正しい?前方後円墳の作り方を考える                                                      「サイトの歩き方」も参照してください

四角形と円形を連結させた珍しいスタイルの古墳は我が国固有のものだそうです。誰が何時ごろに始めたのか、どれが誰の墳墓なのかといった考古学上の難しい事柄は別にして、200m級以上のモノになると、その大きさは半端ではありません。管理人も近畿圏にある幾つかの古墳巡りをした経験が少なからずあるのですが、まだ古墳探検「初心者」の頃、えらい目に遭った事がありました。WEBで大体の所在地を調べて周辺地図を印刷、最寄の駅までの乗継を確かめて或る夏の日の午後、目的地に到着。車窓からでも小山のような、それらしい「森」が見えていたので、改札を出ると直ぐ、その方角に向けて歩き出したものです…。ところが、古墳らしき物体に近づこうとするのですが、行けども行けども微妙に遠ざかる道しか通っていません。暑い中、汗まみれになりながら1キロメートル余も進んだ先が人家の庭で行き止まり、結局、出発点まで逆戻りして反対側の方角から壱時間近くも経ってやっと「正面」の鳥居にたどり着くという有様--、下調べをきっちりやっておかないとそんな具合です。また、平地ではなく山沿いの古墳などでは直接入れる道が無い場合もありますから、くれぐれもご用心!それはさておき。

遥か千数百年前、全国で古墳が次から次へと築造された訳ですが、当時の人々は何を「基準」にして大規模な構造物を作り上げたのだろう、という素朴な疑問が今回の記事を生みました。今、取り立てて考える事もない普遍的な「メートル」という長さの単位すら持たなかった彼らが、古墳の「大きさ」「径」そして「長さ」を、一体どのようにして計算していたのか、とても不思議だったのですが、お隣の文明先進国のことを忘れていました。「身体尺」というものがあり、古くから人体の一部分を「基準」にした、或る「長さ」の単位が存在していたのだそうで、研究者によると「壱尺」の長さは、

  前漢  23.3㎝     後漢  23.5㎝     魏  24.3㎝    宋  24.7㎝

と、時代が新しくなるに連れて少しずつ「長く」なったようです。また、別の研究者によれば、

  後漢  23.04㎝    魏   24.12㎝

黒塚古墳の内部(復元)  三角縁神獣鏡

の長さに相当するらしく、更に、もう一人の研究者の調査では「縄文時代の長さの基準は22.5㎝」だったとの事です。これらの数字を見て直ぐに思い出されるのが、かつて卑弥呼たちが大陸の支配者から「貰った」とされる多くの銅鏡です。奈良天理市にある黒塚古墳は三世紀後半から四世紀頃に造られた全長が約130mの方円墳ですが、そこから見つかった三十三面の三角縁神獣鏡の直径平均が22㎝(21.7~24.4㎝)で、23㎝台のものが六面あったことは上の研究者たちが示した古墳時代の「身体尺」の数字が妥当なものである様に思えます。漢和辞典などの巻末に「資料」として載せてある漢代の「尺」の長さは「23㎝」とありますから、稲作(水稲)文化を列島にもたらした人々の中に、体系的とまでは言えなくても、度量衡の概念を少なからず理解し、それを具体的に使いこなせる専門知識の持ち主(集団)がいたと考えてよさそうです。日本書紀・神代下には、

  すなわち紀国の忌部の遠祖手置帆負神をもって、定めて作笠者とす。彦狭知神を作盾者とす。天目一箇神を作金者とす。

の記述があり、岩波の編集者は手置帆負の名義を「不詳」としながらも『古語拾遺』に、

  令手置帆負、彦狭知二神、以天御量、伐大峡小峡、之材、而造瑞殿兼、作御笠及矛盾

の文言があることを註していますが、これは『先代旧事本紀』「天皇本紀」巻七、神武・己未年三月二十日条に、

  天太玉命の孫の天富命が、手置帆負と彦狭知の二神を率いて、斎斧、斎鉏を以て、初めて山の材を取り正殿(橿原宮)を築造した。

とある伝承に対応した内容で、ここに出ている神様たちは全て天津彦根命の子孫とされる神々ですから、天孫族の内部に居た様々な物づくりの専門家(集団)たちの記憶を神話の形で残したものの一例が「手置帆負(手を広げて長さを測る)」の実像だったと考えられます(元々、尺は手を広げた時の親指と中指の間の長さを云ったもの)。さて、この「23㎝」という長さが本当に古墳作りの基礎単位となっているのか?その疑問に明快な答えを示してくれる論文に出会いました。それが計量史研究家の岩田重雄氏の『日本における古墳の長さの計量単位』という労作。全国二十四府県に存在する古墳の墳丘長を調べて古墳に使われた「一定の長さの単位」を導き出したもので、その数字がピタリ「23.1㎝」でした。(正確には、23.1±0.05㎝)その実例を幾つか上げると、

