洒落斎と大田南畝、天明狂歌の人脈を探る                                           「サイトの歩き方」も参照してください。

「寛政三美人」や「江戸の花」などの美人画で知られる喜多川歌麿(1753?〜1806)が、蔦屋重三郎の書肆から出版された『画本虫ゑらみ』(石川雅望編、狂名・宿屋飯盛)の全十五画を担当したのは、狂歌が全盛期を迎えた天明八年(1788)のことですが、我々が知っている狂歌師に混じって、面白い狂歌名の持ち主が「蛍(ほたる)」の作者として取り上げられています。それが「洒落斎滝麿(しゃらくさい・たきまろ)と名乗る人物で冒頭近くに土師掻安(はじのかきやす、通称・榎本治右衛門、?〜1788)と一緒のページに掲載されています(下左の画像参照)。この画本は発売以降、江戸の好事家たちの人気をかなり集めたようで、研究家によれば多くの「異本」が存在するとのこと。また師匠の鳥山石燕(1753?〜1788)は弟子の画集出版を大層喜んだようで『今、門人歌麿が著す虫中の生を写すは是心画なり』と跋文の中で褒めています。石燕は、この年に物故しますから歌麿は師匠に良い恩返しをしたと言えそうです。それはさておき、洒落斎はあくまでも「しゃれ」心で付けた狂歌師としての名で、この人物の名前は二年後の寛政二年に上梓された絵本「駿河舞」(別名、吾妻遊)という三巻物の狂歌本にも登場し、上巻の巻頭では次の一首が紹介されています。

  見渡せば 茶屋の軒端の 花紅葉 今日顔見世の 錦とぞ見る

西行法師にすすめられて藤原定家が詠んだ「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」という三夕の一つを捩ったものだとするなら、洒落斎も狂歌仲間の誰かから、紅葉で一首と勧められたのかも知れません。また、編者が多彩な歌詠みの中から、わざわざ一番初めに作品を紹介しているのですから、その筋では著名な存在だったと思うのですが、本名や職業、住所、生没年などの情報を得ることは一切出来ませんでした。ただ、師匠筋に当ると思われる四方赤良(大田南畝)が『巴人集』(天明四年)の中で『洒落斎が、かひ(甲斐)の国にまかると聞きて』と詞書を付けて「酒折の つつらおりなる 山道を 行くや躑躅も ひともしころ」の一首を書き留めているので、江戸から甲府に居を移した人だった可能性もあります。彼が町人ではなく御家人であったとすれば甲府勤番も考えられるでしょう。ここで南畝が作品の中に「酒折」の地名を詠い込んでいるのは、恐らく「連歌の創始者」と崇められた日本武尊(ヤマトタケル)の酒折宮伝承を意識したものだったに違いありません。

虫ゑらみ  「駿河舞」

一方「駿河舞」をわざわざ蔦屋に頼み込んでまで上梓した竒ゝ羅金鶏と云う狂歌師ですが、この人は畑金鶏(通称、畑道雲、1767〜1809)とも号する医師で、もともと上毛国七日市藩の藩医まで務めていたのですが、三十代の半ばで職を辞し江戸に出て、狂歌を唐衣橘洲(田安家家臣、小島謙之)に学んで『網雑魚』など幾つかの著作も出版しています。(註:『蜀山歌集』を編集した藤井乙男は別の見方をしており、次のように記しています。[「あみざこ」の作者奇々羅金鶏は、上毛国七日市侯に仕へて居た医師である。本姓は赤松、奇々羅は其の戯号である。明和の頃江戸に生れ、若くして俳諧狂歌を嗜んだ。俳諧は也有翁に私淑し、狂歌は蜀山人を宗としたらしい。「網雑魚」は弱冠に近い頃の狂詠を集めたものである。鹿津部真顔と頭光の序を得て居る。天明三年の出版と思はれる。跋に耕書堂主人蔦唐丸が上州第一の名物と称し、光の序に、今は上毛国七日市といふ所に在してとあるを見れば、その頃既に医を以て仕官して居たのであらう(中略)三十六歳の時に致仕して、江戸の墨田川の畔に居をトし、花月を友として、悠々風狂を事とした。文化六年に死んで居る。「金鶏医談」「網ざこ」その他狂歌の著書がかなりある。戯作もしたと言ふが、今は見当たらない]云々)。

橘洲に学んだにせよ、或いはまた赤良の門を叩いたにせよ、当時の江戸で狂歌人気を支えていた二人の内どちらかに教えを乞うた金鶏は、天明寛政期に生きた若者の一つの典型と言える存在なのかも知れません(註:狂歌集の末尾近くに「四方赤良先生」と題して[いづれ手もとゞかぬ程の御厚恩山より高し海より深し]と歌っていますから、藤井説が正しいようです)。それにしても耕書堂の蔦屋も、若干二十三歳の無名に近い謂わば素人の「企画」を直ちに取り上げて公刊したのですから、中々豪気なものです。それだけ金鶏の才に惚れ込んでいたのかも知れません、それはさておき。洒落斎の「蛍」に話を戻します。上の画像を見て東洲斎写楽の大首絵を連想した方は少なくないでしょう。筆者も「薄墨」の背景色に源氏蛍の燈す「明かり」を配した構図に、写楽が歌舞伎俳優の表情を雲母(キラ)摺りの黒銀色のキャンバスに浮かび上がらせた手管を思わず関連付けたくなる誘惑に駆られました。この想像が当たっていないとしても、恐らく四年後に役者絵で俳優たちの「真」の素顔を描くことに成る写楽は、この歌麿の「蛍」をどこかで見ていたはずです。

