タラシ」は大王たちの称号か、暗号か                          サイトの歩き方」も参照してください

古代王朝の大王たち一人ひとりの名前から、彼等の親子関係等を含む王家・豪族の血統や姻戚関係を探ることが出来ないものかと考え、前回は継体帝が「祖」と仰ぐ応神・ホムタワケに焦点を絞った推理を試みた訳ですが、その過程で浮かび上がったのが「帯、足=タラシ」という言葉についての疑問でした。応神の諡号で知られる大王は、実に多くの「伝説」に彩られた人物で、或る神社に残された伝承によれば、彼は、母親(神功皇后)が神と交わり誕生した事になっています。市井に暮らす凡夫には想像すら出来ない生誕秘話なので、コメントは差し控えますが、若し国史が謂う通りに父・仲哀(タラシナカツヒコ)と母・神功(オキナガタラシヒメ)夫婦の間に生まれた子供であったのなら、応神にも「○▽□タラシヒコ」のような名前が付けられていて当然ではないだろうか…、処が彼の名は「ホムタワケ」という一風変わったものですから、ひょっとすると応神帝は記紀が伝える両親の子では無いのでは?というのが前回導き出された結論でした。

神功皇后陵  成務天皇陵

ところで、この仲哀の名前に含まれる「タラシ」という称号?めいた文言は祖父・景行帝(オオタラシヒコオシロワケ)、叔父・成務帝(ワカタラシヒコ)の跡を継いだ正当な直系子孫である事を示しているとも考えられるのですが、

  景行帝の父・垂仁(イクメイリヒコ)、母・日葉酢姫命(ヒバスヒメ)のいずれの名も「タラシ」を含んでいない

点に注目すると、景行の名前とされている「オオタラシヒコ」の部分は後の世代(6〜7世紀)の帝記編集者たちによって加筆修正された可能性がありそうです。その間接的な証拠として、

  景行帝は実質的な初代大王とされる崇神帝(ミマキイリヒコ)の孫にあたり「イリ王家」の人物と見られること
  父・垂仁(イクメイリヒコ)の兄弟姉妹も、その多くが「イリヒコ」「イリヒメ」の名前を持っていること
  (豊城入彦命、豊城入姫命、十市瓊入姫命、渟名城入姫命、八坂入彦命など)
  母を同じくする兄弟の名前が五十瓊敷入彦命、稚城瓊入彦命で、明らかに「イリ」の家系と見られること

などが挙げられます。この想像が許されるなら帝の名前として殆ど実質の無い「ワカタラシヒコ」(成務)も、父親との関係で造作されたものだったと考えることが出来るでしょう。更に、応神の「父親役」を負わされた仲哀の名「タラシナカツヒコ」も本名では無いのかも知れません。神の「お告げ」を無視して早死にした夫に代わり遠く海外へ出兵、勝利をもたらし凱旋した女傑として記紀が神功皇后を褒めちぎるのは、勿論、彼女が偉大な大王・応神の産みの親に位置づけられているからに違いないのですが、若しも、応神が仲哀・神功「夫婦」の子供でなかったのなら彼女もまた、王家と息長家を結びつけるために創造された存在であったと見なければなりません。

さて、このように「タラシ」の名を持つ四人もの大王たちが本来の名前を後世の人々によって「書き換え」られた可能性について検討してきましたが、タラシの名を有している人物は他にも存在しています。その内、時代的に古いものが、

  第五代孝昭(ミマツヒコカエシネ)の皇后・世襲足姫(ヨソタラシ)(尾張連家の出身)
  二人の子供とされる六代孝安(ヤマトタラシヒコクニオシヒト=次男)と天足国押人命(アメタラシオシヒト=長男)

の一族。このうち大王位を継いだ方の「タラシヒコ」の跡取りは「オオヤマトネコフト」という名前の持ち主で、もう一人のタラシヒコは和邇臣等の始祖なのですが、二人の関係は微妙に複雑です。それは、

  @ 「アメタラシ」の称号?を持つ兄ではなく「ヤマトタラシ」の名を負う孝安が大王の位に就いたこと
    (天孫系を意味していたはずの「アメ」よりも、「ヤマト」の名称が重みを持つようになったとも窺える)
  A 弟・孝安は、兄の娘=つまり姪にあたる押姫を皇后として迎え、第七代孝霊を産んだ