    津堂城山古墳  208m     900尺  23.1㎝      市野山古墳  230m  1,000尺  23.0㎝
    桜井茶臼山    207m     900尺  23.0㎝      大田茶臼山  227m  1,000尺  22.7㎝
    箸墓古墳     278m   1,200尺  23.2㎝      見瀬円山    310m  1,350尺  23.0㎝

などが著名なものの調査結果なのですが、勿論墳丘「長」を〇〇m長く(or短く)するかによって「尺」の数字も微妙に変わりますし、その墳長自体を△尺と見るのか或いは□尺と見るのかでも結果が異なりますから、あくまでも参考にすべき数字の一つに留めるべきかも知れません。しかし、ここまでピッタリだと只の偶然とも思えませんね。(古代人たちの計測自体に含まれたであろう誤差も勘案すべきです)長さの単位を「一尺=23㎝」と仮定して、彼らが古墳の平面設計に使える道具は多くありません。と言うか恐らく「縄と棒切れ」しか無かったと考えられます。我が国には「縄文時代」という長い揺籃期がありましたから、弥生人たちが稲作を広める以前から蔓草や麻などを材料にした幾つもの実用的な縄が作られたことと思いますが、稲の栽培がもたらした稲わらという副産物が、縄の文化をより豊かなものにしたことでしょう。「よりない」という言葉をご存知の方は極限られていると思いますが、稲刈りを未だ人手に頼っていた頃、刈り取った稲の結束には稲わらで「撚った」紐状の「より」を用いていました。農閑期、田畑での仕事の合間を見て、あらかじめ取っておいた稲わら(下右の画像参照)を数本ずつ両掌の間に挟んで「撚り・ヨリ」をかけることで紐状に仕上げる作業を「よりない」と呼んだのは出雲地方だけなのかも知れませんが……、短い縄なら案外簡単に撚ることが出来るものなのです。閑話休題、だから古代の人々も穂先を刈り取った後の稲わら等を材料に、適当な長さの「基準縄」を沢山拵えたに違いありません。

箸墓古墳  五色塚古墳  藁  PR

それが「50尺=11.5m」あるいは「100尺=23.0m」だったのか、それとも記紀に頻繁に現れる「3・5・8」に因む長さであったのかは分かりませんが、

  左右対称の図形は、すべて円によって描かれる

という幾何学の教えを自ら編み出した?古代の「手置帆負」たちは、先ず「後円」部の中央となるべき点(図の)に杭を打ち込むことから作業を始め、同心円を幾つも描きながら、あらかじめ決めておいた「円と円の交点」を結んでいき古墳の平面図を完成させていったのだと考えられます。この「円」を基本形にした古墳設計という考え方を具体的な論文として発表しているのが、帝塚山大学で考古学研究室を主宰していた堅田直さんで、1996年4月に発刊された『情報考古学』という著書で詳しく解説されていますから、興味のある方は近くの図書館に足を運んで読んでみてください。同書によると方円墳の設計には「三つの形式」がありますが、ここでは「Ⅰ型」の手順について転記してみます。(この形式のものとしてメスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、五社神[神功皇后陵]古墳、ウワナベ古墳、室大塚古墳、大山[仁徳陵]古墳、見瀬丸山古墳、田出井[反正陵]古墳、清寧陵などが上げられています)

