写楽斎外伝、武鑑が教える斎藤与右衛門の軌跡                                  「サイトの歩き方」も参照してください。

雲母摺りという渋い背景から、今にも外へ飛び出してはこないかと見まがうばかりの大首絵、少々の事にはびくともしない江戸っ子も、寛政六年の五月歌舞伎の興行に合わせて蔦屋から売り出された役者似顔絵には、さぞ驚いたことでしょう。版画には東洲斎写楽の落款があったものの、そのような絵師の名前は誰も聞いたことは無く、役者の「真」に迫る画風は業界内でも関心を集めたものの、翌年春には作品の発表そのものが途絶えてしまいました。好き嫌いは別にして、評判売れ行きも決して悪くは無かったのですが、人の噂も何とやら、巷での話題にも登らなくなり次第に忘れ去られる事になりました。そんな中、江戸幕府の下級官吏であり歌舞伎大好き人間でもあった大田直次郎(南畝,1749〜1823)が、自らの眼で確かめた浮世絵師の評判を短文の解説で記し『浮世絵考証』という小冊子にまとめます。これが知人、文人或いは好事家たちの手によって写筆加筆を繰り返される過程で生まれたものが、現在『浮世絵類考』という書名で知られている写楽研究の基本資料なのです。

和 暦  西 暦 名  前  住  所  和 暦  西 暦 名  前  住  所 和 暦  西 暦  名  前 住  所 
 天和元年  1681  斎藤与右衛門  京はし四丁目  宝暦三年  1753  斎藤与右衛門  弓丁よこ丁 文政六年 1823  斎藤与右衛門  八丁掘七けん丁
 天和三年  1683  同  上  同  上 宝暦十一  1761  同  上  京はし 文政十年 1827 同  上 同  上 
 元禄元年  1688  同  上  同  上 明和元年  1764  同  上  京はし 文政十三 1830 同  上 同  上 
 元禄四年  1691  同  上  同  上 安永二年  1773  同  上  八丁堀地蔵はし 天保二年 1831  同  上 同  上
 元禄八年  1695  同  上  京橋さい木丁 安永七年  1777  同  上  同  上 天保五年 1834  同  上 同  上 
元禄十一  1698 同  上  同  上 天明元年  1781  同  上  同  上 天保十五 1844  同  上 同  上
元禄十七  1704 同  上  さい木丁五丁メ 天明三年  1783  同  上  同  上 弘化三年 1846  同  上 同  上
 宝永元年  1704 同  上  同  上 天明四年  1784  同  上  八丁堀七けん丁 弘化四年 1847  同  上 同  上 
 宝永七年  1710 同  上  同  上 寛政五年  1793  同  上  同  上 嘉永三年 1850  同  上 八丁堀七けん丁
 正徳四年  1714 同  上  さいき丁 寛政十二 1800  同  上  同  上 嘉永四年 1851   同  上 八丁堀
 享保三年  1718 同  上 こびき丁?  享和元年  1801  同  上  同  上 嘉永七年 1854  同  上 同  上
享保十六  1731 同  上 弓丁ヨコ丁  文化三年  1806  同  上  同  上 文久元年  1861   同  上  八丁堀七けん丁
元文六年  1741 同  上 記載なし  文化八年  1811  同  上  同  上 文久四年 1864  同  上  同  上
延享四年  1747 同  上 弓丁ヨコ丁  文化十四  1817  同  上  同  上 慶応二年 1866   同  上  八丁堀
寛延三年  1750 同  上 記載なし  文政三年  1820  同  上  同  上 慶応三年 1867   同  上  同  上
[註]上表の最右列下「嘉永」および「慶応」の各年間における斎藤与右衛門の所在地は、武鑑の版元の違いにより細部の俗称が不明ですが、転居はしていないと思われます。 

大田南畝が写楽に下した絵師としての解説は、

  これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を描かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む。

と云う素っ気ないもので、写楽の画風は南畝のお気に入りではなかったと思われますが、それから凡そ半世紀の時を経て編まれた物が、江戸神田の名主・斎藤市左衛門(号・月岑,1804〜1878)の手による『増補・浮世絵類考』(天保15年、1844)で、写楽の項には次のような記述が見られます。

  天明寛政年中の人 俗称、斎藤十郎兵衛 居、江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者なり。廻りに雲母を摺りたるもの多し。