とあることに加え、アメタラシの子孫が和邇氏を始めとして大いに栄えたのに対し、大王となった方のタラシヒコには後継子孫が一人も存在していない不自然さが目立つのです。この「後継氏族無し」という「状況」は、先に見た成務の場合も同じで、二人の妃が有り、その内の一人弟財郎女(穂積臣の祖・建忍山垂根の娘)との間には和謌奴気王という皇子も居たはずなのに、日本書紀は全く存在さえ認めていないのです。従って、書紀の言い分をそのまま記すと『ワカタラシ天皇、男(ひこみこ)無(ましまさず)』つまり、

  成務帝には子供がなかったので異母兄の息子である足仲彦尊(仲哀)を皇太子に

するしか無かった訳ですが、景行帝が即位間もなく「二年春三月三日」に播磨吉備氏の娘・稲日大郎姫を皇后として迎え、日本武尊という伝説的な皇子を得たとする記紀の話しぶりは、予め尊の子・仲哀が偉大な大王・応神の父親として登場する場面を想定した上での前説のようにも見えてしまいます。記述を全て史実とする事には慎重であるべきなのは言うまでもありませんが、景行から成務そして仲哀と続く政権が、ヤマトに置いていた軸足を徐々に広げ、各地の主要豪族と競い合う中で実力を磨いていたのは確かな様で、最晩年における景行の近江遷都も、近づく戦火を想定した上での決断であったのかも知れません。また、この三人の大王たちは(神功を含めれば4人)何れも本名を変更された可能性が濃く、その周辺をも含めて王統譜や業績などが「編集」されている恐れが十分にありそうです。

応神朝の始まりに反応したかの様に影を潜めていた「タラシ」の称号?が復活したのは敏達帝の孫たちの世代、七世紀後半になってからのことで、いずれも押坂彦人大兄皇子の血筋である第34代舒明帝(息長足日広額、オキナガタラシヒロヌカ)と、その姪であり皇后である第35代皇極帝(天豊財重日足、アメトヨタカライカシヒタラシ)の二人です。彼等の諡号については従来、敏達の先の皇后・広姫(?〜575)が息長真手王という継体一族と思われる王族の娘であることから、その太祖とも言える息長足姫尊(オキナガタラシヒメ)にあやかった命名だろうと考えていたのですが、ここまで「タラシ」の意味を追いかけてみて、大きな矛盾に気づきました(下右は成務帝の高穴穂宮跡)。

太田茶臼山古墳  今城塚古墳    PR

先ず息長真手王という人物ですが、幾つかの資料を付き合わせてみると応神帝の子・若沼毛二俣王の孫の世代であることが分かります(河内息長家を継いだとされる沙禰王の息子)。そして彼には二人の娘があって、その内の一人・麻積娘子が継体帝(450〜531?)に嫁いで荳角皇女(斎宮)を産み、もう一人・広姫が敏達帝(538?〜585)の皇后となって押坂彦人大兄皇子たちを儲けたと言うのです(つまり、在り得ない話である)。歴史の専門家たちは『継体の妃にも広姫(黒姫、坂田大跨王の娘)がいるので伝承が混乱したのだろう』と云った見方をしているようですが、敏達は継体・欽明朝の嫡流なのですから、わずか半世紀前に亡くなった祖父についての確かな情報を持たなかったとは到底考えられません。であるとするなら、ここにも後世の大幅な加筆修正が存在したのではないでしょうか?!更に勘ぐれば舒明夫婦が、あの天智・天武兄弟の両親であった事とも決して無関係ではないでしょう(要するに壬申の乱の結果が反映されていて然るべきですが、書紀は天武の没後かなりの時間が経過した後、藤原氏の影響下で編纂されていますから、その意味では何重もの修正が成されたと見るべきです)

「タラシ」を称号、それも息長一族に深く関わるものだとする考え方は改めねばならないようです。記紀とりわけ古事記は、そもそも一般人の目に触れることを想定して記されたものではなく、極限られた一部の王族・貴族たちの存在証明の役割を果たす書物でした。「国記」「帝記」の類は、権力中枢を占める勢力に大きな変動が起こる都度、その内容に改変が加えられ添削されたに違いありません。「タラシ」を名に含む人物が四世紀後半から五世紀にかけて集中しているのは「イリ」朝を過去のものとした応神の登場を象徴していますし、ヤマト王家の「断絶」の危機を救ったとされる継体が自らの出自を応神と垂仁に求めたことが「応神」王朝の系譜を二重に複雑なものに変貌させたと思われるのです。歴史の分野では現在でも『謎の四世紀』といった表現が散見されますが、西暦300年代の流れは、

