「見るべきほどの事は見つ」平知盛の最期                     「サイトの歩き方」も参照してください。

古文の授業は退屈極まりない長々とした時間との孤独な闘いだと勝手に思っていたのだが、学期の途中から赴任した専任講師のK先生の口から『見るべきほどの事は見つ。今は自害せん』そう言い放って亡くなった平知盛(1152〜1185)は三十四歳の男盛りだったと聞いた時、歴史への関心が心の何処かに芽生えていたのかも知れない。それから何年も経たないある年の夏、京都の南座で歌舞伎を観る機会があり、その折の演目の一つが「義経千本桜」だったので大物浦、渡海屋の銀平(実は平知盛)が登場する芝居を生で見ていたはずなのだが、その頃売り出し中の立女形坂東玉三郎(五代目)の艶やかな女ぶりしか記憶には残っていない。恐らく彼の役柄は「静御前」だったと思うのだが…、それも半世紀前の事なので判然としない。ただ「千本桜」は上演のたびに演目の内容が変わり、知盛が背丈を遥かに超える巨大な「碇」を担いで海に入る「二段目」が必ず演じられるとは限らないらしい、それはさておき東洲斎写楽の浮世絵に関心を持ちだしてからも「千本桜」の芝居に登場する人物と、彼の作品を直接関連付けて考えてみるという発想はついぞ生まれることはなかった。

写楽が歌舞伎役者の大首絵を引っ提げて、花のお江戸に颯爽と登場したのは寛政六年(1794)五月のことですが、その折、最も早く描かれたと思われる作品群の舞台を提供したのが、控え櫓の一つであった河原崎座での『恋女房染分之手綱』と『義経千本桜』という演目でした。「千本桜」は、鎌倉方から追われる身となった源義経の一行が、吉野に逃れて行く過程を史実を「超えて」庶民受けを狙って脚色した娯楽作品ですが、全五段の構成を持つ長編のため全編が一挙に興行される事は余りなく、写楽が実際に見たであろう五月歌舞伎でも取り上げられたのは、平氏の武将と義経の対決という劇的なシーンのある「二段目」ではなく、吉野を本拠地とする地方の領袖たちが義経たちを「匿う」のか、それとも鎌倉幕府の命を受けて彼等を「討ち取る」のかを決める「吉野蔵王堂の評定」の場面が中心の「四段目」だけの公演でした。下左で紹介しているのが、正にその「評定」を行っている二人の姿を表現した写楽の作品『蔵王堂』です。未だ牛若丸と名乗っていた頃の義経と交流のあった河連法眼(右側の人物)は、彼を何としても匿い救おうと吉野の荒法師たちを相手に虚虚実実の駆け引きを繰り広げているのです。

  法眼は本心を隠し通す   平知盛   碇知盛  

曽我祭礼之図  年代記より

版元の蔦谷は、江戸歌舞伎三座の五月興行に合わせて計二十八枚もの役者絵を一挙に売り出した訳ですが、催し物の外題はあらかじめ承知していたとしても一人の絵師が三座の芝居を「すべて」観た上で作品を描くには当然時間の限りがあったはずで、何枚かの下絵は先行した絵師の作品を参考にして見立てたものだった可能性があります。また『花江戸歌舞妓年代記』(立川焉馬、天保12年刊)という書物によれば河原崎座「義経千本桜、河連法眼館」の舞台では「狐忠信・岩井平四郎」「静御前・小佐川常世」「横川覚範・市川蝦蔵」の芝居が人気だったようなのですが、この三人の名優たちは『恋女房染分之手綱』でも主な役柄を演じており、写楽は彼らを描くことで生じる登場人物の重複を避けたのだとする解釈が一部にはあります。また彼は劇の中心人物であるはずの「源義経、静御前」も「平知盛」も何故か一枚も描いてはいません。誰のどのような役柄を描くかについては、江戸歌舞伎の「超人気シリーズ」上梓を企画した蔦谷重三郎(1750〜1791)の意向を踏まえたものだったのかも知れませんが、写楽の目を通した義経像を是非とも見てみたかったものです。

戯作者の曲亭馬琴(1767〜1848)は、かつての職場でもある蔦屋の内情に通じていましたから、恐らく写楽の実像も承知していた可能性が高いのですが、彼が寛政十二年に出版した『戯子(やくしゃ)名所図会』(全三巻)には歌川豊国が描いた「曽我祭礼之図」という挿絵が載せられています。「年代記」の著者は寛政六年の「曽我祭り」について触れた後、祭りは『この年より(以降)行われず』とわざわざ書き加えていますから、寛政の改革を進める幕府によって「祭り」そのものが禁止されたのだと考えられます。(註:この点については過去に写楽と十辺舎一九を詳細に論じたサイトが在り、その文中に当時の事情を知ることの出来る資料が添付されていたのですが、平成28年8月現在、確かめる術は残されていません)一つの想像に過ぎませんが、自らもお上の権力によって財産を半減された経験を持つ蔦谷は、幕府が進める「改革」の行方を見据え、あえて「豪華」な装飾にあふれた浮世絵版画を世に出したのかも知れません。東洲斎写楽を名乗った絵師が、わずか一年にも満たない期間しか活動しなかったのも予定の行動だったのでしょう。河連法眼は「鎌倉幕府の命令」に従い義経を討とうとする吉野の実力者たちを巧みな話術で韜晦し、幕府の「お尋ね者」を自らの館に匿い通そうとしますが、そこに蔦谷自身の反骨精神を見るのは穿ちすぎでしょうか?

筆者は、この夏でちょうど知盛の二倍の歳月を生きたことになります。七十年余という時間は「見るべきほどの事」を観るには十分すぎる永さだとは思うのですが、自らの内部に何事かを「見切った」という確信と充実感が満ちているとは言えそうにもありません。平家の若き公達が到達した心境には程遠いにしても、自らが生きた証を一つでも残して彼岸に渡りたいものです。

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