坂上田村麻呂は「清水の舞台」に立ったか                   サイトの歩き方」も参照してください

大阪は、少しいびつで草臥れた胃袋のような地形をしているが、方角的には向かって右上・東北に当たる部分で京都府と境を接している街が枚方市(ひらかたし)で、その神社は牧野阪と呼ばれる(旧・河内国交野郡牧郷坂村)台地の一画に佇んでいる。延喜式内社で「河州一之宮」を称する片埜神社(かたのじんじゃ、下の画像)がそれである。今回の主役の一人と大変縁の深いお社なのだが、その話をする前に、別の人物の「偉業」を紹介しておかねばならない。

都を長岡に遷し、理想の実現に向け全力を傾けていた桓武天皇(かんむてんのう,737〜806)は、皇太子の安殿親王(あてしんのう)が元服した延暦七年(788)東北地方の制圧に本腰を入れ始めた。桓武は当初、陸奥守の多治比真人宇美に鎮守将軍を兼務させていたが、兵糧数万石を多賀城に運び込み、二万数千石の糒(ほしいい)と塩を夏までに陸奥へ送るよう東海道・東山道・北陸道の諸国に命じ、歩兵・騎兵合わせて五万数千人を徴発して蝦夷(えみし)「征討」の準備を着々と進めた天皇は、同年七月六日、東宮大夫の紀朝臣古佐美を改めて征東大使(後の征夷大将軍)に任命した。十二月七日、別れの挨拶に訪れた紀古佐美に節刀を与えた桓武は、過去の例をひき、

  これまで、別将たちは軍令を守らないことが多かったが、この遠征では、決してそのような事がないように

と態々、念押しまでしたのだが、天皇の懸念は見事的中、第一次の遠征軍は衣川(北上川の支流、岩手県平泉町付近)で蝦夷の軍団に翻弄され身動きすらとれない状況に陥った。この間、征東軍は都へ度々奏状(戦況報告書)を送っていたが、一向に成果を上げる様子のない将軍の振る舞いに業を煮やした天皇は、次のような「勅」を下して督促叱咤した。

片埜神社の近くに或る人物が祀られています  桓武天皇

  先の報告から既に一ヶ月が経とうとしているのに、

  何をいつまでも愚図ぐずして進軍しないのか、甚だ不審であり、その理由も分らない。

  今、進攻しなければ、恐らく、その時機を逸してしまうだろう

  将軍たちは臨機応変に軍を進めたり退いたりして、敵に隙を見せるな

数万に膨れ上がっていた「官軍」に対して阿弖流為(あてるい)を首領とする東北軍は、数分の一以下の寡兵で奮戦に奮戦を重ね「官軍」の敗色は次第に濃厚になりつつあったが、征東副将軍で、軍事の専門家とも言うべき佐伯宿禰葛城が没した直後の延暦八年六月三日、征東将軍の紀古佐美は直近の戦況を次のように報告している。(「進士」は志願兵のこと。つまり自由意志で戦闘に参加した者たちを指しています)

  官軍は前後を挟み撃ちにされ、別将の丈部善理、進士の多くが戦死しました。

  我が軍の戦死者は二十五人、矢に中った者二百四十五人、河で溺死した者千三十六人でした。

将軍は、此の後も何度か戦況報告を奏上しているが、その内容は、いかにも「言い訳」めいた空疎な文章ばかりで、七月十七日付けの「勅」で桓武は、それらの報告書が、

  ほとんど虚飾であり、根拠のない戯言に過ぎない

と痛烈に面罵している。遠征は「大敗」という無残な結果だけを残して終息した。節刀を返上した持節征東大将軍の紀朝臣古佐美に桓武帝が下した「詔」は誠に厳しい叱責の文言で埋め尽くされていた。その一端を次に記しておこう。

  大将軍らは任じられた本来の計画に従わず

  進み攻め入るべき奥地も究めること無く戦いに敗れ

  兵糧のみを徒に費やして還って来た。

これらの「詔」は『官軍、つまり将軍が無能で、かつ戦意すら持たず、命令も聞かなかった』事実を証明している。ここまで罪状が明らかな場合、当然「法に照らして」何らかの処分が行われるべきだったが、桓武は、それでも名門・紀氏が『昔から朝廷に仕えてきている』事情を配慮して、その「罪」を問わなかった。宮廷政治の限界がそこに在った。『此の度は人選が良くなかった。次は誰にしようか?』桓武天皇が、そう思ったかどうか分らないが「理想」の実現のためには「まつろわぬ」「未開」の者どもを、悉く平らげて「文明」のなんたるかを教化してやらなければならなかった。万葉の大歌人であり武門の棟梁でもあった、あの大伴家持(おおとも・やかもち)は既に他界しており、桓武は慎重に「次の人物」を模索していた。あてが無い訳でもない。一人の人物の顔が、既に彼の脳裏には浮かんでいた。

