謎の大王・中大兄皇子 天智天皇異聞                                サイトの歩き方」も参照してください。

書きたいことは山ほどもあるのに、そんなときに限って「最初の一行」が思い浮かばない…。じれったいのだが、何時までも言葉の醗酵・熟成を気長に待っている訳にも行かないので、細かい筋書きなどは考えずに、−−ともかく書き始めることにします。

吉志部神社(大阪府)

発端は、大阪・吹田市(旧・摂津国)にある吉志部神社(きしべ)というお社。ここは古代に渡来した技術集団の一つである吉志(きし。吉士、吉師とも記す)一族の氏神様をお祀りしたもので、その最も古い記述は『日本書紀』雄略天皇14年の項に、

  即ち、難波吉士日香香の子孫を求めて、姓を賜ひて大草香部吉士としたまう。

とあり、大和を中心に発展した王朝を、主に技術面と財政面で支えた有能で機動的な部族だったようです。また、海上交通(造船なども含む)や対外的な交渉(語学を利用した外国使節との折衝)にも彼等は長けていたようで、その代表格が第2回遣唐使(西暦653年5月)の大使を務めた吉士長丹(きし・ながに)だと云えそうです。(この時、副使だったのが同族だと考えられる吉士駒で、第5回遣唐使節にも吉士の姓が見えます)

彼が吉士長丹さんです。  太子像  入鹿神社

一つ目の謎は、その遣唐使派遣そのものに関わる事実にあるのですが、そのお話をする前に、7世紀中葉の政治的な状況がどうだったのかを少し説明しておく必要があります。先ず、このオノコロ・シリーズで何度も取り上げてきたように七世紀前半は、何といっても「蘇我氏」全盛の時代だったと謂えますが、一族の雄・入鹿(いるか,?〜645)が「聖徳」太子の嫡男だとされる山背大兄王一族を滅ぼした(643年)ことで宮廷内の勢力図が大きく変化します。つまり継体・欽明天皇から用明・推古そして崇俊・舒明と続いた蘇我氏系(娘を嫁がせ、外戚となり影響力を発揮する)から藤原氏系への軌道修正です。中臣鎌子(なかとみ・かまこ,614〜669)を味方につけた中大兄皇子は、皇極4(645)年6月12日、宮中で蘇我入鹿を殺害、翌13日蘇我蝦夷(そが・えみし)は自害します。

書紀によれば、この時、蝦夷は、

  ことごとくに天皇記・国記・珍宝を焼

こうとしたのですが、その燃え盛る火中から危険を冒して「国記(くにつふみ)」を取り出し、天皇にではなく中大兄皇子に「奉った」のが船史恵尺(ふね・ふひと・えさか)という人物なのですが、この「船史」という姓は、欽明天皇の十四年七月、入鹿の曽祖父、

  蘇我大臣稲目宿禰が勅をうけたまわり王辰爾を遣わして、船の貢を数えて記録した

功績により「船長(ふねのつかさ)」に命じられ「船史(ふねのふひと)」の姓を下賜されたと書紀が伝えているように、比較的新しい時期に来朝した渡来系の氏族名だと考えられます。そして記が態々「稲目が勅を奉じて」遣わしたと云っているのは、この船史自体が蘇我氏の影響力下にあった、つまりは蘇我氏を支える技術者集団の一部だったことを暗示していると思われるのです。だからこそ、蘇我氏の宮殿のどこに「国記」などの書物が置かれていたのかを知ることも出来た(つまり蘇我氏の屋敷内、或いは極近くで生活していた)のでしょう。また、若し船史が蘇我氏の内情に通じる秘書官のような存在だったのだと仮定するなら、持ち出せた資料が、何故「国記」だけだったのか、言葉を代えれば『肝心の天皇記(すめらみことのふみ)は何故一緒に持ち出せなかったのか?』という疑問も生まれてきます。(一部族であり一臣下であったはずの蘇我氏の邸宅内に何故『天皇記』という重要書類が保管されていたのかという根本的疑念もあります。うがった見方をすれば、その天皇記には中大兄皇子たちにとって不都合な内容の記述があったのかも知れない訳です)「天皇記」ではなく「国記」だったので、敢えて天皇ではなく中大兄皇子に奉ったのだと書紀は言いたかったのかも知れませんが、これらの表現からは、この蘇我氏排除の計画が皇子を中心に綿密周到に練り上げられていたことを想像させます。たまたま「国記」だけが偶然、持ち出された訳では無かったのです。

