写楽」は何人いたのか?落款の                     サイトの歩き方」も参照してください。

人気の浮世絵師、東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく、生没年不明)については実に多くの人たちが、その「正体」を求めて様々な「説」を展開しています。このオノコロ・シリーズでも既に二回彼について雑文(「写楽」)を披露(「写楽が誕生した日」)していますが、今回は、サンフランシスコ美術館東京国立博物館の収蔵品を基に、彼の作品に残された「落款(らっかん)」(署名)から推理の糸をたぐり寄せてみたいと思います。写楽については「写楽=写楽説」(誰かは不明だが、写楽という人物が作品を描いた)から「写楽別人説」あるいは「写楽工房説」まで、多彩な推論があることは皆さんも良くご存知だと思いますが、ここでは時代考証や文献・資料の分析、また各種論文に発表された問題点の比較など、所謂、研究的な方法を一切とりません。いつも、お断りしているように、ここはどちらかと言うと妄想の類のページですので、集め得た資料・画像から誘発される思いつきを述べるだけなので、皆さんも、そのつもりでお付き合いください。ただ、一つだけ前提があります、それは「写楽の落款がある作品を彼(単数か複数かは別にして)の描いたものだとして」論を進める、という視点です。

写楽に限らず浮世絵版画作品の多くが海外に持ち出されていますが、2003年11月現在、米国サンフランシスコ美術館には九十点余りの写楽版画が収蔵されており、そのうち約半数の画像をWEBで簡単に検索、鑑賞することができます。そして、WEBからの閲覧者にとって有り難いことに、ここの収蔵品の保管状態は良好で、しかも画像の部分拡大表示が可能なため、浮世絵の一部だけを任意にズームアップすることが容易なのです…。だから、管理人のような「落款」探しを目的とした変わり者にとっては、とても好都合な美術館なのです。前置きはさておき、折角手に入れた画像のご紹介に移りましょう。

 妄想の始まり、きっかけは、この作品との出会いでした

寛政六年(1794)五月五日、都座の都伝内などが街中に繰り出し派手に行った『曽我祭り』がお上の逆鱗に触れ、というほどではありませんでしたが、その「派手な行為」について「時節柄不届き」であるとのお咎めを受けた経緯は既にご紹介してきましたが、上の画像の人物は、正に、その折行われた『花菖蒲文禄曽我』(はなあやめぶんろくそが)に出演していた三代目坂田半五郎(さかた・はんごろう)が演じる「敵役」の藤川水右衛門の大首絵です。このお芝居の主人公の一人というわけで、所謂超一流の「千両役者」ではありませんでしたが、年俸三百二十両の中堅俳優(蛇足=余談ですが、この年の十月、お上より役者の年俸を削減するようにお達しがあり、最高額が五百両と定められたのですが、その時、多くの三百両役者が大幅に年俸を減らされていたのに、何故か、この半五郎だけは「二十両」の減額にとどまり、役者世界での地位を相対的に高めています)不適な面構えは仇討ち側の長男を「返り討ち」にした人物という史実を踏まえての役作りが成功したと云えるのかもしれません。実際に亀山で石井兄弟による仇討ちがあったのは元禄十四年(1701)のことです。

一口メモ控櫓=俗に江戸三座と謂われる様に江戸で芝居を興行することが出来たのは、元々幕府の「官許」を得た四座だったのですが、有名な「江島生島事件」(1714)で山村座が廃業となったため結果的に中村座・市村座・森田座の三座となったのです。そして、この三つの小屋が金融難などの理由で興行が出来なくなった場合に備えて「控櫓(ひかえやぐら)」がそれぞれに認められており、都座は「中村座」の控櫓でした。因みに、写楽が活躍していた時、他の二つの劇場も都座と同様の控櫓だったのです。