尾上菊五郎   音羽屋一家(似顔大全)

年の瀬恒例の顔見世興行、出し物は言うまでも無く「忠臣蔵」である。歌舞伎の世界を担う、主だった役者たちが一同に会し、そのお家芸を披露すると、大向こうから威勢の良い掛け声が舞台を飛び交う。『いっよっ、音羽屋!』『七代目!』などなど…。名優として知られる尾上菊五郎の屋号が「音羽屋」なのは、初代・菊五郎の父親が京都の都万太夫座に属する出方で、音羽屋半平を名乗っていたことに因むそうなのだが、都内にある音羽の地名も、京都の或る有名なお寺の滝に因んだものだとされている。(尤も、文京区の「音羽」は、徳川家に仕えていた音羽局の拝領地だったから、という説もあるのだが…)

  音羽山 こだかく鳴きて ほととぎす 君が別れを 惜しむべらなり (紀 貫之)

  音羽山 今朝越えくれば ほととぎす 梢はるかに 今ぞ鳴くなる   (紀 友則)

古今和歌集」で、二人の歌人が取り上げた「音羽山」とは、皆さんも良くご存知の京都・清水寺そのものを指している枕言葉なのです。今からざっと千二百年ほど前、大和の小嶋寺の住職であった延鎮という僧侶が、或る夜、奇妙な夢を見ました。

  木津川の流れに沿い、北へ清泉を求めよ

夢のお告げを信じた上人が松の緑がおい茂り、白雲たなびく山麓を目指して分け入ると、そこには落差こそ大きくはないものの、清冽で芳醇な一筋の滝が流れ落ち、すぐ傍らに修行僧の暮らす粗末な庵が建てられていたのです。延鎮が「霊夢」の話を庵の主・行叡に語ると、彼はいわく有りげな一木を取り出し、観音像を彫るように勧めたのです。そして彫り上げられた仏像こそ清水寺の本尊・千手観世音でした。時に宝亀九年(778)の出来事だとされています。それから僅か二年後、妻の安産のためにと鹿を求めて山に入り、清水の滝で延鎮にめぐり合った坂上田村麻呂(さかのうえ・たむらまろ、758〜811)は、上人の説く観世音菩薩の功徳にいたく共鳴、夫婦ともども深く観音様に帰依し『仏殿を寄進した』のだと伝えられています。また、脇侍として延暦十七年に安置されたと伝えられる毘沙門天像は、毘沙門自身が「北方」の守護神であることから、田村麻呂を象徴した仏像として崇められています。

有名な「舞台」は地上13メートルの高さです。 清水寺の千手観音  田村麻呂

第一次遠征軍の惨敗から1年、延暦九年七月ひとりの夫人が亡くなった。正五位上の坂上大宿禰又子は、まだ桓武が皇太子であった折、選ばれて後宮に入り高津内親王を産んでいたが、二十一日、訃報が伝えられた。古代から朝廷に仕えてきた武門の名家があてにならない中、桓武が敢えて坂上田村麻呂を大将軍に選んだ理由は、勿論、その人柄と能力に負うところが大きいはずだが、その近しい血縁の者が、自分の子供の母親であったことも全く影響していないはずは無い。ところで、その坂上一族の名前は所謂「蝦夷征討軍」の凱旋将軍として日本史の教科書などにも必ず登場してくるのですが、いざ、その実像となると、手掛かりになる資料に乏しく、よく分らないというのが正直なところです。だから「続日本紀」が記録している苅田麻呂(かりたまろ)の上表文は、確かな唯一の文献だと言えます。

