等彌神社の神宝(土偶)は宇宙人なのか?                      サイトの歩き方」も参照してください。

地下鉄か私鉄の吊り広告で、好きな作家の一人であった開高健(かいこう・たけし,1930〜1989)が、娯楽雑誌で『オーパ』という新連載(昭和53年2月〜9月)を始めると知った時「おぉ、遂に開高のおっさんも、デニケンの向こうを張って宇宙や超古代まで守備範囲を広げたな」と早合点したものですが、若い方は勿論、多くの方が首を傾げかねない書き様ですので、注釈を入れます。

スイス人の作家で実業家のエーリッヒ・フォン・デニケン(1935〜)が『未来の記憶(神々の戦車)』という著書で、かつて大昔に地球を訪れた宇宙人が存在し、今、我々が「オーパーツ」と呼んで不思議がっている物も、それらは全て超古代に来訪した「神々=宇宙人」の遺産なのだ、と大風呂敷を広げたのは1968年のことで、一部の好事家の間で静かなブームになったものでした。スティーブン・スピルバーグ(1946〜)の『未知との遭遇』がコロムビア映画から配給、公開されたのは丁度10年後の昭和53年2月のことで、それも重なり上の勘違いに繋がる訳です。ナスカの地上絵も、最新の研究では明らかに人間さまが意図的に作り出したものだとの判断に傾いているようですが、その時代にあるはずがない「場違いな加工品」を総称して「オーパーツ・OOPARTS」と云いますが、アステカの水晶ドクロ・コロンビアの飛行機・パレンケの石棺レリーフそしてピリ・レイスの南極地図など、その気になって眺めてみるとフムフムと肯きたくもなるのです。勿論、開高が綴ったエッセイは、これら神秘の扉の彼方に暮れなずむ事象とは全く無縁のルポルタージュで、二ヶ月以上アマゾンに滞在し、一心不乱に釣り続けたドキュメントを写真と共に発表した紀行文だったのです。

OOPARTS=寛政六年五月五日、江戸河原崎座で『御曳花愛敬曽我』という興行が『恋女房染分手綱』の外題で催されました。浮世絵師・東洲斎写楽が描いた主人公のほとんどが歌舞伎役者たちですが、この時、竹村定之進を演じた五代目市川団十郎が下にある画像です。オーパーツとは聞きなれない言葉だと思いますが、例えば、写楽の描いた役者の手元に携帯電話の様な器具やノートパソコンにも見えるディスプレイが置いてあった場合、それらの機器は、その時代の科学技術では、到底造り得ないものです。従って、それらは『場違いな加工品』の一例として取り上げられることになる訳です。これまでにも多くの事物が俎上にのぼりましたが、多くは「誤解」ないしは「曲解」によるものだとする見方が支配的です。

箸墓古墳の被葬者は?   市川蝦蔵の定之進  PR 

閑話休題、いつもいつも、小難しい事柄について、重箱の隅をつつくような事ばかり書いていますので、今回は、ぐっと砕けて?みたいと思います。近頃、何かと話題に上ることが多い、奈良巻向遺跡ですが、先日も箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫大市墓)の周辺調査をした結果、内濠(10m)よりも数段広い外濠(50m以上)を持つ、二重濠構造であったことが地元の教育委員会から発表されています(平成21年9月)。古墳の周りに、二重の濠を廻らせる構造が一般的になるのは「四世紀末」以降だとされていますから、一世紀以上も前、箸墓古墳に葬られた人物は「別格」の存在だった証しではないか、と言うわけです。何より、記紀が「ハツクニシラス」の諡号を奉っている第10代崇神天皇の陵墓に比定されている天理市柳本の行燈山古墳(山辺道勾岡上陵、四世紀前半,墳長242m)でさえ濠は一重で狭いものですから、箸墓の重要性が一段と明確になったようです。(大神神社の北に在る大市墓、景行陵そして崇神陵の古墳は、何れも同じ平面設計によって築造されています。同じ土木技術集団が築造した可能性が高い)

