東洲斎写楽と御大名そして岡っ引き(御用聞き)                        「サイトの歩き方」も参照してください

好きな小説家の一人に半村良がいる。『戦国自衛隊』で時代劇とS.Fをヒューズさせ伝奇的ミステリィ分野でも注目された作家ですが、何より作品の筋書き作り、つまり話を組み立てる発想が豊かで、語り口にも独特の優しさがあるのでファンも少なくないと思います。『どぶどろ』と云う一風変わった題名の作品は、江戸末期十八世紀終わりから十九世紀初め頃にかけての下町模様を描いたもので主人公の平吉は戯作者・山東京伝(1761〜1816)の生家で養われている設定になっています。彼は、まだ二十歳そこそこの若者なのですが、町内で起きる日々のもめごとを穏便に解決したり、町役人の頼みごとを無難にそして素早く片付ける一方、根っからの気性の良さで長屋のおかみさん連中にも受けがよく、いつの間にか町内では「岡っ引き(目明し)」のような存在になっており、中には「平吉親分」と呼ぶ者さえいるのです。勿論、これは小説世界での出来事、人物像なのですが、この時代の大江戸に「岡っ引き」あるいは「御用聞き」と呼ばれる人たちが暮らしていたのも事実です。(下の表にある数字は、あくまでも一つの目安です。経済は生き物ですから時代を通じて常に変化しています)

 江戸の貨幣制度:金一両=銀六十匁=銭4,000文。一両=四分、一分=四朱。物価の目安としての米価:米一升=100文。長屋の家賃:一月1,000文=一分 

独特な描写で江戸っ子の度肝を抜き、歌舞伎芝居の役者絵で人気を博した東洲斎写楽が活躍したのは寛政年間。その写楽ではないかと多くの論者が推測している人物が、当時、阿波徳島藩のお抱え能楽師であった斎藤十郎兵衛(1763〜1820)と名乗る人でした。江戸時代、能楽(猿楽、狂言)は徳川幕府によって公式に認められた芸能でしたから、それを演ずる能役者にも武士の身分が与えられ、俸給(扶持)が支払われていました。ただ、十郎兵衛は喜多流一座の中でも主要な地位を占めていた訳ではなく、謡(うたい)が専門の座員の一人に過ぎなかったため武士とは言っても最下級の「無足」以下に属していたに過ぎません(「無足(むそく)」とは主従の関係ではあっても殿様から領地を与えられていない者の意味です)。そのため彼が一年間に得ていた俸禄は「五人扶持判金二枚」ぽっきりで、とても余裕のある生活が出来る身分ではありませんでした。当時、大人は一人当たり一日五合の米が在れば暮らしが成り立つと考えられていたようで「五人扶持」は「一人五合×五人=二十五合」つまり二升五合ですから、一月では七十五升、一年では十二倍の九百升になります。百升の米は「一石(いっこく=150kg)」に相当するもので、米価は天明の大飢饉の後、ほぼ倍に急騰した後、寛政に入って落ち着き文化の頃には下落に転じます。写楽の絵が町中に出回った頃の詳しい米相場は調べきれていませんが「一石=一両強」とすれば、九石は十両ほどの価値が有ったと考えられます。つまり、能役者の生活は「ほぼ一か月に一両」の範囲内でやり繰りしなければならなかった訳です。これは、私的に何かの副収入があったとしても、かなり台所事情が苦しかったと想像できます。

時代劇などでは常に百姓から年貢を厳しく取り立てる悪役としての武家が必ずと言って良い程登場しますが、物価がどれだけ上昇しても決してスライドしない定額給与で生活していた下級武士の暮らし向きも、相当に苦しいものであったと思われます。土地を耕している農民であれば自家用の野菜や果物なども、栽培する意志さえあれば収穫は可能で、お上も米以外の農作物に米同様の税を掛けることもありませんでした。今も昔も事情は同じで、大都市・江戸の諸物価は地方よりも全てが「割高」い訳ですから、十郎兵衛クラスの武士にとって江戸住、江戸詰は決して楽なものではなかったのです。各藩でも当然その辺りの事は承知していますから、藩士たちの生活を少しでも支えるため、更には江戸市中に出て面倒事に巻き込まれる機会を極力減らすために藩邸内に長屋を建て住まわせました。そこを利用する限り藩士たちも家賃の心配をする必要がありませんでした。これまでの研究で、斎藤十郎兵衛の家族は寛政末年から享和元年にかけての間に藩邸の長屋を出て、八丁堀地蔵橋の元与力屋敷地内に転居したと見られていますが、寛政十二年(1800)の頃、米価は「一石当たり、銀76匁(1.27両)」に高止まりしており、飢饉後の急騰時を除いて近年にない高値相場となっていました。つまり諸物価の元となる米の価格が再び上昇して家計を圧迫していた正にその時、十郎兵衛が「高家賃」の住宅に転居したのには、それなりの明確な理由が存在しなければならないと筆者は考えています。それはさておき、と゜うやら大名の扶持を頂いていたのは武士(の資格を有する者)だけでは無かったようなのです。(下中央と右の画像は、分限帳から引用したものです)