又子そして田村麻呂の父親で従三位まで上り詰めた坂上苅田麻呂は、まだ下総守を兼任していた延暦四年六月、次のような趣旨の文書を桓武天皇に奉っています。

  私どもは、もとは後漢の霊帝の曾孫、阿智王の後裔です。

  阿智王は迂興徳と七つの姓をもつ人民を引き連れ来朝しました。

  これは誉田天皇(応神天皇)が天下を治めておられた時のことです。

彼が、この上表文で言いたかったのは『そのような名の或る一族なのに、今、先祖の王族の姓を失い、下級の卑しい姓を授けられている』ので『宿禰の姓を賜りたい』というお願い事で、桓武は直ぐ聞き届け許可している。また『群書類従』に収められている「坂上田村麻呂伝記」も霊帝から阿智王そして苅田麻呂・田村麻呂と連なる系図を載せ、阿智王が来朝したのは「応神天皇26年」のことで、その時彼は「一縣同姓百人を率いて」来日したと記述している。「漢の霊帝云々」を信じるか否かは皆さんのご判断にお任せするとして、渡来系の一族で軍事の専門家として頭角を現していた事は確かなようです。

延暦十三年、大伴弟麻呂の副将として第二次遠征軍に参加、東北の実態と実力をつぶさに観察していた田村麻呂に征夷大将軍の命が下ったのが延暦十六年だが、十万人とも言われた第二次遠征軍との戦いで東北の騎馬軍団も大きな損害を被っていた。戦闘中も常に冷静な眼で全ての状況を分析していた田村麻呂は、足掛け四年という時間を掛け、十分な下準備を整えた上で阿弖流為の本拠地である胆沢を目指した。『日本紀略』は、延暦二十年二月に「節刀」を授かった田村麻呂が、僅かに半年後の九月には「敵を討伐」し、同年十月二十八日には「節刀」を天皇に返納したと伝えている。出発から討伐まで、たったの八カ月という早業だった。この手柄によって「従三位」を授かり、一段と天皇の信任を厚くした田村麻呂は、翌年正月から胆沢城の建設に取り掛かり、この事業のため全国から「四千人」もの「浪人」を集結させ、土地の開墾に努めた。田村麻呂は過去の例に囚われず、多勢を頼んで力づくの攻撃を仕掛けた訳ではなかった。防御用の城作りを進める一方で東北固有の神々に「位」を与える手続きをしたり、帰順する者たちには税などの面で特典を与えたりもした。更に、都の意思を戴して「文化」の浸透に努めたことは言うまでもない。

 阿弖流為の墓とされる石碑    阿弖流為に擬せられる「悪路王」    

田村麻呂と阿弖流為―古代国家と東北 (歴史文化セレクション)

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四月の半ばになって東北軍の総大将・大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)が盤具公母禮(いわぐのきみ・もれ)など一族郎党五百人余りを引き連れて投降した。田村麻呂が首領二人を都まで連れて戻ったのが七月十日、公卿たちは挙って「朝威」(朝廷の威信)の高揚を誉めそやし、都は祝賀一色の雰囲気に包まれる。田村麻呂は頻りに二人の首領たちの「釈放」を求めたのですが、公卿会議の下した結論は「斬首」、八月十三日、捉えられた二人は河内国椙山で無念の生涯を終えたのです。投降から都入りまで三カ月かかっていること、そして田村麻呂が態々「生かして」二人を連行していたこと等の状況から推理して、田村麻呂は二人の「助命」に、ある程度の自信を持っていたと思われるのですが『虎を養い、患いを残す』だけだと反論され、嘆願は聞き届けられませんでした。(「日本紀略」は公家たちの様子を『而公卿執論云』と表現しているので、議論が相当白熱したものであったことは確かです)

ところで、彼ら二人が留め置かれ、そして処刑された場所が、どうして「河内国」であって他のどこでも無かったのか?『それは、たまたま、そうだった』と言えるのか?つまらない些事に答えを見つけるべく、頼りない脳ミソ回路を全開にしながら『続日本紀』を眺めていた時、次のような幾つかの文章が眼に留まった。