オリジナルには無かった写楽の「製作時期」「俗称」「住居」と「本職」の四つの個人情報が付け加えられており、これが写楽の人物特定に大きな役割を果たす資料として珍重されることになったのは言うまでもありませんが、実は、これより十年ばかり先行した歌舞伎作家の奈河本介による写本(天保2年[1831]に購入した旨、奥書に記す。内閣文庫本とも呼ばれる)が存在しており、その欄外に『写楽は、阿州侯の士なり。俗称を斎藤十郎平というよし。栄松斎長喜老人の話なり。周一作洲』の書き込みがありますから、月岑が自らの類考を編んだ時、これを参考にした可能性があります(下の画像参照)。更に、これまでの研究で幕末の古書店主・達磨屋五一(1817〜1868)が持っていた写本にも、同様の内容が書き込まれている事が分かっています。しかし、時間的な前後関係は不明です。何故なら、書き込みそのものが購入時点で既にあったとは限らず、本人、或いは後に入手した人物が他の資料から転記した可能性を排除できないからです。

  奈河本     「江戸方角分」    

東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

奥書と書店印  瀬川富三郎  酒月米人  曲亭馬琴

写楽の活動期に十代後半を迎えていた江戸の戯作者・式亭三馬(1776〜1822)が、自ら『三馬按、写楽、号、東周斎、江戸八丁堀に住す。半年余行わるるのみ』の文言を付け加えたのが、大体、文政四年(1821)頃だと推定されていますから、歌舞伎役者の真に迫った浮世絵版画が江戸の町で売り出されてから、ほぼ三十年後に彼の住んでいた町名が特定されたのだと言えそうです。これについては三馬が独自の情報源を持っていたと考えることも出来ますが、文化十四年から翌文政元年(1818)にかけて作成されたと思われる『諸家人名江戸方角分』という未刊の資料には、写楽と酷似した「写楽斎」という人物の名前が記載されており、この人物の住まいが「八丁堀、地蔵橋」となっていることから(上の画像参照)三馬が、この写本を見る機会があったと考える研究者も居ます。しかし、江戸方角分という書物は、これまで二冊の写本が知られるのみで、江戸で暮らした文人たちの間で広く流布したとは想像することが出来ないだけでなく、その信憑性についても早くから疑念が表明されてきました。それが大田南畝の奥書に関わる偽筆問題です。

『南総里見八犬伝』の作者である曲亭馬琴(1767〜1848)は、東洲斎写楽とほぼ同じ世代の江戸人ですが、彼は未刊の作家論『近世物之本江戸作者部類』(天保五年に成立)という書物の中で、蜀山人二世を名乗った文宝亭(亀屋久右衛門、1768〜1829)について、凡そ次のような評価を述べています。

  但この手迹は蜀山人の骨髓を得て、彼紫の朱を奪う菖蒲燕子花ともいわましとて、よく玉石を辨ずるものなし。よりて師の僞筆をなすに、乞う者僞筆と知りつゝも、その速き
   を欣ぶもありけり。此をもて月の十九日毎なる杏花園の小集に、主翁の書を乞うもの多かる時は、文寶主翁の傍に侍りて、公然として僞筆をしたり

正に目を疑いたくなるような文言ですが、南畝の「手跡=筆使い、書体」の「骨髄=真髄」を会得した文宝亭は、南畝が主催する毎月の会合に同席して蜀山人の「書」を求める人が多い時には亭主の側に座って「公然と偽筆した」らしいのです。馬琴は続けて彼が二代目を名乗ったものの、病を得て文政十二年に死去したのは『偽筆の崇り』だと辛辣な言葉で締めくくっていますが、江戸の書誌に詳しい八丁堀生まれの三村竹清(1876〜1953)も、蜀山人判取帳を取り上げた『判取帳筆者小伝』の中で南畝の弟子・酒月米人(榎本治兵衛、号・吾友軒、?〜1818)を、

