葛飾嶋俣のトラさんと蘇我氏の関わり                     サイトの歩き方」も参照してください。

平成十三年夏、東京葛飾にある柴又八幡神社古墳から人物埴輪三点が出土、その内の一点(下中央の画像)が著名人に似ていたことからマスコミも取り上げ、取り分け地元では大いに盛り上がったのだとか!管理人たちの世代がテレビに噛り付いていた昭和30年代の後半、某局の人気番組であった『夢で逢いましょう』に出演、独特の風貌と巧みな演技力で多くのファンを魅了した渥美清(田所康男、1928〜1996)が主役を演じた『男はつらいよ』。彼が正に命がけで役作りに臨んだ「フーテンの寅」さんを知らない方はきっと稀なことでしょう。それにしても古代人は、なかなか粋な帽子を被っていたものです。(専門家たちの分類によると男子で帽子を被っているのは当時の『正装』なのだそうです。ひょっとしたら、この古墳の主或いは近しい人に似せてあるのかも…)

出土状況  柴又のトラさん? お嫁さん!

このページで紹介している柴又八幡神社古墳から出土した埴輪の画像は全て葛飾区郷土と天文の博物館から提供されたものです。同館の許可無く勝手に転載することは出来ません。

横穴式の石室を伴う同古墳は六世紀後半に築造されたもので、下総と武蔵を結ぶ地域を治めていた実力者の墳墓ではないかと思われますが、少し時代が下った奈良時代の資料から、その実像の一端を窺うことが出来そうです。東京大学資料編纂所が収蔵している「正倉院文書」には、養老五年(721)に作成された『下総国葛飾郡大嶋郷戸籍』(郷は[甲和里、仲村里、嶋俣里]の三つの里で構成される)が含まれているのですが、全郡人口1,191人中612人分の名前や年齢、続き柄などの個人情報が記録されており、そのうち85%に相当する人々の「氏」が「孔王部(あなほべ)」だったのです。孔王部(穴穂部)については雄略紀十九年三月条に『詔して穴穂部を置きたまう』とありますから、子供も無く若くして亡くなった安康帝の家族(后たち)のために設けられた名代に相当する帝室の直轄地だと考えられ、その「部」に属していた住民すべてが、天智から持統朝の間に進められた戸籍による管理の徹底の過程で、もともと中央から派遣されたであろう地域管理者の「部名」を、そのまま自分達の「氏名(うじな)」にしたのだと思われます。ただ、そもそも六世紀初め頃、既に名代を基盤とした部民の制度が機能していたのか?という点を疑問視する向きもあるのですが、島根県松江市の岡田山一号墳(6世紀半ば)から出土した太刀に『額田部(ぬかたべ)臣』の文字が認められていますから、応神帝と高城入姫との間に産まれた額田大中彦皇子の時代(5世紀?)から名代に相当する領地が各地に点在していた可能性は十分あります。また欽明紀二十二年条には、外交接待役として額田部連という人物の名も記録されています。(オノコロ・シリーズの常連の一人でもある継体帝は、自分の祖先を応神に求めていますが、管理人は、その子息[若沼毛二俣王、額田大中彦]たちの世代から王たちの財産としての名代があり後世まで受け継がれたと考えています。又「名代」という表現は、大王になってから或いは大王の子として生まれてから後に『得た』土地という意味合いに取られ勝ちですが、その一族が元々所有していた土地が、大王となった為、記念して「後から」その名を冠したとも考えられます)

さて通説によれば蘇我稲目(506?〜570)という人物は、継体帝(450?〜531)の擁立には大して貢献しなかったものの、尾張系の宣化帝(467〜539)の世に大臣(おおおみ)に抜擢され、継体と皇后・手白香皇女との間に産まれた嫡男・欽明(509〜571)の時代には大いに躍進、己の娘たちを大王妃として輿入れさせ「大王の外戚」となることで権力の中枢に駆け登り、遂には子孫が大王の位を窺うまでになった稀代の「傑物」だとされてきましたが、その出自については渡来系とするものや豪族葛城氏の流れを汲むとする見方などがあり定かではありません。ただ言えることは、蘇我氏自体が六世紀の半ばになってから歴史の表舞台に登場した「新参者」であり、欽明朝に貢献したとは言え物部氏や大伴氏のような「実力(武力)」を備えていた訳でもなさそうなのです。そこで素朴な疑問が生じます。成り上がり者と言っても良い稲目の娘・小姉君の子供たちに、何故「穴穂部皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子」の諱が付けられているのでしょうか?また同様に堅塩媛の子供である推古帝の諱が「額田部皇女」なのでしょうか?帝室の「財産」の核とも言うべきものが生産手段としての土地と人員であった時代、昨日今日「大臣」に取り立てられた素性も明らかでない(明らかに出来ない)者の娘が産んだ子供に、いきなり先祖代々守り続けた土地の所有権を与えてしまうものでしょうか?!欽明には宣化の娘・石姫という暦とした皇后が居ましたが、彼女の子供に「部」を冠した名前を持つ者はいません、また、他二人の妃の子供たちも同様です。つまり、継体の孫であり第30代の大王となった敏達の母親が生んだ、直系の子孫たち全てを差し置いて「蘇我氏」の血を引く孫達にのみ「部」が受け継がれた(正しくは、その『部』を管理する者が養育に当たった)という事実は、一体何を意味していると考えれば良いのでしょう!「日本書紀」は欽明帝の子供達を列記した後、

