秀才」と呼ばれた男、逸勢                          サイトの歩き方」も参照してください。

「天才」という言葉は正に彼のような男のためにあるのかも知れない。国号が変わり「唐」と呼ばれることになった大陸の先進国へ、公式使節団が十数回派遣されたが、彼・佐伯真魚空海、774〜835)が仏典を求めて渡海した延暦ニ十三年(804)、同じ第壱船に乗り込み、後、その書の巧みさで世に知られることになる一人の若い男が居た。

遣唐使船・その構造は「船」というより、むしろ「箱」です。

本来二十年の修学期間であるべきところを、たった二年で切り上げ帰国したのには訳があった。(空海の業績等については膨大な資料が残されているので、詳細を知りたければ幾らでも調べることは可能です。だから、興味のある方、そして時間のある方は、ご自分の眼で確かめてください。ここでは、上っ面だけを少しなぞるだけですから…。)外国語に巧みであった彼・空海は、唐人たちとの会話にも全く苦労した様子がなく、どうやらサンスクリット語の基礎的な知識も身につけていたようで、語学力の確かさは遣唐使節全メンバーの中でも図抜けて優秀な存在であったことは間違いありません。そして、と云うか、だから空海は、凡人には信じられない神業とも言える驚異的な速度で「密教」の全てを譲り受けることも出来たのです。それでは、彼の足跡を素描風に記してみましょう。なお、自然の威力に翻弄され、地方の港に漂着した彼らが「海賊」ではないことを証明し、やっとの思いで都の長安に到着したのは同年十二月二十三日のことでした。(因みに最澄[さいちょう,767〜822]の乗っていた第弐船は運よく目的地に辿り着けたが、第三・第四の二船は行方知れずとなり、遣唐使節の正使や空海たちを乗せた第一船は真夏の大海を三十四日に亘って漂流した。『日本後紀』に収められた公式上表文では、その三十四日の間「生死の間に出入りし」とあります。正に、命がけの船旅でした)

  翌年ニ月  西明寺を住居として滞在を始める。印度僧などから梵語を学習。

     五月  密教の本山・青龍寺に第七世・恵果和尚を訪ねる。

     六月  胎蔵界の灌頂を受ける。

     七月  金剛界の灌頂を受ける。

     八月  「伝法阿闍梨」位の灌頂を受け「遍照金剛」の灌頂名を授かる。

ここから分ることは、空海が到着後半年の準備期間を経て恵果に会い、たった三ヶ月の間に密教の第一人者として認められ、それに相応しい法名を授けられた、という驚異的な事実です。まして、この年の十二月には恵果その人が入滅しているのですから、空海の渡航と伝法伝授は、まさに奇跡の業としか言いようがありません。「伝説」の類に属する噂話しなのかも知れませんが、空海が恵果から灌頂を受けた時に投じた「花」は、いずれの場合にも曼荼羅の「大日如来」の上に落下したそうです。こんな人物の「傍」に立てば、余程の傑物でも霞んでしまうこと必定、なのですが…。同期の留学生に、もう一人「秀才」と呼ばれた男がいたのです。

都の御霊会(ごりょうえ)が神泉苑で始められたのが貞観五年(863)五月と伝えられていますが、わずか二十年ほど前に物故した男が、その時既に他の年季の入った霊たちと共に祀られていたのは、彼の祟りを真剣に怖れる気分が都人の間で定着していた(つまり、明らかな濡れ衣だった)証と言えそうです。敏達天皇五世の孫・美努王の子、橘宿禰諸兄(たちばな・もろえ、684〜757)から数えて三代目、つまり橘奈良麻呂の孫の一人が橘逸勢(たちばな・はやなり、?〜842)。若年の頃から文芸の業には特に優れていたようで、空海や最澄と共に留学生に選ばれたのは順当な人選だったと考えられますが、密教を丸ごと「輸入」した空海と同様、二十年の修学期間を十分の一に縮めるだけの「理由」が何であったのか、空海が代筆したとされる文章を読んでみても、今ひとつ釈然としない部分が残ります。(唐の皇帝に宛てた上表文にある『資生、すべて尽きぬ』が案外彼の本音だったのかも知れません)唐土では、その文才が大いに認められ「橘秀才(きつしゅうさい)との賞賛も得た彼だったのですが、帰国後、やっと従五位下に任じられ、最終的な官職も丹波権守(たんばごんのかみ、副知事)という極々平凡なものでした。つまり、ほとんど出世らしい出世はしていないのですね。