町の賑わい  手木之者  町同心  PR

写楽を語る時、必ずと言って良い程取り上げられる資料に『阿波徳島藩蜂須賀家家臣、無足以下分限帳』(以下「分限帳」と云う)があります。これは四国の阿波藩が「無足以下」の家臣たちに支給していた給与の一覧表なのですが、そこには「小姓」「中小姓」「奥坊主」「御役者」「女中」から「番人」「弓師」「町医師」などの氏名と俸給が詳細に記されています。今回、参照している資料は「文政十二年十二月」の日付を持った「江戸住(参勤交代とは関わりなく江戸に常時住んでいる)」の「無足諸士以下分限帳」で十九世紀初め頃の江戸住み家臣と阿波藩への出入りを認められ、扶持を与えられていた町人たちの名前と給与が克明に記されています。オノコロ共和国シリーズで度々取り上げてきた浮世絵師・写楽とそっくりな「写楽斎」という名の浮世絵師が住んでいた町は、江戸町奉行所に勤務する与力、同心の組屋敷が密集した八丁堀という地域だったのですが、幕府の政策によって自らの家族を常時江戸表に住まわせる必要があった大名たちは、自藩の家臣たちが江戸府内において万が一「面倒事」に巻き込まれた際、出来る限り表沙汰にすることなく穏便に解決する目的で奉行所への「付け届け」を欠かすことはなく、与力・同心個人にも「扶持米」を与えたり物品を贈答していたと言われてきました。親藩譜代或いは外様を問わず江戸府中においては各藩の例え高官であっても何かの事件を起こした場合、一旦藩邸から外に出れば町方の捜索の手が及ぶことになります。また、捕り物帳のようなドラマには同心の手足となって犯罪者の取り締まりを手伝う「岡っ引き」が脇役として顔を出しますが、彼らは正式な奉行所の職員ではなく、あくまでも同心たちが「私」に使っていた非正規の者に過ぎませんでした。従ってお上から俸給が与えられる事も無かったので、同心が自腹を切って配下の町人たちに「手当」を出していたと云うのが時代劇の通説なのです。

しかし、同心の得ていた給与の額を考えれば、それが如何に大変な事であったかが分かります。何しろ彼らが幕府から支給されていた年俸は、わずか「三十俵二人扶持」に過ぎなかったからです。一俵の米は60kgですから「2.5俵=一石」に相当します。つまり「30俵=12石」です。これに「二人扶持」が加算される訳ですから「五合×30日×12カ月×2人=3.6石」を足しても合計15.6石にしかなりません。先の十郎兵衛と比べれば少しは「マシ」ですが、とても岡っ引きや手下たちに十分な手当など出せる訳がないのです。ところが貧乏なはずの同心たちは常に何人もの岡っ引きを探索や捕り物の折に引き連れていましたし、幕末期には江戸全体で数百名もの「親分」が居たことになっています。生活に窮した同心たちが苦肉の策として考え出したのが拝領地内での長屋の運営で、自らが大屋となって「家賃」収入を得ようとした訳です。しかし、これも当然、建築費という大きな投資があっての話ですから、月々の家賃が全て同心たちの懐を潤したはずもありませんので、三百諸侯と称された大小名からの「贈り物」はとても重宝されたと考えられます。更に、大名側では江戸町奉行所との関係を円滑にする目的で、特定の同心などに扶持米を支給していただけでなく、冒頭で見た「平吉」のような町方の親分たちにも「お手当」を支給していたのです。上に掲載した画像の中に「手木小頭」「手木之者」という項目が見えています。「手木」は「十手」を意味していますから、これは明らかに「岡っ引き」への給与だと考えられます。その額は「小頭」が「三人扶持金六両」で「七十八人」の「手木之者(頭)」には合計で「百五十六人扶持、金三百二十両」にも及んでいます。

