入道雲もどきの団子状になったフワフワ塊りの幾群れと、薄墨色に暮れなずむ山の稜線が微妙な影絵芝居を演出し、はて、あの輪郭は何処かで見たことのある、誰かの顔に似ているなどと思ったら、それは何かの雑誌かポスターで見たことのある、浮世絵でお馴染みの人物だった。道端に停めた車の中で『写楽が見ていた芝居の風景とは、一体、どんなものだったのだろう』等と、取り留めの無い事を思いつき、五右衛門さんで親しんでもらった錦絵話の続きを試みることにしました。ただ、いつもお断わりしているように、管理人は絵画や歴史について専門的なお勉強をした、所謂、研究家ではありませんので、ここで述べている内容は、あくまでも素人考えの雑談だと思って読んでください。

外国の人達から、後になって、その美術的な価値を改めて教えてもらわねばならなかったことは少し残念な気もしますが、それでも私たちの先達が残してくれた浮世絵が、皆の大切な文化遺産であることに変わりはありません。浮世絵、錦絵のことを知らない人でも「写楽」(しゃらく)という名前は何度か見聞きした記憶があるのではないでしょうか。写楽をキーワードにして検索してみれば分かりますが、彼の名前を冠した実に多くのモノ(お店や商品も含めて)が現在でも世の中に溢れているのですが、その、実像となると、まるで謎だらけ。本当に、そのような人物が此の世に存在していたのか、と疑いたくなるほど、写楽の人物像は希薄で、掴み所がありません。とにかく生没年はおろか、本名すら分かっていないのですから。

            写楽の実像??

では、彼の何が「謎」なのかと云う所から始めますが、兎にも角にも江戸時代の寛政年間、正確には寛政6(1794)年5月東洲斎写楽とうしゅうさい・しゃらく)と名乗る浮世絵師が突然お江戸に現れ、約10カ月の活動期間中に百数十点の作品を残し、忽然と消えてしまったのです。WEBで皆さんも一度調べてみれば分かりますが、この人物について書かれた本・論文・エッセイの類は数え切れないほど存在しています。それは、多くの人が熱心に「写楽探し」をした結果で、有名無名を合わせ、現在30人ばかりの人物が写楽ではないかとされて、各人が自説を展開しているからです。曰く「写楽は能役者の斎藤十郎兵衛(さいとう・じゅうろべえ)である」「いやいや、そうじゃない。版元の蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう,1750〜1797)こそ写楽に違いない」「それは違う、きっと葛飾北斎(かつしか・ほくさい,1760〜1849)か喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ,1753〜1806)が名前を変えて描いたのだろう」というものから「実は、絵師の写楽は仮の姿で、その実体は奉行所の送り込んだ密偵(スパイ)だったのだ」「蔦屋の遺言によれば、写楽は西国に住んでいた、或る豪商である」という話まで、千差万別・百花繚乱。なにしろ残された手掛かりは彼の作品だけという有様ですから、彼に当てはまりそうな可能性(条件)を少しでも持っている人物は、だれでも写楽になることが出来るのです。では、例によって写楽の生きた時代を年表で確認しておきましょう。(特に断り書きをつけていない限り、江戸での出来事を紹介しています)