江戸歌舞伎興行年表」によれば都座は、寛政六年二月一日から始めた『初曙観曽我(はつあけぼのかおみせそが)』の興行を三月、四月と外題を代えながら続行、五月五日の節句を選んで『花菖蒲文禄曽我』の外題とし上演を継続したのですが、上で紹介した坂田半五郎の錦絵は、その出し物の名場面を描いたものだと推測されています(また、菊池貞夫氏によれば、寛政六年五月は二世坂田半五郎の十三回忌に当たることから、態々この時期を選び追善興行とした、とのことです)。写楽の作風を研究している方の中には、これらの「大首絵」二十八枚を作品の到達点、つまり「最も後で描かれたもの」だとする向きもあるようですが、若し、そう考えるのであれば、百数十余点に及ぶ一連の作品群が、寛政六年五月以前に行われた、どの歌舞伎芝居のどの役者が演じた役柄を表現したものであるのかを、具体的に説明しなければならないでしょう。(管理人の妄想では、写楽の大首絵は江戸三座が五月興行で『曽我祭り』を賑々しく行うために考え出した広告チラシのようなもので、周到な準備期間をかけて作成したもの、という事になっていますので、一番初めの大首絵の出来栄えが素晴らしい事実とも矛盾は生じません。また写楽は、五月興行に関した三座の役者絵を都座・十一、桐座・七、河原崎座・十、とほぼ均等に描いています。これも歌舞伎芝居の三座が共同で出版費用の一部あるいは全部を負担したと考えれば納得が行きます)閑話休題、話を「落款」に戻します。サンフランシスコ美術館収蔵品の三代目坂田半五郎・藤川水右衛門に記されている写楽落款の拡大したものが、次の画像(一番)です。そして写楽の作品とされる物から、幾つか画像が明瞭なものを選んで並べてみることにします。

シスコ美術館収蔵品  落款にも色々とあります。 

もう、既にお分かりだと思いますが、一番左、つまりシスコにある「作品」の落款の「」の字だけが微妙に違っていますね。これが若し、印刷用絵の具の染み出しや、後世の加筆でないとしたら、この部分だけで少なくとも「写楽」の落款は出版当初から二種類存在していたことになります。つまり、初めの「一」の下の造りが「」の字形のものと「」字形の二つです。字というものが、というよりも「署名」が記された年代により異なることは考えられますし、署名「慣れ」した人の文字の形が時間とともに変化することも十分考えられます。しかし、それ以前に、上で紹介している右二つの落款の「冩」の字のれんが(、、、、)(を包み込む曲線)でさえ違った書体に見えるのですが、如何でしょう。つまり「疑い」の眼で見れば、どの落款も少しずつ違って見えてしまうのです…。問題、というより妄想の疑念を払拭する一番の方法は、写楽の全作品の落款を集め、それを一つ一つ照合してみることですが、それは不可能に近い……。でも、知りたいですよね、人情として。

そこで思い当たったのが東京国立博物館の収蔵品です。こちらにも写楽の作品が数十点あるのですが、なんと、好都合なことに、同じ画題の作品がWEBで閲覧できたのです。−−運がいいですね、皆さんは。では、その画像を次に見てもらいます。全体像と落款部分の拡大図です(色合いが微妙に赤みがかっているのは、もともとの画像の色具合です。こちらで加工修正をしたものではありません、念のため)

 見難いかも知れませんが、どちらに見えますか?

とても不鮮明な画像で判別もむつかしい処ですが、横棒の下は明らかに「」の字です、上左端の画像とは明らかに異なった字体です。そして「」の「」の右斜め線の引き方も同一の書体ではありませんね。隔靴掻痒、なんともじれったい、もっと鮮明で比較できるものがないのでしょうか?実は、あるのです。

東海道五十三次、亀山の宿、そこで実際にあった二十四年目の敵討ちを題材にした「花菖蒲文禄曽我」の役者大首絵は坂田半五郎一人の物だけではありません。二代目・坂東三津五郎(ばんどう・みつごろう)の「石井源蔵」そして大谷徳次郎(おおたに・とくじろう)の「奴袖助」を合わせた三枚セットの作品だったのです。幸いなことに、そのうちの「石井源蔵」はシスコと国博の双方に画像があります。であれば、その二点に記されている落款も照合の助けになるはず、そうですよね。という事で、再度、検索した結果をお見せします。(シスコ所蔵の落款が変な処でちょん切れているのは、ズームするときの範囲指定が自動的に行われるためで、故意に一部分をカットしている訳ではありません。源蔵の場合も同様です)

  左の物がシスコ美術館の収蔵品です

どちらも初めの横棒(一)は、下の「田」の字とはつながっていません。だとすると最初に見た一枚だけが「特別」なものである可能性がとても強くなりますが、ここまで書いてきて、何か、忘れ物をしているような厭な思いが脳裏を横切りました。それは、肝心な何かを、それも重要な何かを見落としているのではないか、という胃の辺りに硬いしこりが出来たような不吉な疑念です…。迷った挙句、もう一度、サンフランシスコ美術館のページを訪れたとき、その理由があっけなく判明しました。調べ物をする場合の原則を忠実に守らなかったため、至極単純な罠に自ら、はまってしまっていたのです。次の、三枚の画像を、良く見比べて見てください。

