写楽斎と斎藤与右衛門が住んだ「八丁堀」という町                                   「サイトの歩き方」も参照してください

江戸の草創名主・斎藤月岑が著した『増補浮世絵類考』(1844)に、写楽は「斎藤十郎兵衛という阿波藩の能役者」であると書いてあり、江戸後期の歌舞伎役者が編集した『諸家人名江戸方角分』(1818)『八町堀』の項には「写楽斎 地蔵橋」とある。更には江戸末期に公刊された細見図に「斎藤与右衛門」宅の表記が見えて、喜多流能役者の斎藤家では「十郎兵衛と与右衛門の名を代替わりごとに交互に名乗り」その上、斎藤家の菩提寺の過去帳にも一族の名前が記録されているから、東洲斎写楽という浮世絵師が斎藤十郎兵衛であることは全く間違いのない事実である。というのが平成24年初め現在における大方の意見なのですが、どうも何かもう一つしっくり来ない、違和感を覚え続けていると云うのが本音です。まぁ、性格がへそ曲がりだという事もあるのでしょうが、

  多くの同僚家族たちの眼が光る、狭い藩邸内の長屋で一年近くも誰にも見つからずに版下絵を描き続けられるものなのか?(阿波藩には21名もの能役者がいました)
  (生年の推定が正しいとすると生後間もない息子を含め、最低でも家族は六人います。鍵のかかる自分専用の部屋など持てるはずもありません)
  流派の始祖である喜多七太夫らが、かつて閉門となった苦い経験は、芸事を軽々しく扱ってはならないという教訓として活かされなかったのでしょうか?
  (将軍家の不興を蒙り、他の流派からも孤立していた喜多七太夫らが閉門を命じられたのは寛永十二年、1635年のことであり、それから暫くたった正保二年(1645)六月には
  各家に伝わる技芸を怠るべからず。身におわぬ芸をなさず専ら家業の古法を守るべし。などの将軍家上意が各座に戒告として伝えられています)

という根源的で平凡な疑問がどうしても拭い去れない所に能役者説を素直に受け入れられない大きな理由がありそうです。また、研究者たちはほぼ一様に「地蔵橋」という通称が付された家並みを、ある特定の一角にのみ限っていますが、その辺りに「地蔵橋」という小字のような呼称があったのは、言うまでも無く『長さ六間、幅九尺』の小橋が髪結床の袂にかかっていたからで、その「北側」だけが地蔵橋の名で呼ばれていた訳ではありません。何故、二百年も前の時代の些事が分かるのか不思議に思われるかも知れませんが、当時の人々が残してくれた一連の書物によって、我々は実に多くの事柄を知ることが可能なのです。今回は、写楽斎の正体探しだけではなく、彼らが現実に住み暮らしていた八丁堀、それも地蔵橋という極限られた場所にも焦点を当ててみたいと思います。(写楽に関する記事はWEB上にも沢山あり、斎藤十郎兵衛が寛政六年当時既に八丁掘に居たという内容の記述がしばしば見受けられますが、斎藤家が地蔵橋に転居したのは享和元年三月以前〜寛政十一年三月以後[過去帳の記載事実より]ですから、地蔵橋北側の居宅で浮世絵の下絵を描いていたのではありません)それで、先ず斎藤与右衛門(よえもん)という名前の能役者が、何時ごろから幕府に抱えられたのかという処から始めます。専門家の一人の著述によれば『享保二十一年版武鑑』に名前があって住所は観世屋敷のあった「弓町」らしいのですが、橋本博編の『大武鑑』(1965年刊)によれば、それより三十年ばかり前の宝永元年(1704)版武鑑の「喜多座組合」の欄に「地(謡) 斎藤与右衛門」の名前が掲載されており、住所は「京橋材木丁五丁メ」と記され、享保十七年(1732)版の武鑑にも名前が見えるので十八世紀初めには既に喜多流一坐のメンバーになっており、この後「弓町」に転居したものと考えられます。そして蜂須賀侯の御眼鏡にかなった誰かが阿波藩お抱えの役者となって南八丁堀の藩邸内で暮らすようになり、問題の十郎兵衛(1761年の生まれか?)が当主の時に八丁堀地蔵橋に居を構えたのだと思われます。ところが不思議なことに、文化五年(1808)版の武鑑には八丁堀地蔵橋居の斎藤十郎兵衛の名前は無く、そこに記載されているのは「北八丁ほり七軒丁」に住む斎藤与右衛門だけなのです。そして、もっと興味深いことに、私たちの関心の的である「八丁堀地蔵橋」には彼以外に四人もの能役者が住んでいたのです。(右下の図は中村静夫氏が1980年に編集した屋敷図の一部分です。オレンジ色の枠で囲んだ同心たちは、ここに貸家を建て自分たちは別の地所に住んでいました。また、ほとんどの同心が敷地の一部を町人たちに貸したり、貸家を持っていました。更に、専門家の調査によれば、町名の付された同心拝領屋敷地[例えば北嶋町、亀島町、岡崎町など]とされる地域には町地が在り多数の町人が暮らしていたようです)