将軍吉宗は享保の改革で「偽目明し」の根絶を図ったが…

「小頭」あるいは「頭」という名称は、彼等「岡っ引き」たちには明確な上下関係を有した独自の組織(縄張り?)が造られていたことを想起させます。また、阿波藩は二人の「町同心」にも「二人扶持」を与えていますから、恐らく懇意にしている奉行所の同心を通じて名前の上げられた特定の岡っ引きたちに「扶持米」が支給されたのだと思われます。(同心よりも岡っ引きの小頭の方が多くの扶持米を支給されている点が興味深いですね)徳島藩は石高が25.7万石(全国17位)の外様で決して大きな大名ではありませんし、特別に江戸との関わりが深い藩でもありませんから、同様或いは同様以上の対応を他の藩でも行っていた可能性があります。徳川将軍家お膝元の大江戸で、治安組織の末端を構成していた町方の岡っ引き集団を、全国の各藩が蔭で支えていた不思議な構図が浮かび上がります。さて、阿波蜂須賀家では幕臣でもある町奉行所同心や、その配下を構成していた岡っ引きと呼ばれる町人たち多数に扶持米と現金を支給し、藩士たちが犯罪やもめ事(訴訟沙汰)に巻き込まれないよう、若し事件に関わりあった場合には可能な限り表沙汰にならないよう穏便に処置してもらうための予防線を張っていました。小頭を含め八十名もの十手持ちには、それぞれ数名の「下っ引き」が居ます。その情報網は江戸の隅々にまで張り巡らされていたはずで、府内随一の娯楽場であった歌舞伎の芝居小屋周辺には当然、何人もの岡っ引きが常時出入りして「変わった事(飯の種)」がないかを聞きまわっていたに違いありません。彼等は映画やTVの時代劇に出てくる目明しのように「十手」をこれ見よがしに振り回したりはせず、一般の町人に混じって小屋の内外に出没します。そんな中、阿波藩の能役者が毎日毎日何か月にも亘って歌舞伎見物に来ていたとしたら、当然、数日の内に情報が同心に届き、日を置かずに藩邸の用人にも伝えられたに違いありません。つまり、何度も繰り返すようですが、斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽の正体では在り得ません。

江戸の実情に大変詳しい三田村鳶魚(1870〜1952)は、その著作『八丁堀の与力同心』の中で岡っ引きの存在について『手先というものは同心の下働きであって、表向きの給金は半季二朱だったとやら』『表は表、裏は裏で、同心が幾人、手先を使っているか奉行所へ知れてはいない。全く同心限りのもので、町奉行に通ったものでない、従がって改まった任命などという順序もなく、同心が自筆の手札を渡して置くまでのこと』『廻り方(常町廻り)の宅には何時でも二人や三人は何とも附かない者が居て、拭き掃除などをして下男のように働いていた』と具体的に述べており、徳島藩の分限帳から推測される町同心、岡っ引きと大名との奇妙な関係を裏付けているように見えます。(文中にある「手札」は同心自筆のお墨付きで、一種の身分証明書のような書付のこと。岡っ引きたちは現金よりも、むしろ手札欲しさに働いていたのです)十八世紀末の江戸には町方だけで五十万人もの人々が暮らしていました。これに対して町奉行所の役人は与力と同心を合わせても三百名にも足らない有様で、其のうえ町人たちの世界取り分け「裏」社会の実情を捜索の実務者だった同心たちも、殆ど把握できていなかったとも云われています。そこに非正規の者たちが権力の末端を肩代わりするという変則的な社会構造が産まれる要因があった訳ですが、あくまでも法律的には何の裏付けも持たない、しかし同心という公の力を持った役人の「お墨付き」を懐中にした手先たちの存在は、時として腐敗の温床ともなり得たのです。享保四年六月『偽目明シ鳶之者取締』の覚書で町年寄を通じて「目明しなどという者は存在せず」「今後、その様な事を言う者が有れば訴え出」るようにと触れを公にした幕府は翌五年五月四日、遂に厳罰を下します。それは「奉行所加役方の目明し」を名乗って町人(商家?)たちに「金子」を要求した那須屋仁左衛門を獄門に、また彼の「類之者」たちを御仕置(斬首)に処した上で、仁左衛門たちに金子を差し出した町人たちも揃って「科料」としたもので、公儀は触書の中で再び「目明の類は一人もいない」「偽者は直ちに召し取る」ので、おかしな言動をする者があれば「番所に訴え出」るように明言しています。