  蜀山流の手をよく書きて、文宝亭を凌げり

とまで評しています。一説には、竹村自身が蜀山流の書き手でもあったそうなので、米人の記した文字などは素人目に南畝自著の物と区別がつかなかったかも知れません。であるのなら、今まで誰も疑いを差し挟まなかった「方角分」の奥書そのものも真贋の是非が問われることになるでしょう。何故、方角分には写本が二本しかなく、その何れもが古書店の収蔵物だったのか、また、大変な書籍愛好家でもあった南畝が、何故知り合いの歌舞伎役者から贈呈された原本に近い写本を直ぐに手放したのか、更には、南畝の蔵書目録に何故、方角分の書名そのものが無いのか等々、謎の解明にもつながるのではないでしょうか、それはさておき、今回の主題に取りかかりましょう。

武鑑」は江戸期に民間の書籍などを扱う問屋が発刊した紳士録です。収録者は大名、旗本、御家人は勿論のこと、本来は町人であった医師、職人、などで武士の身分を幕府から与えられていた者も含まれており、写楽ではないかと見られてきた能役者も「お役人篇」の最後尾に名を連ねています。写楽探しを続けてきた当サイトでは、これまでにも度々この書物について解析を行ってきましたが「写楽=斎藤十郎兵衛」説に対する一番の疑問点が、武鑑に一度も斎藤十郎兵衛の名前が記載されていない処にあります。では、従来の研究結果を基に、斎藤与右衛門と十郎兵衛の足取りを探ることから謎解きを初めてみましょう。いつもの表の出番です。

資料名   記述の内容  注意点など
 過去帳
 (法光寺)   
 寛政三年六月、当時 八丁堀 松平阿波守様内居住 斎藤与右衛門 事   [註]この人物が十郎兵衛の父親ではないかと考えられる。
 寛政十年十二月、南八丁堀 松平阿波様内 斎藤重郎兵衛 祖母  名前が「重郎兵衛」になっている。この時点での住居は「南八丁堀
 享和元年(1801)三月、北八丁堀地蔵橋 斎藤十郎兵衛 子  住居が「北八丁堀地蔵橋」に変わっている。
 文化十四年(1817)七月、八丁堀地蔵橋側 斎藤十郎兵衛 母 七十二歳 (母親の生年は1746年)
 阿波御両国 
  分限帳 
 寛政四年(1792)八月、御役者、五人扶持判金二枚 斎藤十郎兵衛(江戸住)    五人扶持金二枚 斎藤與右衛門(江戸詰
 文政十二年(1829)十二月、御役者、五人扶持判金二枚 斎藤与右衛門  斎藤十郎兵衛の名前は出ていない(文政三年、1820没故か)
 猿楽伝記   天保十四年(1843) 斎藤与右衛門 卯に52歳(生年1792)  『猿楽分限帳』 文化七年(1810) 斎藤十郎兵衛 午に49歳(生年1762) 
 明細短冊  慶応元年(1865)   斎藤与右衛門 丑に70歳(生年1796  国立公文書館が収蔵している、旧徳川幕府からの引き継ぎ文書より 

武鑑・安永二年  武鑑・天明四年  武鑑・天保十五年

大きく分けて問題点は二つあります。先ず一つ目は冒頭近くに在る「武鑑」一覧表を見て貰えば分かるように、この資料に喜多流地謡の役者として掲載されているのは終始一貫して「斎藤与(與)右衛門」と名乗る人物一人だけであり『斎藤家では親子で「十郎兵衛」と「与右衛門」の名前を交互に名乗った』とする研究者の説に合わないのです。但し、この疑問点は『重修猿楽伝記』(天保14年、1843)という能楽の資料に「与右衛門、52歳。十郎兵衛、24歳」とあり、また阿波藩の『無足以下分限帳・寛政年度版』(寛政四年、1792)にも「十郎兵衛」「與右衛門」が揃って記録されているので、武鑑との「違い」だけで『十郎兵衛』の「不在」を判断することは今の処根拠薄弱なようですが、法光寺が管理している過去帳の内容から(十郎兵衛の父親と見られる)、