蝦夷の自害から僅かに1日、明けた14日のうちに皇極帝の弟・軽皇子は即位して孝徳天皇(596〜654)が誕生します。(彼は、安閑を除き歴史上初めて譲位によって即位した帝です)皇太子は勿論、中大兄皇子で「忠臣」中臣鎌子(後の藤原鎌足,614〜669)は「内臣」という役職を与えられ、所謂「大化の改新」が行われます。孝徳は大和ではなく難波国長柄豊崎(現在の大阪市中央区)を都と定めて造営に励むのですが、その大化元年八月一つの出来事がありました。書紀は言います。

  朕、さらに復、正教を崇ち、大きなる猷を光し啓かんことを思う。

  故、沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙をもって十師にす。

孝徳天皇が仏の教えを大切にした経緯は理解出来なくもないのですが、ここで十師の筆頭に掲げられている人物こそ、仏教を体現し国政にまで反映させようとした聖徳太子の一族(正確には孫にあたる)弓削王を殺害した張本人に他なりません。(「聖徳太子伝補闕記」)そして、その凶行があったのは、僅か2年前のことなのです。皇極(斉明)・孝徳の両帝が欽明・敏達に連なる血筋であることを割り引いて考慮しても、「聖王」家とされる太子の一族滅亡に加担した「法師」を、国を教え導く精神的な支柱に登用する無神経さに呆れる他ありません。それはともかく、白雉三年九月難波での宮造りが完了、翌四年五月ここ十数年途絶えていた遣唐使が派遣されることになります。

法隆寺  扶桑略記より   PR

この、第2回遣唐使の大使を務めたのが先に紹介をした吉士長丹その人だったのですが、この時、多くの学問僧に混じり定恵(じょうえ,643〜666)という若い僧も唐を目指して船に乗り込みました。遣唐使船の復元模型を御覧になった方もあると思いますが、奈良時代の船は構造上も決して安全だとは謂えない、波に浮かぶ大きな箱のような代物で、勿論、無事に唐土へ到着するという補償などありはしませんでした。むしろ航行途上で遭難してしまう危険性の方が高かった遣唐使の一行に、何故、新政府の要とも言うべき内大臣鎌足の長男が加わっていたのか、これが一つ目の謎です。幸い、彼は無事修行を終え、天智四年に帰国するのですが、その直後に訪れた悲劇は、また別の機会にお話ししましょう。

書紀はさり気無く、前節に続けて書き綴っていますが、第2回の遣唐使節は一組だけではありませんでした。

  又の大使大山下高田首根麻呂、副使小乙上掃守連小麻呂……併せて一百二十人

もの人々が、別の船を仕立てて唐を目指したのです。天智八年までの使節がニ隻の船で渡航したことは確実で、この時以外の遣唐使の「大使」は一人だけだったのですが…、これが二つ目の謎です。そして、皆さんが、なんとはなく感じておられるように、冠位も吉士長丹より上位だった高田大使一行を乗せた「もう一つ」の遣唐使船は「薩摩の曲・竹島の間」で遭難沈没し、生き残ったのは僅かに五人という有様で、大使ら主だった使節要員の全てが海の藻屑と消えたのです。更に、この年、とんでもない事件が起こります。書紀の記述では、次のような成り行きでした。