西暦 元号 その年の主な出来事
1772 安永元年 2月 江戸で大火、8月 大雨により永代橋が流失。
この年、田沼意次(たぬま・おきつぐ)が老中に就任する
1774        3年 3月 大風の中、出火、数町を焼失。
1777       6年 夏・伊豆大島が噴火。世情不安が広まる
1783 天明 3年 2月 大地震、6月 浅間山が大噴火。10月 火事により十数町を焼失。
この年の春、蔦屋が通油町に店を開く。
1784       4年 正月、4月、12月と火事が続き、国内では飢饉が広がり、米の価格が急騰。
1786        6年 正月の火事により葺屋町の芝居小屋が焼失。老中の田沼意次が失脚。
1787        7年 大阪で米騒動が起こり、5月には江戸でも米屋などが相次いで襲撃される。
この年に松平定信(まつだいら・さだのぶ)が筆頭老中に。寛政の改革に着手する。
1791 寛政 3年 8月 台風により江戸周辺で家屋の流出多数、犠牲者もかなりの数に及ぶ。
山東京伝(さんとう・きょうでん)の作品が幕府よりとがめられ、蔦屋は身代(財産)の半分を没収される。
この年、京伝の紹介で曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)が蔦屋に下宿する
1793        5年 10月 火事により葺屋町芝居小屋が焼失。松平定信が老中を退く。
1794        6年 5月 東洲斎写楽、江戸芝居の浮世絵を書き始める。
この年、馬琴と入れ替わり十返舎一九(じっぺんしゃ・いっく)が蔦屋に下宿する。
1797        9年 6月 蔦屋重三郎が死去。10月、11月、12月と続いて火事、十数町を焼失。
1798  10年 この年、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の刊行始まる。

御覧のように、写楽が浮世絵師として登場してくる前後の江戸は火事・台風・地震という災害が日常茶飯事のように起こり、天候異変は農作物の収穫を激減させました。この結果、全国的な食糧不足が起こり餓死者が続出、天明7年には米騒動にまで発展しています。この間、写楽の仕事にとって大切な芝居小屋もまた例外ではなく、何度となく大火事に見舞われその都度小屋を失い、その一方で借金だけが異様に膨らむという経営難に陥っていました。その大きな理由のひとつが「役者の給料の多さ」で、俗に、超人気物のことを千両役者(せんりょうやくしゃ)と言うように、江戸・寛政年間に一流と言われる役者が得ていた年収は、千両に迫る九百両にもなっていました。当時の芝居小屋の、平均的な年間の興行年収が数千両であったことから、これが、いかに高額な報酬であったかが分かるでしょう。もっとも江戸幕府による芝居役者等の管理体制は大変厳しいもので、例えば住いについても『役者をはじめ芝居関り合いの者は堺町、葺屋町、木挽町もしくは隣町1,2カ所に住むべき』(『歌舞伎年表』)と地域を限定されていましたし、旅行などについても『役者旅稼(たぴかせぎ=江戸を離れた地方の小屋に出演すること)は禁止』とされ『みだりに他国せず』(用もないのに江戸から出ではならない)『もし神仏参詣、親類病気見舞い又は湯治行の場合は、座元へ願い名主へ届出』するよう手続きも細かく定められていました。役者側とすれば、江戸の芝居小屋からの収入だけが頼りですから、勢い、人気のある役者ほど強気の賃金交渉をしていたのかも知れません。また逆に、芝居小屋の興行主の側からすれば、人気役者を抱えていなければお客が集まらないわけですし、やっとの思いで役者が揃っても火事で小屋が無くなれば興行も打てず、借金だけがかさんでゆく、という悪循環になるわけです。

あまりに「」を描かんとして

前年の火事で小屋を失った芝居各座でしたが、なんとかお金のやり繰りをつけ寛政6(1794)年5月には歌舞伎の興行が再開、写楽が登場するのは、丁度その時です。歌舞伎の資料によれば、この時期、都座と桐座で演じられた芝居はいずれも「曽我物」(そがもの=仇討ち話を中心にしたお芝居)で、四世松本幸四郎(まつもと・こうしろう)が演じる肴屋五郎兵衛(さかなやごろべえ)が東洲斎写楽デビュー作28枚の一つである、とされています。では、まず、その作品を見てもらいましょう。