今回のお話の舞台になる等彌神社(とみじんじゃ)は、その箸墓からほぼ南に約四キロほど下った桜井市大字桜井に鎮座しているお社で、神社の案内書によれば、

  神武天皇が即位後、四年春二月に鳥見の山に霊畤を建てた

のが、そもそもの始まりである、との事なのですが、記紀神話を少しでも読んだ経験のある読者であれば「とみ」の名前に見覚え聞き覚えがあるに違いありません。良く知られているように神武帝は塩土老翁(しおつつのをじ)に勧められ『舟師を帥いて東を征』つ目的で河内国の日下邑(くさかむら)白肩から生駒山を越えて「中洲(うちつくに)」に入ろうとした折、強敵に遭遇します。皇師が連戦しても中々勝てなかった人物の名を書紀は「長髓彦」と記し、彼が神武に先駆けて「天より降った」櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ)の妻・三炊屋媛(又の名は長髓媛、鳥見屋媛)の兄だと記録していますが、古事記は同じ場面を、

  その国より上り行でましし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき。この時、登美能那賀須泥毘古、軍を興して待ち
  向へて戦ひき。(中略)今に日下の蓼津という。是に登見毘古と戦ひたまひし時、五瀬命、御手に痛矢串を負ひたまひき。

と記述しています。更に書紀は「金鵄」の条において『長髓は、是、邑の本の号なり。因りて亦以って人の名とす。皇軍の瑞を得るに及りて、時人よりて鵄邑と号く。今、鳥見と言うは、是、訛れるなり』とわざわざ説明文まで添えていますが、何れにせよ、後からやってきた神武に強く抵抗する勢力が相当存在したのでしょう。唯、それが書紀の言うような「長髓」一族だったのか、或いは古事記の伝える「登美」一族であったのか判断に苦しむ所ですが、ニギハヤヒを祖先と仰ぎ、ヤマトに先住した多くの勢力が在ったと考えるのが順当な処かも知れません。いつも資料として用いている「新撰姓氏録」に記録されている登美連(速日命の六世孫、伊香我色乎命の後)などが、その代表格の候補として上げられるでしょう。また、記紀の微妙な書き方に注目するなら神武が戦った相手は「一人」の「長髓彦」、「一人」の「登美彦」ではなく、複数の、もっと云えば「多くの何々彦」たちであり、その中で最も有力だったのが「長髓彦」と「登美彦」だったのではないかと想像されます。(国譲り神話を参考にするなら「長髓彦」の「長(ナガ)」を一族の称号と見なして、大奈牟智神の児、積羽八重事代主の後とする『長公(ながのきみ)』などの先祖を想定してみるのも面白いでしょう。また長髓彦、登美毘古との戦いの間には時間的な隔たりがあったと考えることも十分可能です。更に「続日本紀」が記録している雄略帝による高鴨神の土佐追放の話も新旧勢力の交代劇を暗示している様に思えます)

上津尾社  下津尾社  土偶(レプリカ)

少し回り道をしましたが「鳥見山」の麓にある等彌神社(上の画像)は天照大神や春日神ではなく、本来、登美連たちの祖とされる伊香我色乎命・ニギハヤヒをお祀りしていた社だったはずですが、権力の移ろいに従って祭神も替わり、天永三年(1112)の豪雨による山崩れのため、鳥見山中から社殿も山麓に移さざるを得なかったと言います。「桜井市史」によれば、何とも奇妙な土偶が、

  元文元年(1736)下津尾社の敷地内にある磐余の松の枯れ株の下から掘り出され

ました。桜井市教育委員会によれば神社のすぐ南側には河西居城遺跡があり、昭和14年には縄文土器が出土しているそうなので、古来、人々が生活を営んできた土地柄であることは間違いありません。しかし、この土偶、確かに人の形をしていますが、到底、このクニの人とも思えない風貌、皆さんの眼にはどの様に映るのでしょう。神社の関係者によると、発見されて間もなく「ご神体」として本殿に納められ、一般に公開される予定は無いとのことです。果たして、その正体は誰なのでしょう?神社では「ヤタガラス」を表わしたものだと解釈しているようですが、そう言われて見ると顔の造りが何となく鳥、カラス天狗のようにも見えてきます。でも、腰には大きめのバックル状の物が…、やっぱり宇宙人なのかも。

   
     
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