歌麿は珍しく役者絵を描かなかった浮世絵師としても知られていますが、ほぼ同時代の戯作者・式亭三馬(1776〜1822)が享和二年(1802)に著した『稗史億説年代記』という書物に掲げられた地図状の一覧表を見ると、その歌麿と写楽が絵師として意外に「近しい」関係だったのではないかと思わせます。下左に照介する画像を見て貰えば分かる通り、写楽は歌川、鳥居、北尾、勝川など幾つもあった流派のどこにも属さない、浮世絵海に浮かぶ「孤島」の形で表されていますが、独自の画風を確立した歌麿も師の鳥山石燕や栄松斎長喜などの兄弟弟子とは別個に写楽と同様、独り離れた位置に座を占めて標されています。勿論、これらの配置(と島の大きさ)には絵師それぞれに関する著者の判断(好き嫌いも含めて)が強く働いているのだと思いますが「浮世絵類考」に写楽の住居を「八丁堀」だと書き込んだ情報通の作であるだけに関心を持たざるを得ません。そして長喜という絵師は、後日、一般に流布していた浮世絵類考を書写していた或る人に『写薬は阿波藩の斎藤十郎平である』と告げた当人でもあります。

  歌麿と写楽    六家撰・萬象亭    近世職人尽絵詞   

  田舎芝居  大悲千禄本  百鬼夜狂  竹杖為軽

また三馬は、同じ「年代記」の中で青本などの読み物(草双紙)作者も新旧取り混ぜ取り上げて評価を加えていますが、彼の御眼鏡にかなったのは朋誠堂喜三二、恋川春町、芝全交などを含めた「名人戯作者六家撰」の面々です。写楽が版画に記した落款との類似性が見られた春町、そして恋川が自身の目標に掲げていた先輩格の喜三二は何れも歴とした武家でしたが、江戸っ子の間で「大當りした」作者の一人として紹介されている萬象亭(森島中良、1756?〜1810)と号する人物は金鶏と同じ医師を生業とする戯作者の一人でした。そして、この人もまた天明狂歌壇と無縁ではなかったのです。江戸幕府の奥外科医師を勤めていた桂川甫三(1728〜1783)の次男として生まれた彼は、寛政の頃まで家祖の元姓「森島」を名乗り通称は万蔵、平賀源内の門人として知られ、狂歌名を竹杖為軽(すがる)、森羅万象あるいは萬象亭とも号した人物で洒落本『田舎芝居』の作者でもありました。そして、この人の経歴で目を引くのは丁度、写楽が江戸で活躍し始めた寛政六年から三年余りの期間松平定信が藩主であった奥州白河藩に「御小納戸格」として出仕している事実です。定信が老中の職を辞したのが寛政五年七月、そして戯作者であり狂歌詠みでもある萬象亭が医師としてではなく、藩主の身の回りの雑用も含めた秘書的な職を意味する「小納戸役」として近習したのは、彼の持つ文壇画壇そして狂歌界等の俗知識を定信が必要としていたからだと想像出来ます。また、同じ寛政六年に浮世絵師の北尾政美が岡山津山藩(松平氏)のお抱え絵師となり、後年、定信の求めに応じて『近世職人尽絵詞』を全編独りで描き切り、その三巻物の作品に四方赤良(大田南畝)、手柄岡持(朋誠堂、平沢平格)そして身軽折輔(山東京伝)が揃って跋文を寄せているのも、背景に森島の周到な根回しがあったからではないかと思いたくもなります。

同じく「六家撰」の一人に数えられている芝全交(本名は山本藤五郎、1750〜1793)も武士ではなく商家生まれの戯作者ですが、この人の経歴も少し変わっています。元々、商人の家に生まれたのですが、水戸徳川家のお抱え狂言師(能役者)であった山本藤七(大蔵流)の養子となって能楽の世界で生涯を終えています。筆名は「芝西窪」の居宅に住んだことに因んだものと思われますが、司馬全交あるいは全交坊とも号して黄表紙『大悲千禄本』(挿絵は山東京伝が担当、天明五年刊)などの作品を発表して巷の人気者となっています。同じ年、蔦屋耕書堂から平秩(へつつ)東作(1726〜1789)が編集した『狂歌百鬼夜狂』が刊行されていますが、そこには唐来参和、四方赤良、宿屋飯盛、山東京伝、土師掻安など江戸の狂歌壇を主導する錚々たる十五名が名を連ね、唐衣橘洲が跋文を寄せています。ここまで書いてきて、ふと、写楽関連の資料「諸家江戸人名方角分」の八丁堀に載せられていた変わった狂歌名を思い出したので、次回は、そこから始めたいと思います。

TOP        

東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

     
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   東洲斎写楽と十遍舎一九