 額、眉間そして頬にまで皺(しわ)がくっきり刻まれている。

浮世絵類考」(うきよえるいこう)という書物は、幸四郎等を題材とした写楽の作品について『あまりに真に描かんとて、あらぬさまにかきなせしかば』(作品の対象となる人物のありのままの姿を描こうとしたため、描かれる本人にとっては望ましくない絵になった)と評していますが、実際の写楽作品に対する庶民の評価も高くなかったようで、特に「あらぬさま」に描かれた役者たちの評判は相当厳しいものであったようです。ここで、少し、当時の浮世絵(版画)についてお浚いをしておきましょう。

写楽作を始めとする浮世絵(ここで扱っている物は肉筆の浮世絵ではなく、版画です)は、今でいう人気者のブロマイドで、当然価格も買い手側の庶民の懐具合に見合ったものでなければいけませんから安価なものでした。また、外国人の美術評論家たち(ドイツ人、ユリウス・クルトに代表される)によって、その「評価」がなされるまで浮世絵は決して額の中に入れて鑑賞する美術品、芸術品ではありませんでした。それは、あくまでもお江戸社会の人気者を描いたポスター、ブロマイドであり、極々身近な版画だったのです。生活に追われ、日々の労働に疲れた庶民たちが江戸の大芝居・歌舞伎に寄せた熱情は、今の時代を暮す我々の想像を遥かに越えた憧憬に支えられたものだったに違いありません。だから、浮世絵に描かれた芝居の主人公たちは、あくまでも格好よく、あくまでも美しく、あくまでも浮世離れした存在でなければならず、写楽のように「ありのまま」役者をただの人として描いた写実的な作品なぞ求めてはいなかった、と言えるでしょう。喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ)や歌川豊国(うたがわ・とよくに,1769〜1825)の描く夢のような美人画こそ、庶民の求める虚像だったのです。

では次に肝心の写楽探しに移りましょう。上の年表に名前が記されている4人の人々は、種々の状況から確実に写楽の正体を知っていたと思われます。まず、写楽の絵を発刊した版元の蔦屋重三郎、そして写楽の絵が発刊された年に蔦屋で住み込み手伝いをしながらデビューを狙っていた十返舎一九(じっぺんしゃ・いっく,1765〜1831)それに戯作者で蔦屋が最も親しく交際していたと思われる山東京伝(さんとう・きょうでん,1761〜1816)そして京伝の弟子曲亭馬琴(きょくてい・ばきん,1761〜1848)の4人です。『南総里見八犬伝』の作者としてお馴染みの曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』の中で、一九について「寛政6年の秋頃より蔦屋の食客となり、浮世絵に使用する用紙のにじみ止めのため、明礬(みょうばん)と膠(にかわ)を混ぜた液状のドウサと呼ばれる薬品を紙に塗りつける仕事をしていた」と素気なく書いているそうなのですが、写楽については完黙を守って口をつぐんでいます。そして、実は、この4人の中に、間接的にではあるのですが写楽を自分の作品の中で取り上げている人物が存在するのです。まず、次の絵を見てください。

  「初登山手習方帖」にある写楽凧の挿絵

歌舞伎に関心のある方なら一目でお分かりになるように上図・左の凧に描かれている人物は、その紋の模様(三枡)から『』(しばらく)を演ずる市川蝦蔵(いちかわ・えびぞう)なのですが、写楽作品で同一の図柄のものは未だ(2002.7現在)発見されていません。一九の実質的な文壇への登場作品とも言えるこの作品は写楽が消えた寛政8年に蔦屋以外の版元(榎本吉兵衛)から出版された絵本で、何気なく見れば、一九が写楽の絵を宣伝してやっている様にも窺がえます。四角い凧に描かれた人物が蝦蔵だとするなら「奴」(やっこ)凧として描かれている人は、そしてお姫さま・貴族・達磨さんは誰かを揶揄しているのでしょうか?写楽の浮世絵に描かれた、それらしい役柄を演じている人物を探してみるのも一興ですね。例えば、お姫様は名女形の瀬川菊之丞(せがわ・きくのじょう)、貴族は大伴黒主を演ずる三世沢村宗十郎(さわむら・そうじゅうろう)などはいかがでしょうか!!さて、それでは蝦蔵を御覧いただきましょう。随分と以前、切手の図柄になっていますから、ご存知の方もあるでしょう。