左と真ん中がオリジナルです

『著名な美術館がオリジナル以外の物を収蔵しているはずがない。ましてや、非オリジナルの作品をWEBで公開しているはずがない』と言う自分勝手な思い込みが間違いのもとだったのです。要するに複製品を本物だと錯覚した訳です。順を追って説明します。先ず、最初に「発見」した(一番最初に掲載したもの)「作品」が、そもそも二十世紀(1940年頃)に造られた複製品(上の右端)であり、その「落款」の字体の違いを基に推理を組み立ててきたのですから、これは、もう大失敗と言わざるを得ません。とは言え、今回の「発見」を、いきなりボツにするには余りにも忍びない、と言う心情から版画を複製・復刻した団体に問い合わせを行い、その担当者からは『限りなくオリジナルに近い形で』復刻したものだとの返事は得たのですが、肝心の「落款」の違いについては『学術的な問題について答える立場にはない』と、すげなく回答を断られました。当方は、別に「学術的」な、高尚な問題を提起しているつもりなぞ毛頭もないのですが、組織に所属する者としては立場上「うかつな」言葉は吐けないのでしょう。しかし、復刻作業が『限りなく』『オリジナルに近い』形で成された、と言うことが事実であれば、その「復刻の元」となった写楽のオリジナルには「由」の字体の落款があった間接的な証明にはなるでしょう。「落款」の部分だけは『実物を見ないと何とも言えない』と言うのも、プロらしからぬ言動のように思われてならないのですが…、愚痴るのは止めにして…。

ただ、一つだけ残された希望は、復刻に当たって『限りなくオリジナルに近い』ものを求めたのであれば、現在、東京国立博物館とサンフランシスコ美術館が収蔵している作品「以外」にも、別のオリジナルが存在している可能性が全く消えた訳ではない、という一点です(つまり復刻のモデルになった浮世絵が、今でも何処かに眠っているかも知れない)。
そして、ひょんなことから、もう一つの手掛かりが舞い込んだのです。

「画集」にあった異なる落款の意味するものは?

未練たらしく「写楽」を検索語にWEBを徘徊していた時、美術とはおよそ縁遠いと思われるサイトに写楽の画像(石井源蔵)が貼り付けてありました。先の失敗に懲りて、今回は先ず先方にメールを送り「復刻品」である旨を確認、そして、そのオリジナル(つまり、そのサイトの管理人さんが復刻品をコピーして掲載されていたのです)が掲載されている資料名も確かめました。その復刻版は、昭和47年1月、集英社から刊行された『全集浮世絵版画4 写楽』という版画集の一冊。数十点が紹介され、著名な一部の作品は、態々一枚ずつ摺り物として復刻してあり、その中の一枚が「石井源蔵」だった、と言うわけです。この版画集からは別の収穫もありました。「」の字体は「石井源蔵」に記された落款だけでなく、三世沢村宗十郎(さわむら・そうじゅうろう)の「大岸蔵人」そして有名な二世大谷鬼次(おおたに・おにじ)の「奴江戸兵衛」にも「由」の落款があり、解説文にはこの三点のうち「「石井源蔵」「奴江戸兵衛」の収蔵者が東京国立博物館であると明記されていました。そこで、また、新たな疑問が生じます。

  落款の部分は「全集」を直接撮影したものです。  PR

と言うのも、確かに東京国立博物館は「大岸蔵人」(1点)と「奴江戸兵衛」(4点)の浮世絵を収蔵しているのですが、その全ての落款はWEBで検索する限り、明確に「田」の字形になっています。そこから考えられる推理は二つしかありません。「集英社の復刻に当たって、直接作業を担当した版画師(絵師あるいは彫師)が『田』の字体をわざわざ『由』に変えた」のか、或いは、国博ではWEBで公開している物以外にも写楽の作品を収蔵している、かのどちらかになります。この考えを基にして国博に「お尋ね」のメールを送ったのですが、案の定、返事はもらえませんでした。「奴江戸兵衛」は、皆さんも良くご承知の代表作ですから、見覚えのある方も多いことでしょう。次に、そのオリジナル画像と「画集」にあった落款部分を紹介しておきます。

