銅鐸甲山古墳そして三上山ムカデ伝説                     サイトの歩き方」も参照してください

創建の時期も今ひとつ定かでは無い、古い歴史ある社寺の多くには、聞く人が『へーぇ』とか『ほぉーっ』とか驚いたり呆れたり、はたまた感心したりする伝説の類が一つや二つあるものですが、琵琶湖東南岸・野洲に鎮座する御上神社は、アマテラスの三男・天津彦根命を主祭神として祀る社だけに、登場する人物も、そして敵役の怪物のいずれもが「大物」です。御伽草子『室町物語』が採録している「俵藤太物語」によれば、

  朱雀院の御時に(10世紀前半)、俵藤太秀郷と申して名高き勇士侍り。この人は昔、大職冠鎌足の大臣の後裔、安倍の左大臣
  魚名公より五代の孫、従五位の上、村雄朝臣の嫡男なり。村雄朝臣、田原の里に住しける。

とあり本来、下野(群馬〜栃木)に勢力圏を持っていたはずの藤原秀郷(生没年不詳、平将門の乱討伐に功績を挙げ下野守に任じられた)が、何故か京に近い瀬田の唐橋に現れます。橋のたもとには人々が集まり、皆、何やら不安げな眼差しで遠くを見つめ決して渡ろうとはしません。何と、そこには長さが二十丈(60m)もの大蛇が横たわっていたため、里人や旅人は恐ろしさの余り、渡ることは勿論、近づくことさえ出来なかったのです。しかし、豪勇で知られた藤太は何食わぬ顔で堂々と、太い大蛇の背を踏みつけて向こう岸まで渡りきってしまいました。御伽草子は語ります。

  その夜、一人の若くて美しい女性が藤太の許を訪れて『私は昼間唐橋でお目にかかった蛇で、琵琶湖に住む龍神一族の者ですが、
  三上山に住む百足に苦しめられて、大変、難儀しております。どうか、奴を退治して、私たち一族を助けて頂けないでしょうか』と頼みこんだ。
  藤太は得意の弓矢を携え早速、三上山に向うと、そこには山を「七巻き半」もする大百足が待っていました。一矢二矢と失敗はしたものの
  三本目の鏃に自らの唾を吐きかけ、南無八幡大菩薩と念じて矢を放つと今度は見事に百足を射抜き、退治することが出来ました。

瀬田の唐橋  俵藤太と龍姫  俵藤太とムカデ   PR

宿願を一挙に片付けてくれた藤太の武勇に感激した竜王は、百足退治のお礼として『煌びやかな巻絹、食べ物が自然に出てくる赤銅の鍋、米が尽きることのない俵』などの他、黄金札の鎧と太刀そして赤銅の鐘を贈りました。この時、彼は「龍宮」にも招かれたとあるのですが、湖の中ではなく指呼の地に「竜王」の住いが在ると言ったら貴方は信じますか?瀬田は大津市に属している町ですが、唐橋を渡り中山道を東北に向けて草津、守山と進んだ先に「竜王」町があり、以前ご紹介をした源義経縁の鏡神社が鎮座しているのです。ここは日本書紀が『近江鏡の谷の陶人は即ち、天日槍の従人なり』(垂仁紀三年春三月条)と記録した旧蒲生郡鏡山村に当たる地域ですから、物語りの筋書きから想像すれば、時代は相当かけ離れてはいるものの、琵琶湖南部周辺にまで強い影響力を持っていた「鏡」作りや「陶器」作りの技術集団の長であった「竜王」と、隣接する三上山に地盤を持っていた集団との間で、深刻な「問題」が生じていた時期があったのかも知れません。また「鏡」ではなく「銅」を解明の手がかりにするべきなのかとも考えられます。

琵琶湖を本拠とした龍神一族が、百足退治のお礼として藤太に差し出した宝物に「赤銅の鍋」「赤銅の鐘」が含まれていましたが、実は御上神社の真北約2kmの野洲市大岩山から弥生時代の祭祀に用いられたのではないかと推察される銅鐸24個が出土、その中の一つは高さが135cm余りもあって日本最大の銅鐸だと見られているのです(下左の画像・東京国立博物館が収蔵しています。竜王町からも銅鐸は出土しています)。銅そのものは加工しやすい金属ですから、現代でも食器や鍋に良く使用されています。だから、竜王からの贈り物と弥生の銅鐸を短絡させてしまうことは出来ないにしても、琵琶湖東岸に先住した主に古い金属(銅)を扱う一族と、最新の鉄に関する金属加工技術を持って後から渡来した集団との間で、資源の開発、利用などを巡って主導権争いが発生していた可能性は拭えません。何より、新しい金属としての「鉄」は、権力の源ともなる武器に直結していますから、アマテラスでさえ「鏡」と共に「剣」を「神器」の一つに掲げ、御上神社が祀る鍛冶の神・天之御影命(天目一箇神と同神とされる)の親神・天津彦根命を自らの系譜(三男)に組み入れてもいるのです。銅鐸が祭祀などの場に置かれ住民たちから崇められ、地域集落の宝として大切に管理されていたのは、紀元前二世紀位から二世紀頃までの数百年間だとされていますが、その終焉期は何故か卑弥呼たちの邪馬台国が出現しようとした時期とも符合します。「魏志」「後漢書」や「梁書」が、

  倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち一女子を共立して王となす
  桓帝、霊帝の間(146〜189年)倭国は大いに乱れて、歴年主無し
  後漢、霊帝の光和年間(178〜184年)倭国は乱れ

など揃って伝えた「倭国」の乱は、正に西暦二世紀の第四四半期に起こっていた訳ですから、その長い戦乱を潜り抜けた「二世紀終り」か三世紀初めに「女王」を共立した邪馬台国が誕生していたと考えても不自然ではありません。銅鐸から鏡へ、権威の象徴が何故移ったのか明確な理由は思いつきませんが、実力者たちが鬼道を事とする卑弥呼という「個人」に霊力の存在を認めて「王に共立」したのは確かですから、銅鐸という「モノ」を通しての自然崇拝から、神々の言葉を代弁出来得る存在としての「王」個人への崇拝という意識の変化を反映しているのかも知れません。王権の芽生えを、そこに見て取ることも出来るでしょう。閑話休題−−それはさておき。勾玉と共に「鏡」と「剣」を一族の象徴に据えたアマテラスの子(天津彦根命)と孫(天之御影命)の後裔・息長水依比売は、同じく天孫を自負する神武帝の子孫・開化帝の息子・彦坐王と結ばれ丹波道主王と水穂真若王を儲けます。前者は「四道将軍」の一人とされた人物で垂仁帝の皇后となって景行帝、五十瓊敷入彦命などを生んだ日葉酢媛命の父親で、後者が近淡海国造として近江南部で活躍した安直(やす・あたい)の祖となった人物なのです。ここで時代は一気に六世紀前半にまで飛びます。

日本最大の銅鐸  甲山古墳の石棺  丸山古墳の石棺

九州阿蘇の限られた地域から切り出された阿蘇ピンク石という石材で作られた石棺が、近畿地方を中心に十三例見つかっていることは「継体一族の后妃」というページで詳しくご紹介しましたが、奈良の都とかけ離れた野洲の地で、そのうちの二つまでが発掘されているのです。

  丸山古墳  6世紀前半  直径28m、円墳  刳抜式家形石棺・長さ 2.85m 幅 1.46m 高さ 1.83m
  甲山古墳  6世紀中頃  直径30m、円墳  刳抜式家形石棺・長さ 2.60m 幅 1.60m 高さ 1.90m

二つの古墳は旧中山道を見下ろす低い丘陵に築造された径30m足らずの小さな円墳にも関わらず、遠く熊本宇土半島から切り出した馬門石で拵えた巨大な石棺を収蔵しています。最終的な加工は現地周辺で行ったとしても、石棺は瀬戸内海から淀川を遡り、瀬田から琵琶湖に入り野洲まで運ばれたと考えられます。そして「6世紀前半・6世紀半ば」という築造時期は、淀川西岸の摂津三嶋で継体大王(450?〜531?)が自らの寿陵・今城塚古墳を造らせていた時期に他なりません。その大王陵の遺跡から二つの石棺と同じ阿蘇ピンク石の破片が見つかっている事実は一体何を物語っているのでしょう。大王の陵墓跡からは三種類の石材が発掘されていますから、継体自身の棺の材を特定することは出来ませんが、少なくとも野洲の古墳の主たちが大変珍しい、しかも巨大な阿蘇ピンク石で出来た棺を使用する「許可」を大王が、ヤマト王権が出していた事だけは確かなようです。オオド王の擁立に際しては、息長一族の強力な支援と共に、天津彦根命を頂点とする天之御影命・天目一箇命或いは天戸間見命を祖神と仰ぐ三上氏、額田部氏、凡河内氏そして安氏などの製鉄軍団の協力があったのではないでしょうか?その意味から管理人は丸山、甲山古墳の被葬者を安国造の関係者だと思いたいのですが…、皆さんはどうお考えになりますか!

久方ぶりに古今の一首を披露してお開きにしたいと思います。

  近江のや 鏡の山を立てたれば  かねてぞ見ゆる 君が千歳は            「古今和歌集」 大友黒主

     
     
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