市川蝦蔵が演じる竹村定之進。ご存知の方も多いはず

それでは、昨今、取りざたされる事が多くなった「十返舎一九=写楽」説が本命なのでしょうか、後、何か手掛かりになる物的な証拠は残されていないのでしょうか。写楽の登場を書き記した文献資料は、その世界ではよく知られている大田南畝(おおた・なんぽ,1749〜1823)の『浮世絵類考(1800年頃に成立?)ですが、そこには「寛政6年5月、興行中の歌舞伎三座の舞台より黒雲母(きら)刷りの大首絵28枚をひっさげ画壇に登場、版元は全て蔦屋、一両年活躍した」とあります。それから後に、これが写本され、先ほど見てきた山東京伝や式亭三馬(しきてい・さんば,1776〜1822)あるいは斎藤月岑などによって順次加筆されたものが『追補浮世絵類考』という書物です。このページの最初に紹介した「写楽=能役者説」は、江戸の町名主・斎藤市左衛門(号は月岑・げっしん。1804年生まれ)が「追補」の中で次のように述べている文言が基盤になっているものです。(つまり、南畝が書き留めた浮世絵師についての個人的な記述を、他の人たちが借りて写し取り、自分なりの考え・伝聞・推理などを加筆訂正していったものが年を経るにつれ増え続け、現在「増補」と呼ばれる書物・資料になったもので、いわゆる私家版の「類考」は百種を超え、専門家が確認したものだけでも30種近くあると言われています。月岑の「増補」(1844)は、あくまでも、その内の1冊に過ぎません。更に、題名が異なっているので全く別の資料だと勘違いしやすい『浮世絵考証』(1802)も「類考」を下敷きにして書かれたものです)

    写楽・天明寛政年中の人、俗称・斎藤十郎兵衛、江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者也。号・東洲斎

ただ、斎藤月岑も十郎兵衛その人に直接会って確かめた訳ではなく、写楽とほぼ同時代に活躍した浮世絵師・栄松斎長喜(えいしょうさい・ちょうき)という人からの聞き書きを、別の資料から取り入れたと考えられています。(文政・天保年間に書かれた別の「浮世絵類考」達磨屋五一本が、その元資料だと考えられていますが、五一本自体には『写楽は阿州の士にて斎藤十郎兵衛というよし栄松斎長喜老人の話なり』とあるだけで、その人物が能役者であるとも「八丁堀」に住んでいるとも書かれてはいない)そして、ここからが少しややこしいお話になるのですが、一九の凧絵の他にもう一人、自分の作品に写楽の絵を取り入れている人物があり、それが正しく長喜その人なのです。彼は写楽とは異なり、美人画を得意とする浮世絵師で、その評価も決して低くは無く現在でも収集家の間で人気のある絵師なのですが、その長喜が「寛政三美人」の一人である『高島屋おひさ』を題材に描いた柱絵(縦長の柱に貼り付けて見るような版画)に写楽の作品が登場しているのです。長喜は「おひさ」が左手に持っている団扇(うちわ)の図柄に、先ほど見てきた松本幸四郎の「肴屋五郎兵衛」を左右逆に描いていますが、これは構図的に左上にある「おひさ」の顔を、幸四郎の顔と向き合わせるための演出だと考えられます。そして、世の中には偶然というものが存在するものらしく、長喜の「おひさ」が刊行されたのは、なんと十返舎一九の『初登山手習方帖』が出版された、つまり写楽が消えた寛政8年でした。

ここまでくれば、もう、一九・長喜のどちらかが写楽に違いない−そう考える人も少なくはないでしょう。後は、彼等のどちらかが写楽本人に間違いない、という証拠を見つければ良い訳ですね。では、長喜の浮世絵を紹介してみましょう。

