写楽斎と伊能忠敬が住んだ町、八丁堀                                                    「サイトの歩き方」も参照してください。

江戸後期、文芸の分野で大いに活躍した大田直次郎(南畝、蜀山人)が大変に筆まめな人物であったお蔭で、二世紀もの時を隔てた今、私たちは当時の細々とした出来事、風物等のあれこれを手に取るように知ることが出来るのですが、寛政年間に彼が書き留めた『浮世絵考証』という文書には三十数名の絵師に関する簡潔な記述があって、1800年頃「東洲斎写楽」と名乗った浮世絵師が江戸で人気を得たものの、僅か一両年で活動を止めたことも事実として確認する事ができます。また、写楽(斎)についてはほぼ同時代の資料として『諸家人名江戸方角分』(歌舞伎役者・瀬川富三郎編)と呼ばれる未刊の写本が二種類残されており、その内、時期的に先行するものと考えられる一本には南畝の手跡と思われる書き込みが数条あり、研究家によって本人による真筆であるとの判断も下されているのです。素人の筆者から見ても彼の書体はとても癖のある代物なのですが、交流の有った文人武人などの知己だけに限らず大田の「書」を欲しがる好事家も数多く、南畝の弟子・二代目を自任していた文宝亭(亀屋久右衛門、1768〜1829)などは大田主催の会合の席上公然と「偽筆」を行ったとも伝えられるほどで、書き方そのものを真似た「蜀山流」と称する筆法まで在ったそうですから、奥書の真偽については慎重な判断が必要であると思っています、それはさておき。

写楽の解説書に必ず登場し引用される「江戸方角分」八丁堀の項に『写楽斎 地蔵橋』の記述がある事は良く知られていますが、すぐ左隣に載せられている狂歌師についての指摘はWEB上でも殆ど見ることはありません。その人の名は吉田助右衛門と云い、方角分の編集者は彼の狂名を「此道蔵伎(このみちくらき)」と紹介し、八丁堀「亀島町」の住人であると記しています(下の画像参照)。大田南畝が天明狂歌界そのものを育て上げたことは広く知られていますが、吉田は天明三年(1783)に大田が交遊録を兼ねた詩文集(通称『判取帳』)を編んだ際、既に狂歌仲間の一人として作品一首が採録されていますから、古くから四方連を構成していた一員だったと推測されます。南畝を狂歌の創成期第一世代とすれば、彼の弟子に当り二代目に相当する世代を代表する狂歌師たちを俗に「四天王」と称していますが、国学者で戯作も著した石川雅望(1754〜1830、狂名・宿屋飯盛、号・六樹園)もその内の一人で、天明八年には喜多川歌麿の挿絵十五図を得て、蔦屋耕書堂から『虫ゑらみ』を刊行して人気を博しています。この歌集は四方赤良、唐衣橘洲、朱楽菅江、唐来参和、つむり光など当時の狂歌界を代表する錚々たる面々の狂歌を競わせるように掲載しているのですが、此道くらきも「こうろぎ」の作者として取り上げられています。従がって、各連を率いるなどして江戸狂歌壇の先頭にたって活躍をした訳では無いにしても、それなりの評価を文人仲間達から得ていた人であったようです。

方角分  虫ゑらみ

亀島町  忠敬の地図  天文台(北斎)

さて、その蔵伎が住んでいたとされる「亀島町」なのですが、本来、八丁堀の土地は全て奉行所に勤める与力、同心たちが幕府から拝領した武家地なので、町人たちの町並みのように「何々町」という名称が公に付けられていた訳ではありません。しかし、八丁堀に居を構える役人以外の町人(医師、書家、学者、能楽師、検校などを含む)も多く、生活上の便宜を図る目的で「何々丁、何々横丁」というような俗称が用いられ、一方では、最も近接した「町地」の町名(俗里名)をそのまま使用する事もあったようで、亀島「町」はその一例です。上左の画像で朱色の枠でしめした部分が町地の亀島町の一部で、恐らく蔵伎はこの一角の何処か、或いは図の下側にも広がっていた町地の何れかで暮らしていたと思われます。そして、瀬川が一枚物の江戸文人案内書として企画していたとされる「江戸方角分」の中で写楽斎が住んでいた地名「地蔵橋」は、この図の左下端にあたり、確かに斎藤与右衛門の名前も記されています(この屋敷図は嘉永六年版、1853年を基にしたもの)。

全くの偶然なのでしょうが、江戸後期、自分の脚で全国を隈なく測量して歩き、精密な日本全図を完成させた伊能忠敬(1745〜1818)が最晩年、写楽斎や蔵伎たちが暮らしていた八丁堀に移り住み「江戸方角分」が編集されたと思われる文化15年(文政元年)に、その地で亡くなっています。子供たちも成人し、婿入り先の家業の基盤作りにも目途の付いた忠敬は、寛政六年に役所へ提出した二度目の隠居願いが許可されたことから翌年七月江戸深川に移り住み、この年の四月に幕府天文方に赴任したばかりの高橋至時(1764〜1804)に入門を果たしますが、この時、忠敬は既に五十歳になっていました。高橋は幕府が密かに進めていた「寛政の改暦」を具体化させるための人材として上方から態々呼び寄せた暦学の第一人者ですが、彼等の江戸入りのタイミングが余りにも手際よかったのは、伊能の側には何か特別な情報源があったためではないかと推測する研究家も居る様です。そして、忠敬の転居先そのものに一つのヒントが隠されていそうです。

寛政二年、伊能は後妻・信(ノブ)を迎えていますが、彼女の実家が八丁堀にあったのです。信の父親は仙台藩の藩医を務める桑原隆朝純という人物で、八丁堀亀島町の奉行所与力・藤田六郎左衛門の敷地内に居を構えていたのですが、後、文化十一年六月忠敬は義父から譲り受けたと思われる屋敷を改修して竟の棲家とするとともに、その家屋が幕府天文方所属の「地図御用所」としても使われました(場所は上左に掲載した画像で紫色枠の部分です)。寛政の改革を進める松平定信を若年寄としての立場で支えた堀田正敦(1755〜1832、下野佐野藩主)という幕閣が居ましたが、彼は仙台藩藩主伊達宗村の八男として生まれ養子として堀田家を継いだ人でした。また、改暦作業の中心人物でもあった堀田から桑原が得た「情報」を娘婿の忠敬に伝えていた可能性は高いと考えられます。更に桑原家の娘・遊(ゆう)が『赤蝦夷風説考』を著した仙台藩の藩医・工藤平助(1734〜1801)にも嫁いでいますから、この時期の幕府中枢の動きは「仙台閥」とでも言うべき人々には逐一知らされていたのかも知れません。

このように伊能の人脈を整理してみると「幕府(堀田)」と市井の学者である娘婿を繋ぐ重要な役割を果たしたのが「岳父(桑原)」その人だった事に間違いなさそうなのですが、そもそも佐原という地方都市で商家を営んでいた忠敬が、どのような経緯で大大名の上席藩医(四百石取)を務め、幕閣とも親しかった桑原家の娘を後添えに迎えるようになったのか?その点は不明としか言いようがありません。

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