天武天皇と尾張氏と物部                          「サイトの歩き方」も参照してください。

天皇の許しを得たのち出家、吉野宮に入っていた皇子のもとを、西暦672年夏五月の或る日一人の男が訪れ、重大な情報をもたらします。その詳細について日本書紀は次のように記録しています。

  私は用事があったので、一人で美濃に行ってきました。その折朝庭(朝廷)は、美濃と尾張両国の国司に対し山陵を造営するための人夫を選定するよう
  指示をだしていました。ところが、そのようにして集めた者たちに武器を取らせているのです。
  私が思いますに、これは決して山陵の造営などではありません。きっと「事」が起きるに違いありません。

名を朴井(榎井)連雄君という舎人は、大海人皇子が吉野に下った時から近侍し最も信頼していた部下の一人で『若し速やかに避りたまわずば、当に危なきこと有らんか』との進言を重大に受け止めた皇子は素早く決断を下し、翌六月には村国連男依、和珥部臣君手、身毛君廣の三名に対し近江朝との決戦を下命します。壬申の乱は先ず美濃国での挙兵から始められました。日本書紀が天武天皇紀の冒頭近くで、その「功績」の内容を詳細に述べている朴井氏が、正史上に初めて登場するのは七世紀半ばと遅く、孝徳帝の大化元年(645)九月に起こった古人皇子の「反乱」事件の共謀者としてでした。ただ、不思議なことに謀反に加担した一員だとされる吉備笠臣垂は、天平宝字元年十一月「大錦下」の高位にあり『吉野大兄(古人皇子)の密を告げた功により二十町の功田を賜った』と記録され、物部朴井連椎子を始め他の者たちも誰一人として処罰されたという記事も見られないことから、古人皇子自身が「謀反」を企てたとされる事実そのものが疑わしく、椎子は朝廷内の権力争いの渦中にあって暗躍した物部系豪族の一人だったと推測されます。

その椎子と同一人物ではないかと見られるもう一人の物部朴井鮪が書紀に現れるのは十三年後の斉明四年十一月のことで、同月三日条には『留守官、蘇我赤兄臣、有馬皇子に語りて曰く「天皇の治らす政事、三つの失有り」と言う。有馬皇子、すなわち赤兄が己に善しきことを知りて、欣然びて報答て曰く「吾が年始めて兵用いるべき時なり」と言う』若気の至りと決めつけるのは酷かも知れませんが、朝廷の最有力者が自分と同じ考えを持つ「同志」と勘違いした十九歳の皇子は、ついつい本心を明かしてしまいます。謀反の言質を得た赤兄は朴井鮪に「宮造る丁」を率いさせて皇子の家を囲み、皇子とその側近たちを捉えます。待っていたものは刑死という最悪の結末でした。(蘇我赤兄は馬子の孫にあたり、入鹿とは従兄弟の間柄になります。また倉山田石川麻呂、日向、連子、果安たちの兄弟でもあり、天智天皇のもとで左大臣の地位まで上り詰めています)

 孝徳天皇置き去り事件=白雉四年四月、皇太子の地位にあった中大兄皇子は天皇に対して『倭京への遷都』を奏請しますが、孝徳帝はその願いを拒否します。
 皇太子は帝の意向を全く無視し、母親や間人皇后さらには大海人皇子たちを率い倭飛鳥川邊行宮に拠点を移してしまいます。これに公卿大夫、百官の人々も全
 て従ったため、帝は独りむなしく都で暮らさねばなりませんでした。西暦653年の出来事でした。

日本書紀  大紫を追贈  榎井氏系図

扶桑略記  天智天皇陵 

西暦653年天皇を一人難波に残したまま中大兄皇子たちは飛鳥に遷り、孝徳帝の没後母親の斉明が重祚しますが、中大兄たちの百済支援復興政策は白村江の大敗で頓挫。667年近江への遷都を敢行した皇子は翌年即位して天智天皇となります。心労が重なったことも影響したのか天智十年九月体調を崩した帝は、造営中だった新宮に住まうこともなく十二月に四十六歳の生涯を閉じてしまいます。ここで、お話は冒頭の場面につながります。榎井を名乗った人たちは三者三様にも見えますが、いずれも時の権力者の忠実な手足となって活動していた事はあきらかです。(註:正史には記録されていませんが『扶桑略記』という書物には、狩りに出かけた天智天皇が山科で行方不明になり、その沓が落ちていた所に陵墓を造営したという異伝が採録されています)

『およそ政の要は軍事なり』(天武十三年閏四月条)の詔は天武帝が自らの思想を最も簡明な形で表現したものだと理解できますが、寵臣とも云うべき朴井雄君は天武五年に急逝。乱後の動向も一切記録されておらず天皇自身訃報に接して『大いに驚いた』とありますから、書紀の云うように『忽ちに病を発して』亡くなった訳ではなく、何かの任務を極秘裏に遂行中、不慮の死を遂げたのだと推測されます。同年六月天武天皇は雄君に「内大紫」の位(大臣に相当する高位)を追贈し、更には「氏上」を下賜してもいます。これは朴井雄君家が物部一族の宗主であると朝廷から公に認められたことを意味するもので、先代旧事本紀の『榎井雄君は物部守屋(?~587)の子』という世代を無視した一見乱暴な主張も、天武帝が授けた「氏上」のお墨付きが背景にあると考えるべきなのかも知れません。また良く言われることですが、幼少期から極めて密接で濃厚な関係を持ち、恐らく財政的な支援を一貫して続けてきた尾張氏にも天武帝は格別の思い入れがあったと思われ、記紀の編纂にあたっては両氏の出自、更には家譜・伝承に到るまで「優遇」するよう帝自らが指示した可能性もあながち否定できないように思えます。始祖におかれた天火明命という神様については、恐らく早くに直系子孫が途絶えたか、或いは地方に閑居したかなどの理由で、記紀は勿論朝廷が信を置く有力豪族の「主張」に面と向かって反論するだけの力を七世紀末には失っていたのだと考えられます。

また、天皇はこれに先立ち天武三年秋八月には忍壁皇子を石上神宮に派遣し「膏油をもって神宝を磨かせる」儀式を執り行い、同時にそれまで各豪族たちから差し出させてきた「諸家の神府に貯める宝物」をすべてを子孫に返還させる勅を発していますが、これも天武帝の自信の表れ(力の誇示)ととらえる事が出来るでしょう。人に先んじて正確な情報を得ることは相手に対して常に優位に立ち回ることが可能になり、更にはあらゆる「力の源泉」にもなり得ます。遁甲を良くしたとされる天武帝お気に入りの雄君は、きっと常々自分独自の情報網を要所要所に張り巡らせ、有益な判断材料を逐一天皇の許に届けていたのだと思われます。

伝統ある武門の頭領、名誉ある「氏上」の栄光は、どうやら雄君一代限りのものだったようです。系図からは彼には忍勝連・金弓連と名乗った二人の子息があった事が明らかになっていますが、持統天皇の跡を襲った文武天皇の大嘗祭の儀式で、禁門に大楯を立てる栄誉に浴した榎井朝臣倭麻呂は雄君の兄弟の子供に他なりません。

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