  寛政三年六月に、阿波藩の屋敷内に住んでいた斎藤与右衛門が亡くなった

のだとするなら、その翌年の分限帳で「江戸詰」の御役者として登録されている「斎藤與右衛門」と「江戸住」の十郎兵衛が本当に親子だったのか、という疑念は残り続けます。父親が前年に亡くなっていたのですから当然「十郎兵衛の跡を継ぐ子」は祖父の通称である「与右衛門」を名乗ることになったと考えられますが、如何に世襲の分野だとは言え「一歳」の赤ん坊に俸給が下され、御殿様の参勤交代に同道することは無いだろうと思われます(江戸詰とは、本国から江戸の藩邸勤務を命じられた藩士である事を意味しています)。また「猿楽伝記」から生年が分かっている(1820年生まれ)斎藤十郎兵衛の名も、文政十二年版の分限帳には記載されていません。彼は当時未だ九歳ですから、藩からお扶持を頂けるほどの御役者とは認められていなかったという事でしょう。能楽師は「武士の身分」を与えられていたのですから、元服の儀式が一つの目安になっていたとも考えられます。もう一つの問題点は与右衛門の「年齢」の不一致です。猿楽伝記も「明細短冊」も所謂公文書の類ですから、各座の太夫を通じて監督機関或いは、それに準じる庇護者(徳川家の一門)に提出されたものです。従って、その内容に不備があってはならないにも関わらず、僅か二十年余の間で歳の差が「四歳」も生じているのは不可解としか言いようがありません。江戸期の人たちが産まれた年の干支で暦年を確かめる術を持っていただけに、いい大人が自分の生年を書き間違えたとは到底考えられません。

そこで浮上するのが「与右衛門二人説」とでも言うべき解釈です。つまり、江戸期を通して武鑑に名前が登録されている「斎藤与右衛門」と、阿波御両国分限帳に記載されている「江戸詰、斎藤與右衛門」は別人なのではないか、という推理が成り立つのではないかと謂う訳です。上の表で背景の色を青く変えてある部分は、確実に斎藤家の当主が「十郎兵衛」だったと見られる時期ですが、武鑑には、その居住地が「八丁堀七軒(けん)丁」と記されています。この記載内容に間違いが無いのだとすれば、過去帳に見える斎藤親子の住所とは全く合致していません。確かに「斎藤与右衛門」と云う人が八丁堀の「地蔵橋」に住んだ事はありましたが、それは「安永二年(1773)から天明三年(1783)」にかけての時期ですから、1762年生まれだと思われる「十郎兵衛」はその頃「11〜21歳」で、未だ一家を構えるまでには至っていなかったと思われます。更に、この武鑑が伝える「与右衛門」は天明四年(1784)に住いを「八丁堀七軒丁」に移して以降は幕末まで転居した形跡がありませんから、享和元年(1801)に「北八丁堀地蔵橋」に住んでいた斎藤十郎兵衛一家とは別の人物だと判断せざるを得ないのです。文字で説明すると如何にも複雑に感じますが、表に示せば実に簡単明瞭です。(註:斎藤与右衛門が住んでいた家のある場所の俗里名は『しちけんちょう』です。資料によっては[七間丁]としている物もあります。元々、川筋だった所を埋め立てた造成地と見られます)

 資料名  天明三年  寛政三年  寛政十二年   享和元年 文化十四年   文政三年
 過去帳   不  明  八丁堀 藩邸内   八丁堀 藩邸内   八丁堀 地蔵橋   八丁堀 地蔵橋   八丁堀 地蔵橋 
 武 鑑  八丁堀 地蔵橋   八丁堀 七軒丁  八丁堀 七軒丁  八丁堀 七軒丁  八丁堀 七軒丁  八丁堀 七軒丁

地蔵橋周辺  七軒丁の位置  近世物之本

文久二年に発刊された「八丁堀細見図」を復刻した地図を上に載せましたが、地蔵橋と七軒丁は確かに「近く」ではありますが、決して「斎藤宅」が在った所と「同じ」ではありません。また、左の画像でも分かる通り、1862年の時点において斎藤与右衛門の住まいが地蔵橋近くの屋敷から消えています。正にミステリーな状況ではありませんか!斎藤月岑が増補・類考を編むに当たり幕末の集書家として著名な鎌倉屋豊芥子(石塚重兵衛、?〜1861)の『蔵本を借獲』たことが分かっており、豊芥子の手許に「方角分」の唯一の転写本(教育大本)があったことも彼の蔵書印から明らかなので、月岑が「写楽斎 地蔵橋」の記事を見た可能性はあります。しかし、そこには「斎藤十郎兵衛」の名前は出ていませんから、別の情報源があったとしか考えられません。それが上で見た「内閣文庫本」などであった可能性は残されていますが、写楽の活動時期を「天明寛政」とした理由は謎のままです。

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