宝永武鑑  享保武鑑  地蔵橋  PR

十九世紀初めの八丁堀は能役者の町と言っても良い位、多くの人々が暮らしていた町なのです。煩雑さをいとわず文化五年版「武鑑」から名前を拾い出してみると、

  福王茂十郎 観世 ワキ 南八丁ほり          梅若六郎 観世 ツレ 八丁堀かやば丁            梅若左源次 観世 ツレ 同所
  春日市右衛門 観世 笛 八丁堀かやば丁       高井平助 観世 大鼓 八丁堀地蔵橋           鷺仁右衛門 観世 狂言 八丁堀地蔵橋
  日吉長三郎 観世 狂言 八丁堀地蔵橋         岡村茂左衛門 観世 狂言 北八丁堀            岡田七之助 観世 狂言 八丁堀地蔵橋
  日吉久兵衛 観世 地  南八丁堀            山階弥右衛門 観世 地 八丁堀弁天横丁
  春日四郎右衛門 金春 ツレ 八丁堀永沢丁      幸小左衛門 金春 小鼓 八丁堀中与力町         
  僧要之助 宝生 笛  八丁ほり             幸万吉    宝生 小鼓 八丁堀与力町          楠田伊兵衛 宝生 小鼓 八丁ほり
  威徳甚左衛門 宝生 大鼓 南八丁堀          威徳三郎四郎 宝生 大鼓 南八丁堀五丁メ
  長命甚右衛門 金剛 小鼓 八丁ほり           川合彦兵衛 金剛 太鼓 北八丁ほり        
  山本七郎右衛門 喜多 地 北八丁堀竹島丁     田中庄右衛門 喜多 地 八丁ほり              斎藤与右衛門 喜多 地 北八丁ほり七軒丁
  寺井勘兵衛 新組 笛 北八丁堀水谷丁        長命勘蔵  新組  狂言 八丁ほり             野村理兵衛 新組 地  北八丁堀
  植田紋右衛門 新組 物着 八丁堀松や丁 

合計二十六名もの御能役者が「八丁堀」という幕府の役人と町人が入り混じって住む特殊な地域内で生活し、その内観世座の四名までが「地蔵橋」という更に限定された狭い場所で半ば「寄り添うように」日々暮らしていた実態が浮かび上がります。上で引用した「八丁堀屋敷図」は嘉永六年の資料が基になっていますから、文化年間と住宅事情が全く同じであったとは考えられませんが、地蔵橋の四方にある与力屋敷の住人として彼等の名前が見えないことは、これらの人たちは恐らく南組同心「宍戸郷蔵」や「中田海助」等の宅地に建てられた「貸長屋」のような住宅に間借りしていたか、同心屋敷地に混在していた町地に住んでいたと考えるほかありません。つまり「地蔵橋」の西側にも役人以外の人たちが住む家屋が多数(少なく見積もっても数十軒以上)存在していたと思われるのです。この状況は、歌舞伎役者の瀬川富三郎が「方角分」の出版を準備していたと考えられる文化十二年(1815)版武鑑でも変わりはありませんから、瀬川(が情報収集を依頼した人)が掘り起こした「地蔵橋」に住んでいる(or住んでいた)「写楽斎」という浮世絵師が、従来言われてきたように嘉永六年版切絵図で「地蔵橋」の北側にあった元与力・板倉善右衛門の屋敷の一角に住んでいた「阿波藩の能役者・斎藤与右衛門」の息子である斎藤十郎兵衛であるかどうかは不明だということです。『それは事実に反する。何故なら、斎藤親子が実在したことは別の資料で明らかになっている』という趣旨の反論があると思われますので、先回りして触れておきます。