  この年(白雉4年)、太子、奏請して曰さく。「願わくは倭の京に遷らむ」と申す。

  天皇、許したまはず

  皇太子、即ち皇祖母尊・間人皇后を奉り、併せて皇弟等を率いて、往きて倭飛鳥河邊行宮に居します。

  時に、公卿大夫・百官の人等、皆随いて遷る

解説するまでもない事ですが、要は「皇太子」であった中大兄皇子以下、皇極上皇、間人皇后、大海人皇子などの皇族は勿論、朝廷政府を構成する貴族役人のすべてが、

  天皇一人を難波宮に置き去りにして

大和国飛鳥村の行宮(かりのみや)に移り住んでしまったのです。天皇が彼等を深く「恨んだ」ことは言うまでもありません。譲位というより「帝位そのものを捨てたい」とまで思いつめた天皇は、

  鉗着け 吾が飼う駒は 引き出せず 吾が飼う駒を 人見つらむか

との一首を皇后に送り「深い疑念」を表出しましたが、翌白雉五年十月一日に発病、皇后たちは慌ただしく難波宮に留まり続けた天皇を見舞いますが、同月十日、精も根も尽き果てた孝徳天皇が亡くなりました。皇極四年(645)の立太子から天智七年(668)の即位まで凡そ四半世紀の時間を要していることも大きな謎ですが、藤原氏とコンビを組んで「改新」事業を華々しく推進したとされる天智天皇の陵墓が「日本書紀」に記録されていない「謎」は、ご存知でしたか?このシリーズで、皆さんお馴染みの『扶桑略記』は、一説(或る説)として次のような一文を残しています。

  一云 天皇駕馬 幸山階郷 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落処為其山陵

つまり、天皇は馬に乗って山科の郷に「狩り?」に出かけたまま帰らず、どこで亡くなったのか不明なので、彼の「くつ」が落ちていた場所に「陵」を造ったというもの。ところが、これよりも数段「不思議」な言い伝えを残しているのが鹿児島の開聞神社(ひらききじんじゃ)で、興味のある方は寄り道してご訪問ください。閑話休題、それはさておき、皆さん「百人一首」で遊んだことがありますか?

開聞神社は薩摩一の宮なのです 「扶桑略記」(部分)国会図書館蔵   天智陵

紀貫之(き・つらゆき、870頃〜945)が古今和歌集の序文で「歌の聖(ひじり)」とまで褒め称えたように、古来、歌集の冒頭を飾る一首は柿本人麻呂の作品と決まっていたのですが、その慣習を破り新しいスタイルを打ち出したのが藤原定家(ふじわら・さだいえ、1162〜1241。現在の冷泉家は彼の子孫)で、定家の百人一首から「巻頭 天智天皇、二首目 持統天皇」の形式が採用されたのです。これは中世、鎌倉時代を通して、

  この御門(天智)、孝養の御心深くして、御母、斉明天皇を失せたまいてのち

  七年まで御即位したまはず、御子、大友皇子を太政大臣とす。

  また、諸国の百姓を定め、民のカマドをしるす(『愚管抄』)

との「評価」(「愚管抄」は関白藤原忠通の子、慈円1155〜1225の作)が定まった背景があるものと思われます。そして又、そのような事情から、次の一首が天智さんの代表作として紹介されることになったのでしょう。

  秋の田の 仮廬の庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ

九州は鹿児島・志布志町に山宮神社というお社があり、創建は和銅二年(709)と伝えられています。そして、この小さな神社には天智天皇が自ら植えたとされるクスノキの大木があり、祭神も天智天皇、持統天皇そして大友皇子など六神なのです。それでは、皆さんも恐らく国語の授業で口ずさんだであろう、そして神功皇后と最も著名な日本人女性の座を競い合う天智の次女・持統天皇の歌を紹介して、今回の謎の旅をしめくくります。

  春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣乾したり 天の香具山

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