 長喜の代表的な美人画   

どうですか、画風から「写楽」の姿が見えてきましたか?描かれている画題が異なりますから、断定的な表現は避けるべきですが、写楽の描く人物像との落差が余りにも大きく、二人が同一人物だとは到底考えられません。しかし、画風は変わることもあり得ます。もっと確実に二人の違いが分かる「証拠」を探すべきです。それは「落款」(らっかん=作品に書かれた作者本人の署名)を置いて他にないでしょう。そのことは十返舎一九説についても言えます。写楽が私たちに唯一残してくれた手掛かり、彼の署名を頼りに証明を進めてみましょう。写楽の落款ですが、最初期の大首絵は雲母摺(きらずり)と呼ばれる独特の手法が用いられているため、かなり判別が難しいのですが、発刊の年月日を記した一枚を、まず参考にしたいと思います。

   名女形・瀬川菊之丞。寛政6年9月の落款がある。

特色(クセ)のある写楽の落款

WEBから取り入れた画像を処理したものなので、かなり見づらいかも知れませんが、ここに写楽の字のクセが全て凝縮されていますから、画面に顔をくっつけて、良くよく見てください。彼の字の特徴としては、次のような事が挙げられます。

     「六」の字の「八」を逆に容どっていること。   「年」の字は、横棒が四本あり、二番目の横棒が縦棒より少し右に出ていること。

    「九」の字は、かなり右上がりに書かれ、最期の「はね」は太いこと。「月」の横棒は「−」ではなく「ヽ」であること。

    「画」の字は「一」と「田」が離れた形に書かれ、下の「L」よりも、最期の縦「|」が下に突き出ていること。

これだけでは不十分だと思われる方もあるでしょうから、写楽の絵から比較的分かりやすい落款を幾つか集めてみましたので、比較の参考にしてください。ただし、書かれた時期は上に紹介した作品と同じではありません。

                    

こうして六つを並べてみると、写楽と一九・長喜の落款を調べる前に、写楽の作品(落款)そのものを比較検討する必要性があることに気づきますが(「」の字体が明らかに異なるものがある=上の落款のうち両端のものは「写」の字のワ冠の中にツクリの部分が収まっており、筆使いも他の落款と比べて滑らか。書きなれた感じをうける。また「楽」の字についてもツクリの「木」の左のハネ方が右から2,3番目のものは他の落款と異なり、右端と右から2番目では明らかに字体が違っている)、それは別のテーマにするとして、落款の下にある「印」について説明をしておきます。ご承知のように、江戸幕府=町奉行所は当時の出版物に対して様々な規制を設けていましたが、浮世絵の世界もまた例外ではなく、お上にとって好ましくない題材を描いた物は「お咎め」(処罰)の対象とされていました。そんな中、出版に携わっている業者の組合(地本問屋)は、寛政2年(1790)10月以降、当番制で浮世絵などの自己検閲を行い、自分たちの問屋仲間の作品が奉行所の摘発に合わない様な態勢を整えていました。この検閲は、当時「」(あらため)と呼ばれていましたが、その検閲が正しく行われた事を証明するために上の画像にあるような「(きわめ)」の丸印が押されたのです。「極め付け」の語源は、ひょっとしたら、浮世絵の検閲だったのかも知れませんね。

話が少し横道に逸れましたが、その「改」の制度は寛政12年からは町名主から選ばれた「改掛」(あらためかかり)が行うようになり、天保の改革によって地本問屋が解散させられた後は「極」の印に代わって町名主の印が押されるように変化してゆくのですが、上の六点のうち一番左と右から三番目の作品には「極」の印がありませんから「改」を受けずに出版されたか、あるいは公に出版されず、誰かが私蔵していた作品と考えた方が良いのかも知れません。では、次に「一九・長喜」そして京伝・歌麿・馬琴の落款を並べてみますので、皆さんの目で写楽のそれと比較してください。

