徳川将軍家と喜多七大夫そして斎藤十郎兵衛     「サイトの歩き方」も参照してください。

江戸の寛政年間、歌舞伎の人気役者たちの似顔絵を描き評判をとった浮世絵師の東洲斎写楽は、当時、阿波蜂須賀家のお抱え能楽師だった斎藤十郎兵衛という人物だったとする見方が美術界にも浸透してきているようですが、その「説」を補強する資料の一つとしていつも取り上げられる資料が、同時代に行われた江戸城内での演能記録です。これは正式には『将軍徳川家礼典付録』と呼ばれているもので文化十三年(1816)四月、京都から下向してきた勅使、中宮使さらには東宮使たちを労う意味合いのあった将軍主催の「御馳走」能の番組を詳細に記録した文書なのです。五日から始まった催し物は日を代えて数日に及びましたが、確かに同月十五日『鉢木』を演じた宝生萬作のツレとして「萬作弟子 斎藤十郎兵衛」の名前が御能明細書に記録されています(下左の画像参照)。そして、この人が『猿楽分限帳』にも名が記されている「父が与右衛門」である斎藤十郎兵衛(1811年当時で四十九歳)その人だという訳です。

明細にわざわざ「萬作弟子」と紹介されているのは、恐らく宝生流の大夫将監の直弟子ではなかったからだと思われますが、写楽シリーズの中で何度も述べてきた通り、文化十三年の『武鑑』には斎藤十郎兵衛の名前は載せられていません。(江戸期を通して喜多流の謡を担当してきたのは斎藤与右衛門という名前の能楽師だけであり、その名前を代替わりごとに十郎兵衛と与右衛門に変えた事実も確認できていません)また、分限帳に名前が記載されている十郎兵衛は地謡が専門の役者で、勿論、宝生座の一員でもありません。京都から遠路はるばる江戸まで下ってきた朝廷の使者を、将軍自らが持て成す宴の席に出演が許されたのには、恐らくそれ相応の理由があったものと思われますが、萬作は何故わざわざ彼を助演者に選んだのか不思議といえば不思議です。ただ、この明細書によれば「誰々弟子 何々」という但し書きを付けた人名は他にもあり、例えば喜多流の七大夫も「日向富三郎・深尾権八郎」という二人の弟子を伴って出演したようですから、公の演能の場に各流派の主だった役者が「弟子」を引き連れて舞台に上がることは慣例になっていた可能性もあります、それはさておき。

御能明細書  猿楽分限帳 

 良く知られている様に喜多流の始祖・初代七大夫長能(15816~1653)は、豊臣秀吉に恩顧があったため関ケ原合戦の後、一時逼塞していたところ徳川方からその才能を惜しむ声が出て江戸に召し出され、元和年間に流派の創立が認められた経緯がありました。三代将軍家光も秀忠と同様七大夫の能を大変好んだのですが、寛永十一年九月に彼が演じた『関寺小町』が殊の外不評だったことを咎められ、共演者ともども「閉門」を命じられ流派の存続すら危ぶまれる状況に陥りました。この時、進んで助け船を出してくれたのが仙台藩主の伊達政宗で、翌十二年家光に直接会って七大夫の閉門を解くよう膝詰めであっせんし、其の甲斐あって一門の能役者たちは再び晴れの舞台に立つことを許されました。ここで騒動が収まれば、話は「目出度しめでたし」で終えられるのですが、喜多流宗家七大夫の受難は三十数年を経て再現されます。

将軍は「能狂い」と噂された綱吉に代わり、三代目七大夫が指南役として出仕していた貞享三年(1686)突然、改易を命じられます。詳しい理由等伝わっていませんが、翌年許されている点を考慮すれば単なる綱吉の気まぐれの犠牲になっただけなのかも知れません。ただ、この三代目は大夫の座に復帰することは出来ず、名前も中條嘉兵衛直柔と変えさせられ、以後、将軍の近習(武士)として一生を終える事になりました。そんな彼にとって一つだけ幸いだったのは自身「中條流」の名目で能を続けられたことと、養子の長寛が四代目を継いで喜多の名跡を失わずに済んだことでしょう。但し、悪夢は消え去った訳ではなく、若くして後継者となった長寛はわずか二十二歳で急死します。更に十数年を経た元禄十五年(1702)喜多家に最悪の事態がもたらされます。五代目の十大夫恒能が綱吉の要求を断ったため切腹を命じられたのです。『猿楽伝記』に納められている喜多流の系譜には、彼の名前を「中條市右衛門」として載せ、旗本として出仕したと記されていますが、能役者に男色の相手をつとめさせようとする将軍の異様さに驚くばかりです。同じ年の十二月、浅野内匠頭の元家臣たちによる吉良上野介邸討入りがあり、さしもの江戸っ子も大いに肝をつぶしましたが、江戸城内で起こっていた変事を知ったなら、彼らはどんな反応を示したことでしょう。

武鑑・元禄八年版  武鑑・宝永七年版

「犬公方」の異名をとった綱吉に世継ぎとなる者がいなかったため、養子となって宝栄元年(元禄十七年)十二月、江戸城西の丸に迎えられたのが甲府藩主で甥の徳川綱豊(家宣、1662~1712)でした。この家宣もまた歴代の将軍に負けず劣らず「能好き」で、自前の領地は持っていましたが藩主時代を通じて甲府へ赴くことはなく、江戸の御浜御殿を生活の拠点にしていましたから、先代綱吉の行状はすべて熟知していたことでしょう。また、家宣は将軍になる前から喜多流を贔屓にして多くの能楽師を召し抱えていました。『甲州文庫史料』に治められている「甲府様御人衆中分限帳」(元禄八年、1695)という資料には大夫として山田市之丞、山田市十郎を始め二十数名もの役者が藩士として記録されており、その中には「ワキ師、斎藤十郎兵衛」「地頭、斎藤与右衛門」という写楽おっかけ人には見逃せない姓名も含まれています。そして、これらの人々は藩主が将軍家の主となると同時に「幕臣」に昇格したのではないかと思われるのですが、上に張り付けた画像であきらかなように「宝永七年武鑑」には斎藤与右衛門の名前しか見当たらず、大夫・ワキ師と称された能役者の氏名は一人も確認することが出来ません(名前を変えている可能性は残ります)。また、甲府藩の分限帳に記載されていた「斎藤与右衛門」は、幕末まで武鑑に継続して名前が見える斎藤与右衛門とは同姓同名の別人と見てよさそうです。何故なら、幕府お抱えの身分のままで例え徳川一族の大名であっても二重に俸禄を頂くことは敵わなかったはずだと思うからです。

今回、喜多流の家元が歩んだ苦難の連続を紹介しましたが、これは能という芸能が江戸に入って徳川体制の「式楽」に取り込まれた結果、能役者たちが否応なく「武士」の身分を与えられ、幕府の厳しい時には理不尽な締め付けを余儀なくされ、皆、謂わば「金縛り」の状態で日々の生活を送らねばならなかったと言っても良いでしょう。このような宗家の悲惨な歴史の事実を寛政の斎藤十郎兵衛が知りえなかったとは思えません。彼は名人と謳われた初代七大夫を始め、何代もの家元たちがそれこそ命がけで伝えた喜多流の伝統よりも、流行りの似顔絵を描くことに生き甲斐を感じていたのでしょうか。将軍家宣の側近には、もう一人能の世界と深い関わりのあった人物がいたのですが、そのお話はまた別の機会にご紹介したいと思います。

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