  国博のオリジナル  「画集」から撮影した落款部分

そもそも、浮世絵版画の復刻は明治二十年頃には既に行われだしていたようで、浮世絵の心得のある者(例えば有名な絵師の弟子など)が人気絵師の作品を真似たもの等が市場にも結構出回ったようです。また、大正時代には復刻の名人・高見澤遠治(たかみさわ・えんじ)という人が現れ、復刻版画を専門に作成しており、WEBによれば、彼が作った作品は『浮世絵の専門家たちにさえ本物との区別がつかない程精巧なもので』『松方コレクションから写楽などの浮世絵を借り受け』短期間のうちに復刻品を作り出したという逸話が伝わっています。この名人たちの手になると一つの作品の復刻に費やす時間は、つまり下絵を描き、版木を彫り・摺り終わるまでわずか3日間だと言う事ですから、高見澤クラスの職人が何人か居れば「一ヶ月に十数枚」の浮世絵版画を出版することも、十分可能だと思われてきます。何が言いたいのかというと、それは『写楽が一人で百数十点もの作品を1年足らずの間に作れたはずない』とする考え方に基ずく「説」には根拠が乏しい、という事です。彼に絵心があり、歌舞伎芝居についての、というより歌舞伎役者そして歌舞伎世界についての知識があれば「三日に一枚」程度の作品を描き続けることは十分可能であり、初めの大首絵の準備期間を考慮すれば、写楽にとって10カ月という活躍の時間は長すぎる程だったのかも知れないのです。今回のお話は途中で腰折れになり、結論めいた文句もないままダラダラと書いてしまいましたが、どうやら写楽の「落款」が二種類存在することだけは間違いなさそうです。それが「二人の写楽」を意味するのかどうか?皆さん、どのように推理されますか?では、最後に三世沢村宗十郎の「大岸蔵人」をご紹介して、お開きといたします。

  国博のオリジナル  「画集」から直接撮影したもの

名人・高見澤が活躍した大正時代は1920年前後、サンフランシスコ美術館に収蔵されている復刻品が世に出たのが1940年以前、この二つの事実に、若し何らかの繋がりがあるのだとすれば、次の妄想のネタになりそうですね。

写楽は本当に「多作」な絵師だったのか?

写楽の「多作」「早描き」について、もう少し話しておきたいので、おまけを続けます。百数十点の写楽作品が寛政六年五月から翌七年二月までの十ヶ月に、江戸三座(都・桐・河原崎)で行われた歌舞伎興行の出し物を主題にして描かれていたことから、一部の評家から『こんな短期間に一人の絵師だけで描けたはずがない』という疑問が提示され、それが「写楽工房説」などの論拠にもなっていますが、確かに、最初の大首絵二十八枚は別にしても、顔見世興行(十一月)だけで六十枚(間判11、細判47)という数は「多すぎる」ようにも見えます。しかし、オノコロ・シリーズ独自の妄想による「大判、事前の準備説」と、次に上げるもう一つの手がかりを素直に受け入れれば「多作」に関する疑念は解消できるように思われます。

それは『都座楽屋頭取口上姿』あるいは『都座座元都伝内口上姿』として知られる一枚の作品の中にあります。先ず、下の画像を見てください。

 口上を述べる都伝内?  口上部分の反転図

一人の、小難しい顔つきの人物が何やら「口上」を述べているだけの変哲も無い作品なのですが、彼の手元に注目してください。巻紙の一部にうっすらと文字が記されているのがお分かりでしょうか?その部分だけを切り取り、反転させてみたものが右側の画像です。裏から透かして見えるように細工がしてあること自体驚くほどの優れた技量だと言わねばなりませんが、もっと別の意味で興味が持てるのは、その文面で、専門家の調査によれば、この巻紙には『口上 自是二番目 新版似顔奉 入御覧候』つまり、歌舞伎役者の似顔絵シリーズ第二弾を予定していますので、ご期待ください、という意味の宣伝文が記されていたのです。此のあたりの演出に蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)や山東京伝(さんとう・きょうでん)の色濃い影を見てしまうのは考えすぎでしょうか!それは置くとして、五月興行の挨拶で、既に次の秋芝居の似顔絵を予告しているのですから、十一月の大切な顔見世興行のための浮世絵版画も同様に、かなりの時間的な余裕を持って作っていたと考えた方が自然です。そうすれば、写楽の「多作」問題も解決するのではないでしょうか。芝居の興行元である各座元や、或いは座頭からの情報と、歌舞伎芝居の演目そして筋書き・役者などについて、それなりの知識があれば、予定されている「お芝居」の名場面・一場面を「見立て」で描くことは、そうそう困難な作業ではなかったはずですから。また、昭和を代表する版画職人の一人によれば『絵師は粗方の構図や人物の姿だけ描いてくれればいい』『細かい部分は彫師に指示さえしてくれれば、それなりに仕上げられる』そうですし、役者の着る衣装の柄や紋などは役柄に応じて自然に決まる部分も多く、顔以外の絵柄については絵師よりも彫師の腕に任されていたと考えて良いのかも知れません。

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