東京大学史料編纂所が収蔵している田安徳川家旧蔵資料の中に『重修猿楽伝記』(享和二年)、『猿楽分限帳』という二つの書物があり、その「猿楽伝記」巻四の中に、

  喜多六平太支配  地謡  無足  父 斎藤十郎兵衛 
                           斎藤与右衛門 卯 五十二歳
                        父 斎藤与右衛門
                           斎藤十郎兵衛 卯 二十四歳

という記述があって十二世喜多六平太(1814〜1870)が三十歳の卯年(天保14年、1843)当時、確かに地謡方として斎藤親子が活躍していた事が分かっています。また、文化七年(1810)の資料だと考えられている「猿楽分限帳」には、

  喜多七太夫支配  無足       父 与右衛門  斎藤十郎兵衛 丑 四十九(従がって、生まれたのは1761年か)

とだけあって、息子の「与右衛門」の名前は見えていません。また、これとは別に後藤捷一が見つけた阿波藩側の資料(『蜂須賀家無足以下分限帳』寛政四年)にも二人の名前が確かめられていますから、喜多流能役者であった斎藤親子の実在そのものを疑う余地はありません。当サイトが今回取り上げているのは、その斎藤家の十郎兵衛が住んだという地蔵橋の家と「方角分」で写楽斎と紹介された浮世絵師が住んでいた「地蔵橋」の家が「同じ」だと言えるのか?また「武鑑」に喜多流の役者として名前の挙がっている斎藤与右衛門の住所は「八丁堀七軒丁」となっているが、これは地蔵橋に住んだとされる人物と同一人なのか?という二つの疑問点なのです。「七軒丁」と呼ばれた場所は確かに地蔵橋から遠く離れてはいませんが、どちらかと言えば松平越中守(定信)屋敷寄りの、与力同心組屋敷としては最も南西側にある一角を指した通称で、明らかに「地蔵橋」とは異なります。そこで、今度は「七軒丁」に与右衛門の家があるのかどうか見てみると、これも又記載されていないのです。可能性として考えられるのは先に見た四人の「地蔵橋」住人と同様、敷地を自宅として使っていない「森泉甚五郎・野田大助」や他の同心屋敷内の貸家住まい、或いは町地住いだと思われるのですが、それにしても屡内容の改訂見直しが行われたと考えられる官許刊行物の「武鑑」が、喜多流能役者・斎藤与右衛門の住いを長期間にわたって「七軒丁」と記し、交互に名乗ったはずの「十郎兵衛」の名前を一度も記録していない事実を、一体どのように考えれば良いのでしょうか?(屋敷図と最も時期の近い嘉永四年版の「武鑑」でも斎藤与右衛門の住所は「八丁堀七軒丁」と記載されています)