                       

ご覧になった印象は如何ですか?お互いに似ていると感じましたか!実は管理人も、こうやって写楽だとされてきた人物の落款を一緒に並べてみるまで十返舎一九説にかなり魅力を感じていたのですが、今、こうして見る限り二人の字体が他の人たちと比べて稚拙(文字が下手といっても良い)である点を除いて共通するものを感じ取ることが出来ません。特に、一九の名前の一文字である「九」の字は、明らかに別人の書いたものであることを示しています。一九の「九」には、それだけ特徴があります。また、特徴と言うなら長喜の「画」という字も独特のもので、写楽の「画」に見られる特徴とは、全く異なっていますし、京伝の「東」という字を写楽のそれと比べても、明らかに別人のものだと分かります。そして歌麿の「画」には、写楽や長喜とは又、別の特色が見受けられるのです。また馬琴の字体からは、明らかに物を書き慣れた人の字という印象を受け「写」と「馬」の「ヽヽヽヽ」の部分も微妙に異なっているように感じられます。

蔦屋が寛政6年に写楽の浮世絵を発刊した背景について、これまで「財産半減という処分を受けた後なので、蔦屋が浮世絵で大儲けを狙ったのだろう」といった解説が一般的に流布されていますが、専門家の研究によれば蔦屋の扱っていた商品は『投機的なリスクを伴う分野のものは一点も見当たらず』『蔦重は定番商品の出版権を握ったうえで堅実すぎるほどの商売をしてきた』人物との評価がなされているのです。また、先にも紹介したように当時の浮世絵版画は安価なもの(16文、ソバ一杯位の値段)であり、一度に大きな利益を齎す商品ではありませんでした。長喜・一九・京伝・歌麿・馬琴の五人が写楽ではないのだとしたら、後、考えられるのは変名の達人葛飾北斎くらいなものでしょうか。このページの締め括りに北斎の落款を見ておくことにしますが、この時期(寛政6年頃)まだ彼は「北斎」を名乗ってはおらず「春朗」「宗理」の名前で活躍していました。また、文化年間の一時期には「可候」の号を使用しています。

           北斎の別名「春朗」の落款

これは説明の必要もありませんね「画」の字体が明らかに違っています。写楽は北斎でもありませんでした。では、やはり「写楽」は東洲斎写楽という、全く、それまで無名であった新人の絵師だったのでしょうか?何度も触れてきたように蔦屋は財産半減という極めて重い処分を受けた後であり、この時期、海のものとも山のものともつかない「新人」にお金のかかる雲母摺りの大首絵を大量に描かせるほどの余裕はなかったはずです。そして、もう一つ別な気がかりもありました。それは、庶民生活の締め付けを強めているお上の目に、これらの豪華な錦絵がどう映るのか−また、お咎めの対象になってしまうのではないか、という懸念です。

では、逆に、どのような絵師であれば任せられるのか、蔦屋の立場になって考えてみましょう。まず、第一に筆力、つまり、絵の実力がなければなりません。第二は費用の問題です、お金のかかる出版物を、それも売れるかどうか見極めのつきにくい商品を売り出すのですから、出費を回収できる確証が必要です(例えば、誰かが全てを買い取るとかの約束でもあれば…)最期にとても重要な条件、それは「写楽」が誰かの変名だとして、何故、名前を変える必要性があったのか、という明確な理由です。

実は、或る絵師の名前が、もう頭の中に浮んでいるのですが、ここからは全くの当て推量、想像の世界になってしまいますから、写楽が一体誰であるのか、という疑問のお答えは、小説(写楽が誕生した日)の形でご紹介することにします。あーっ、違います違います、豊国じゃありません、彼は論外です。

(このサイトのトップページや最新ページに行くときは、ご面倒ですが下のリンクをクリックして下さい)

トップページへもどる