  @ 四世紀の初め頃に崇神帝(ミマキイリヒコ)が大王となり尾張氏と姻戚関係を結ぶ
    (この子孫が八坂入彦命−−八坂入姫命−−五百城入彦命−−品陀真若王−−仲姫命−−仁徳帝と続く)
  A 息子の垂仁帝(イクメイリヒコ)が跡を継ぎ彦座王、丹波道主王一族と婚姻を重ね日本海側へ勢力の拡大を図る
    (この子孫が景行帝−−日本武尊−−仲哀帝・神功−−応神−−仁徳帝の流れを作る)
  B 孫の景行帝は王位継承間もなく播磨の吉備氏から皇后を迎えて西日本への影響力を強める一方、尾張氏との関係も維持する
    (政権末期に景行は近江の高穴穂宮に遷都、次の大王・成務も再びヤマト圏内に戻ろうとはしなかったが、これが王家と主要豪族間での
     緊張状態を表したものだったのかどうかは不明。ただ長期間大王位にあった成務に正式な妻が存在せず、その子女も皆無であったとする
      書紀の内容は限りなく不透明で、信用しがたい)
  C 先代旧事本紀が『国造の半数が成務の治世に設置された』としている業績の実体を景行・ヤマトタケル親子に求めるべきなのか判断に
     苦しむが、四世紀後半にはヤマト政権と友好な関係を結ぶ地方豪族が増えていたと見ることは可能
  D 後嗣に恵まれなかった成務の跡を襲った仲哀帝は「二年春二月」唐突に福井角鹿へ居を移し笥飯宮を造営するが、翌三月十五日には、
     『皇后及び百寮を都に留めたまま』独りで南海道(南国)の巡幸に出かけ、紀伊国で熊襲の謀反を知る。
     天皇夫婦は九州に向かい神の託宣を得る、しかし仲哀は『誰ぞの神ぞ徒に朕をあざむくや』と反論したため急逝したとされるが、
     仲哀夫婦と「神の子」応神誕生の筋書きは後世の加筆潤色であり、四世紀末に至り再び権力基盤に大きな変動が生じた

と大雑把にまとめることが出来るでしょう。管理人は大阪茨木市に存在する太田茶臼山古墳(「継体陵」古墳、226m)を応神の息子とされる若沼毛二俣王の陵墓だと考えているのですが、そうすると西暦400年頃、大王位に就いた応神に従って近畿入りした継体の祖先・二俣王が、河内の大王に遠慮して淀川西岸に自らの陵墓を築き、更には一世紀ほど下って初めて大王位を手中にした子孫の継体が、己の先祖を敬う気持ちから、少し控え目な方円墳(今城塚古墳、190m)を拵えたという従来の想像が必ずしも的外れな妄想ではなかったと言えそうです。また、河内国には古代から応神帝に直接つながる一族が住み、その血筋は途絶えることなく連綿と近世まで続いているのだという「民間伝承」にも何かしらの根拠がありそうに思えますし、摂津三島地域に濃密な神功皇后に関する伝承が残っている事情も納得できます。

復元された今城塚古墳の埴輪  埋葬当時の模型

最後になりましたが、実は垂仁帝の子女にも「タラシ」を含む名前の持ち主がいます。それが渟葉田瓊入媛との間に生まれたイカタラシヒメ・ヌタラシワケと、苅羽田刀弁との間に儲けたイカタラシヒコの三人なのですが、いずれも垂仁と彦坐王・丹波一族とのつながりを強調するための存在であることが明白ですから、これらの人物像にも手が加えられたと思われ、今までの考察結果と齟齬をきたすものではありません。蛇足になりますが、越の国からやって来た継体が樟葉(河内)、筒城(山城)、そして弟国へと都を移した後にヤマト入りしたという記紀の記述は、その昔、継体の祖先が摂津三島に拠点を設けた後、淀川沿いに北上して山城や琵琶湖周辺更には日本海側の地域に進出して勢力を保持した歴史の裏返しではないかと思うようになりました。

      
     
 
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