  延暦二年十月    天皇は交野(枚方市)に行幸し、鷹を放った。

  延暦四年十一月  天の神を交野の柏原に祀った。

  延暦六年十月    天皇は交野に行幸し鷹を放った。 十一月 天の神を交野に祀った

  延暦十年十月    天皇は交野に行幸して、鷹を放った。

ここまで読み進んだとき、時の右大臣・藤原継縄(ふじわら・つぐただ、727〜796))の妻は百済王明信(くだらのこにきし・みょうしん)であり、その祖父・敬福(きょうふく)が東大寺の大仏様を鍍金するための黄金九百両(約35キロ)を献上し従三位を授かり、河内国交野に土地を賜ったのが天平二十一年だった事をやっと思い出した。そう、河内の交野は、かつて陸奥の国司を務め魔術のように「黄金」を取り出して見せた百済王の本拠地だったのです。そして、このページが取り扱っている時代には右大臣の別荘も交野に在りました。そしてなにより、この百済王家からは桓武の後宮に九人もの女性が入っており、継縄夫人の明信は尚侍(ないしのかみ)として女官の頂点に立っていたのです。だからこそ桓武は在位中、十数回も交野の地を訪れ、延暦九年二月二十七日には『百済王らは朕の外戚である。だから、今、その中から一人、二人を選び位階を進める』と詔まで発していたのです。

百済王神社は百済王とスサノオを祀る    PR

田村麻呂にしてみれば、同じ渡来系であり桓武の後宮を介して姻戚関係にもあたる百済王家は、大変親しみやすい一族だったのではないか!黄金伝説の主人公である敬福も陸奥守だった頃、鉱脈探しの情報収集を地元の豪族や有力者たちに依存していたのではなかったのか!そして、黄金探しだけに限らず将来にわたる東北の安定した経営のためには、是非とも地元実力者たちの協力が必要だと判断していたのではないだろうか?若し、そうであれば田村麻呂は、桓武への影響力という点で最も期待が持てる百済王家の人々に「蝦夷」たちの助命活動の根回しを進めていたように思えてならない。明信の弟・百済王俊哲が延暦十年には坂上田村麻呂と共に巡察司を務め、鎮守将軍を兼務していた事実も併せて考えると百済王家の人々が田村麻呂の考えに同調し支援していたという想像が現実味を帯びるのである。そして更に、妄想を逞しくするなら『明信を通じた内緒の報告を聞き、桓武自身も「蝦夷」の大赦を考えるようになっていた』かも知れない。

二十年以上、見方によれば三十年近くも朝廷軍を悩ませ続けていた東北軍が、田村麻呂にかかると一年も経たないうちに「投降」した背景には、軍備面での周到な準備と共に、地元情報の収集と分析があったのだろう。そして、その重要な情報源の一部が百済王ルートだった。田村麻呂の描いた「蝦夷」討伐のシナリオは、こうである。

  @ 軍備は十二分に時間をかけて整え、その優秀さを相手に良く見せてやる。

  A 可能な限り東北軍の内部事情について情報収集に努め、出来れば勢力を分断する。

  B 投降する考えのある者には出来る限り優遇措置を与え、内部情報を得る。

  C 戦闘はなるべく避けて、味方の損害を最小限に抑える。

  D 東北軍の主力に粘り強く「投降」を勧告し、その助命を百済王ルートで奏上する。

宮廷内の雰囲気が必ずしも「処刑」一辺倒ではないとの感触を得た田村麻呂は、二人の首領たちにも時間をかけて「因果」を含め、桓武の「英断」を信じて凱旋したのですが、彼は、反百済王グループの存在を軽視し過ぎていたのかも知れません。土壇場で形勢は大逆転したのです。後に「新古今集」の中で藤原俊成(ふじわら・としなり、1114〜1204)は交野の「御野」を、

  またや見ん 交野のみ野の さくら狩り 花の雪ちる 春のあけぼの

と優雅に歌っていますが、阿弖流為たちが、その桜を見ることはありませんでした。時は移り江戸時代、都人の間に広がった一つの迷信が、清水寺の関係者達をとても困らせていました。寺の塔頭「成就院」の住職が残した日記によれば、いつの頃からか巷では『自らの命を懸けて清水寺の舞台から飛び降りれば、願い事が必ず叶う』と噂されるようになり、江戸期後半のほぼ二百年で、なんと二百数十件の「飛び降り事件」があったのです。阿弖流為たちを助けたかった田村麻呂も、同じ思いで、あの舞台に立ち都の佇まいを眺めていたのかも知れません。余談ですが、現在の清水寺は寛永十年(1633)に再建されたもので、舞台の広さは約百十畳あります。それから、行った方は実感があると思うのですが、あの「舞台」、微妙に傾斜がかかっているので、谷の方へ体が自然に傾きます。阿弖流為の霊が呼んでいるのかも……。

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