一連の動きが徳川吉宗による「享保の改革」に伴う政権基盤の充実策と深く関わっていることは言うまでもありませんが、十八世紀初めの段階で既に「目明し」という存在が町政全体に良くない影響を与えていた事が分かります。ただ、幕府が幾ら建前として「目明しは存在しない」と声高に叫んでも、江戸を預かる同心たちにとって岡っ引きは必要悪の象徴でしたから、増えることはあっても減ることはなかったのです。「手木之者」たちへの出費は諸藩の有名税あるいは交際費としての性格も帯びたものだったのかも知れませんが、それにしては少し額が大きすぎるようにも思うのですが、読者の皆さんはどのように判断されるでしょう。

嘉永7年3月  嘉永7年11月  文久2年  武鑑にある威徳の名前

今回ご紹介している「分限帳」には、もう一つ気になる記載があります。それは「町同心」の二つ手前に書かれた「家御役者」という肩書の人物の存在です。写楽探しとも直接関わる事柄なので書き留めておくことにします。そもそも「御役者」と「家御役者」にどのような違いがあるのかが良く分からないのですが、阿波藩では「別」な身分だと捉えられていたことだけは確かです。この時代の大名が「家」という場合、それは単に蜂須賀家(当主個人)そのものではなく「阿波藩の全て」つまりは「藩」自体を意味していたと考えられるのですが、藩士たち全体に能楽を教えるのではなく、藩主個人のための指南役といった役割を与えられていた御役者だったのかも知れません。分限帳によれば、それが威徳三郎四郎という能役者なのですが、彼は宝生流座付の大太鼓威徳流の一員で、寛政十二年(1800)の「武鑑」に初めて奏者として記載されます。「猿楽分限帳」には「父甚佐衛門」とある人で、恐らく斎藤十郎兵衛より若い世代(1777生?)ではないかと見られます。阿波藩の文政之分限帳には「御役者」の項に同姓の威徳錬次郎の名前も掲載されていますが続柄などは不明です。この人の何が「気にかかる」のかと云えば、それは、

  嘉永七年(1854)十一月改正、近吾堂近江屋五平板の『本八丁堀邊之絵図』では奉行所与力・藤田六郎左衛門の敷地内に自宅が在ることになっているが、
  文久二年(1862)、金鱗堂尾張屋清七板の『八丁堀細見絵図』では、威徳三郎四郎の自宅は与力敷地内には存在していない。
  更には、「武鑑」の記載事項から彼の住所は登場した寛政十二年から文久二年まで一貫して「南八丁堀(五丁メ)」であり「本八丁堀」ではない。

という事実です。当サイトの「写楽シリーズ」を読んで下さった方には直ぐ、斎藤与右衛門のケースと全く同じ疑問点が再浮上した事に気づかれた事と思いますが、実は近江屋五平板の『本八町堀邊図』には同じ嘉永七年板が、もう一種類あり、同年三月の改正板には威徳三郎四郎の名前は本八丁堀の組屋敷内には記入されていないのです(上左の画像参照)。資料を素直に読めば「嘉永七年の三月以降に本八丁堀の与力屋敷内に転居した後、文久二年までに元の南八丁堀五丁メに戻った」事になるのでしょうが、高齢になった彼が阿波藩の中屋敷から離れて態々高い家賃が必要な与力屋敷の敷地内に自宅を移す理由が分かりません。また、それなりの事情があったにせよ「武鑑」の記述が南八丁堀で一貫しているのは何故なのか?という疑問には答えられそうにもありません。この時期、江戸府内の詳細な地図について幕府の専門職(普請方か屋鋪改方?)以外に情報を掌握していた部署は無かったはずですから、その意味で二つの版元が細見図作りに利用した「情報源」は恐らく同じ内容であったに違いないのです。そう考えると謎は深まるばかりです。尚「南八丁堀五丁メ」と称された場所は阿波徳島藩の中屋敷があった区域の道一つを挟んで向かい側の町地で、斎藤十郎兵衛の子供を養子に迎えたとされる国学者で歌人の村田春海(1746〜1811)が寛政十二年春まで暮らしていた長屋が建てられていた町でもあります。筆者の脳裏には、

  村田春海の養女、多勢子が幼い頃から養子として育てた「垣隣の能楽師」の子供というのは、八丁堀地蔵橋の与力屋敷内にあった隣家の事ではなく、
  阿波徳島藩中屋敷があった南八丁堀五丁メに住いを持っていた威徳家の子弟ではなかったのか?(村田は寛政後半に数年、同所で生活していました)

という妄想が湧いているのですが、関根正直の伝聞資料(『江戸の文人村田春海』)を覆すだけの根拠は未だ発見することが出来ていません。阿波徳島藩の分限帳には、写楽研究に関係する別の重要な記載事項があります。次の回は、それを解明したいと思います。

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東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

     
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