そんな彼の境遇を見かねた空海が推薦してくれたのか、或いは嵯峨天皇(786〜842)の配偶者だった父方の従姉妹・橘嘉智子の口利きでもあったのか、詳しい経緯は不明ですが、とにもかくにも内裏にある諸門の「額」を書き記した、その実績が、彼を無名の役人で終わらせることなく、後世「三筆」の一人として青史に名を残し得たのです。(平安京の門号を書き換えたのは弘仁九年、818年のことで橘逸勢は安嘉など北面の三門を担当したようです)ただ、その人生そのものを「波乱なく」終えた訳ではなく、嵯峨天皇(当時は上皇)崩御の直後「謀反」の嫌疑で伴健岑(とも・こわみね)らと共に捕らえられ、十分な審理を受けないまま伊豆に流罪と決まり、配流の地にも至ることなく遠江・板築の宿で病死したのです。無論、逸勢は当初から「無実」を叫び続け、冤罪を主張していました。

伝・逸勢筆  空海筆  日本後紀  PR

この事件が『承和の変』と呼ばれ、当時・近衛大将であった藤原良房(ふじわら・よしふさ,804〜872)の仕組んだ陰謀だったとの見方が一般的なようですが、事件の後、その良房が「大納言」「右大臣」そして「太政大臣」にまで上り詰めていることが、何より雄弁に事件の真相を物語っているように思えます。(良房は皇族以外で初めて「摂政」になった人物として知られ、所謂、摂関政治の原型を作ったとされています。)

身に覚えの無い『罪』を得て伊豆の地へ檻送される逸勢に一人の娘がいたそうです。もとより「罪人」の家族が配流の地まで付き従うことは許されていませんから、役人たちは何とか娘を追い払おうとするのですが、彼女は父の名前を大声で呼ばわり、父が無実であることを泣きながら訴え続け、とうとう父の終焉の地まで付いて行ったのです。気丈な彼女は、父が亡くなった静岡県三ケ日(板築駅)で自ら「妙中」([妙沖]とする文献もある)と名乗り、尼となって父の霊を供養し続け、謀反の疑いが晴れた後、父の遺骸と共に都へ戻りました。その折、彼女は『自ら父の遺骸を担いで』都入りした、との伝説もあったようです。時の人は、彼女の行いを「孝女」と称えましたが、官位はもとより「橘」の姓まで剥奪された逸勢が、わずか8年後の嘉祥三年に復位され、更には従四位下まで追贈されていることは、彼が宮廷内の陰謀に巻き込まれた犠牲者に他ならなかったことを如実に証明しているようです。

  都をば 今は遥かに 遠江  月の隈なき 月見里郷

一首は袋井市にある用福寺の過去帳に残されている逸勢、辞世と伝えられる和歌ですが「月見里」を何と読むか、ご存知の方は少ないのでは?これは「やまなし」と読みます。文学に秀で、かつ「放胆」な性格であったとされる彼の「歌」に相応しいものかどうか、皆さんご自身で口ずさんでみてください。なお、三ケ日町にある橘神社は娘が父を弔った跡に建てられたものだとされています。そして、彼は今なお、京都の御霊神社早良親王(桓武天皇の弟、750〜785)、伊豫親王(桓武天皇の子、?〜807)などと共に祀られています。

二世紀以上の期間にわたって大陸の先進国に「文化」を求めて派遣され続け、国の発展にも大きく寄与した遣唐使節が寛平六年(894)廃止されたのは、菅原道真(すがわら・みちざね、845〜903)の「建議」によるものでした。彼も又、逸勢と並ぶ「怨霊」となり都人の心胆を震え上がらせた御霊の一人であることは、何か深い縁のようなものを感じざるを得ません。

御霊神社(奈良にある社です)  橘逸勢(左の人物)

空海に「弘法大師」の諡号が贈られたのは延喜二十一年(921)になってのこと。大師に纏わる「伝説」「言い伝え」の類は、それこそ山ほどもあります。差し詰め、大師「発見」の温泉などは、その代表格と思われますが、北は山形から南は九州・熊本、長崎まで、その数全国でニ十を優に越え、井戸や湧水に到っては大師の「伝承」を持つものが、なんと千を超えて存在しているのだとか…。話し変わって、年配の方なら『ごまのはい(ごまのはえ)』という言葉に聞き覚えがあるでしょう。映画や時代劇の番組で、旅の途中の主人公などが旅籠に泊まります。その折、相部屋になった人の良さそうな男、遠慮する主人公に振る舞い酒などを奢り『明日の朝、早や立ちするので、お先にご免』とか言って寝入ります。そして、翌朝、主人公の胴巻き・財布が無くなっていることが分り大騒動…。そう、彼は旅の仕事師「ゴマの灰」だったのです。旅人などの懐を狙う詐欺師・泥棒の類を何故『ゴマの灰』と呼ぶのか?一説には、昔々『これは、あの弘法大師がご祈祷の折、焚かれた護摩の灰である。大層、ご利益のあるもので勿体ないものなのだが、貴殿だけに特別にお譲りしてもよい』といった口上で人を騙す罰当たりな者がおったそうな……。

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