分限帳と伝記  分限帳  七軒丁とシンミチ

能楽の専門家にも直接尋ねてみると『武鑑の記述そのものが100%信頼できない』との率直な答えが即座に返ってきたのですが、寛政から嘉永までの半世紀だけを取ってみても六度の改元、代替わりがあったのですから出版元の問屋でも、全記載内容の校定作業を少なくとも何回かは実施したと思うのですが如何でしょうか!形式的なもので形骸化していたとはいえ「御普請方」沿革調担当者の認印もある各種「武鑑」の全てが斎藤与右衛門の住所を最初から最後まで「七軒丁」と記していたのであればともかく、宝永初めは「京橋材木丁」そして「材木丁」あるいは「京橋」「弓町」と書かれた後に「八丁堀七軒丁」の表記に変わって定着したのであれば、出版元の編集者の手許には何らかの転居情報が逐一とは言えないまでも、ある程度の頻度で届けられていたのではないか?そう思えてなりません。また細かい話になりますが、当時の出版は当然「木版」によるものですから、一定の部数を刷ることで版木が傷みます。その都度全ての版木を新調しないまでも、定期的に版木そのものの入れ替えが行われたと考えても不自然ではありません。若し、そうだとすれば記事内容の改訂が版木の更新と並行して行われたと考えることは理にかなっています。多くの人々が買い求める「武鑑」の文字が崩れ掠れて読みづらく、更に肝心の内容が間違っていることなど許されるべきではないと思うのですが如何?果たして斎藤与右衛門は「二人」居たとでも言うのでしょうか!(「七軒丁」については、別途調べてみる必要がありそうです)

また、一つの状況証拠に過ぎませんが「地蔵橋」を始め八丁堀界隈に二十余名の能役者が住んでいたのですから、若し、その内の一人が「匿名」で歌舞伎役者の浮世絵を描いていたとしても、誰かの口から『あの絵師の本名は誰それだ』という噂が流れて当然で、地元の三百人にも及ぶ与力同心は勿論、地蔵橋周辺の住民の誰一人として「写楽斎=斎藤十郎兵衛=東洲斎写楽」であるという事柄について一言も漏らしていない事実は、この「写楽斎・能役者説」そのものが虚構であったことを示唆しているのではないでしょうか。写楽を論じる人は江戸の封建制に基づく「身分差」の重大性を強調して、本人が自ら役者絵を描いた事実を公表するはずもなく「方角分」の編集者であった瀬川自身も、その辺りの事情をよく弁えていたから幾つもの項目を空欄のままにしたのだと言いますが、果たして「無足」身分の役者一人のために出版界の全てに関わる関係者が一斉に口をつぐむなどという事が在り得るものでしょうか!それが江戸っ子の粋っていうもんだと言われれば、それまでなのですが…、育ちが卑しく武士の情けとは縁遠い者としては「隣は何をするひとぞ」の感覚こそが当たり前の様に思えてなりません。

『これまた歌舞伎役者の似顔うつせしが、あまりに真を描かんとて、あらぬさまにかきしかば』と「浮世絵考証」に書き留めた大田南畝は、自らの贔屓役者市川鰕蔵などを独特の筆使いで表現した東洲斎写楽の浮世絵を現実に見ていました。古希を目前に通勤途上怪我をして自宅療養を余儀なくされた南畝は、暇にあかせて自らの半生を振り返り青春の在りし日を回想した文を書き連ね、狂歌狂詩なくては夜も日も開けなかった「あの頃」に想いをはせていました。漸く傷も癒え仕事にも復帰していた彼の許に、一昨年急逝した山東京伝が自ら書き置いた「浮世絵追考」が届けられ、再び三度南畝が天明寛政の黄金期の出来事を反芻していた折も折、今度は歌舞伎俳優・瀬川富三郎が編んだ「江戸方角分」という人名録が数日の時を挟んで贈られたのです。前回の調査で南畝にとって「八丁堀地蔵橋」が決して未知の土地ではなかったことも分かってきました。むしろ「旧知」の、そして懐かしい土地柄でもあったのです。そんな彼の目に「写楽斎」の三文字はどう映ったのでしょう。つい先日届いた京伝形見の論考も目の前にあるのです。若し、南畝が「方角分」にある写楽斎・地蔵橋の文言を見ていたなら「浮世絵類考」の原本に、その情報が必ず反映されていたと思うのですが…、考え過ぎでしょうか。

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