  帝王本紀に、さわに古き字ども有りて、選集むる人、しばしば遷りかわることを経たり。後の人、習い読むとき、
  意をもって刊りあらたむ。伝え写すこと既に多にして、遂に違い迷うことを致す。前後次を失いて、兄弟参差なり。
  今、即ち古今を考えあなぐりて、その真正に帰す。一往識り難きをば、しばらく一つに依りて撰びて、その異なることを註詳す。

と態々言わずもがなの「言い訳」を書き加えています。紀を編集した人たちにも当然何らかの「意(考え)」があり、それを「もって」改めたのですから、蘇我氏系の孫たちの「名」を他の適当な文言(例えば飛鳥近くの地名や山川の名前など)に差し替えることも容易だったはず。彼等が敢えて、そうしなかった背景には、八世紀初頭の時点で尚、蘇我氏出身の娘が産んだとされる子女の諱が、未だ強く人々の脳裏に残っていた事情が横たわっていたと考えることも出来そうです。

闘鶏野神社  闘鶏山古墳の内部  正装した埴輪 PR

余り有名な神社ではありませんが、大阪高槻に闘鶏野(つげの)神社という珍しい名前の社があります。直ぐ近くには四世紀のものと推定される闘鶏山古墳があり、そこで未盗掘の石棺などが発見されたこともあって注目を集めたのですが、その祭神の顔ぶれがちょっと変わっています。摂津三嶋という土地柄、天照大神・応神・神功皇后そして藤原氏に因んで天児屋根命までは何となく分かるのですが、問題は後の二柱「仁徳天皇と額田大中彦皇子」です。天皇と皇子は系譜上、母親の異なる兄弟なのですが、書紀の仁徳六十二年条によると、

  この歳、額田大中彦皇子、闘鶏に狩りしたまう。時に皇子、山の上より望りて、野の中を見たまうに、物あり。
  その形、廬のごとし。すなわち使者を遣わして視しむ。還り来て申さく「窟(むろ)なり」と申す。因りて闘鶏稲置大山主を召して、
  問いて曰わく「彼の野の中に有るは、何の窟ぞ」とのたまう。啓して曰さく「氷室なり」と申す。(中略)
  皇子、すなわち其の氷を持て来て天皇に奉る。天皇、喜びたまう。

とあって「偶々」狩りに来ていた皇子が山郷で「氷」を貯蔵している室を「発見」したことになっているのですが、実際には大和国都祁を地盤としていた豪族の「闘鶏」稲置が服従の証しとして毎年、大王家へ氷を納めていたのでしょう。また、この「闘鶏」の主ですが、五世紀の大和では中々「有名」人物だったようで、仁徳の息子に嫁いだ息長家の惣領娘・忍坂大中姫との間でも問題を引き起こしていたことが允恭紀二年条に記されています。ところで三嶋の氷室に鎮座している社がどうして「闘鶏」の名前を冠したのかという疑問ですが、どうやら後の付会と考えた方が良さそうです。ただ土地の人びとの感覚として、応神と神功を頂点とし、その息子たち(仁徳、額田大中彦皇子、若沼毛二俣王)に関連した多くの伝承は単なる「神話」以上の存在感をもって受け止められていたと想像されるのです。

十世紀に入り二十年ほどの歳月をかけて完成した『延喜式』の巻四十には宮内省に属し、宮中で使用する飲み水、醤、粥そして氷室などを管理する「主水司(もいとりのつかさ)」に関する細則が記され、その中に、

  氷池風神九所祭  山城国五所、大和国一所、河内国一所、近江国一所、丹波国一所

とあり『若し温かい年で氷溝が出来にくいようであれば』所ごとに『五色の薄あしぎぬ、米、酒、海草、雑魚』などを供えて神様にお願いしなさいと規定されているのですが、ここに「摂津国」の氷池風神は含まれていません。ただ「主水司式」には氷池神十九座祭が毎年十一月に執り行われることが明記されており『日本紀略』天長八年八月二十日条には『山城国、河内国おのおの氷室三宇を加えて置く』の記述もありますから、摂津三嶋にも新たに氷室が設けられたと思われます。字(あざな)の「氷室」と継体陵の存在そして三嶋の地で語り継がれた様々の伝承を、日本書紀が伝える応神皇子と闘鶏伝説に結びつけた利口者がきっと何処かに居たのでしょう。

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