  ① 方位を定め、主軸線を描く。前方部と後円部の頂上間の長さ「OP」を決め、後円頂上Oを中心として「OP」を半径とする円を描く。
  ② 同様に「OP」を半径とする円を、前方頂上「P」を中心に描く。
  ③ 後円頂上Oを中心として「OPの二分の一の長さ」を半径とする円を描く=これが、そのまま後円部になる。
  ④ 同様に「OPの二分の一の長さ」を半径とする円を、前方頂上Pを中心に描く。
  ⑤ 前方頂上Pを中心に「OPの四分の三の長さ」の半径の円を描く。
  ⑥ 主軸に垂直に、④の円の接線を描く。⑤の円と交わった点が「前方底辺の両端Q,Q’」となる。
    ③の円と⑤の円との二交点(前方、後円両部の結合点)K,K’とQ,Q’をそれぞれ結ぶと、これが前方部の側線になる。
  ⑦ 前方頂上Pを中心に「PC(後円と主軸の交点[後円端部]の長さ」を半径とする円を描く。
  ⑧ 主軸に垂直に、②の円の接線を引く。⑦の円と交わる二点J,J’が前方部周濠の両端になる。
    ①の円と⑦の円との二つの交点とJ,J’をそれぞれ結ぶと、それらが周濠の側線になる。
  ⑨ 古墳の主体部と、その外側の周濠が同時に出来上がる。                            [丸入りの数字は、それぞれ下にある図形の説明になっています]

次に他の二つの形式と「Ⅰ型」との差は、

    Ⅱ型では「後円部の径と前方部の径」とが「中心線上で四分の一」重なり合い、
    続くⅢ型と、Ⅱ型は、主軸上の二つの内円がⅠ型のように接しないで、二点で交差する所に差異があり、
    Ⅲ型を決める原則は、主軸上で相交する二つの円の「重複している長さ」が、その「直径の三分の一」で、Ⅱ型より深くなる

点にあるとされています。説明する者が今一つ十分に理解し得ていない部分があるので、とても読みにくい文章になってしまいましたが、この堅田式の設計図を決める原則は、

    直径の等しい二つの円が主軸上の一点で相接するのか=Ⅰ型
    相交し、重複する長さが「四分の一」となるのか=Ⅱ型(日葉酢姫陵、垂仁陵、西殿塚古墳、景行陵、作山古墳、造山古墳など)
    あるいは又「三分の一」になるのか=Ⅲ型((巣山古墳、津堂城山古墳、コナベ古墳、継体陵、允恭陵、応神陵、今城塚古墳など)

という点に集約されます。そこで気になるのが、果たして、この三つの形式が「三つの異なる陵墓造営集団」の存在を示唆しているのか、そうではなく「ある型」が原型にあって、それが時代ごと或いは地域ごとに「変形した」のかという点なのですが、箸墓古墳(箸中山古墳)や西殿塚古墳など最も早くに築造されたと考えられている「Ⅱ型」も、続いて現れた桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳などの「Ⅰ型」も一番後から築造が始められた「Ⅲ型」(巣山古墳、津堂城山古墳など)と同じ時期(五世紀)に並行して造られていますから、三つの設計概念が古墳時代を通して共存していたことは確かだと思われます。ただ、一部の研究者たちの見解によれば、六世紀前半築造の河内大塚古墳、見瀬丸山古墳(三百メートル級の巨大古墳)が、いずれもⅠ型であり、それらの築造が中断しているとの推測が正しいのだとすると、それが継体大王の出現によるヤマト全体の大きな「混乱」を示す証拠になり得るのか大変注目されます。垂仁紀で詳しく語られる「野見宿禰」と土師氏の伝承を素直に受け取るなら、大王家の葬送儀礼に関する作業全般を掌る新たな集団が、ヤマト朝初期の段階で大和以外の場所から移動してきたと解釈できるでしょう。

応神皇后中姫命、中津山陵

垂仁陵

神功皇后陵  景行陵 

それにしても「縄」一本で、これだけ巨大な築造物の設計を行い、頻発したであろう地震などの自然災害にも耐えうる「古墳」を数えきれないほど作り上げた古代人の底知れないエネルギーには呆れるばかりです。記紀の編集者は大王たちの陵墓築造について殆ど語っていませんが、何故かオオモノヌシの妻となった倭迹迹日百襲姫命については、書記・崇神十年九月条で、

  すなわち大市に葬りまつる。故、時人、その墓を号けて箸墓という。この墓は、日は人作り、夜は神作る。

と述べ「人民」が大坂山の石を「手ごし」に運んで墓作りに勤しんだ様子を「歌」も交えて記録しています。これを極々素直に受け取れば、大王たちの古墳作りの「原点」としての箸墓という概念が当時から存在していたのだと考えることが出来るでしょう。(2012.01.08)

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