鳥居そして神社のある風景、遷宮の年に因んで                                             「サイトの歩き方」も参照してください。

平成二十五年(2013)は伊勢神宮と出雲大社の二つの社で遷宮が行われました。お伊勢さんのアマテラスと大社さんのオオクニヌシは、記紀の国譲り神話では相争った犬猿の間柄という事になっていますが、このサイトの管理人の推理によれば「オオクニヌシの実像は天津彦根命」と云う解釈なので、実は親戚同士という事になるのです、それはさておき。古代においては鳥が人の霊魂を運ぶ、そんな素朴な信仰のようなものが在ったのだと言います。良く知られているヤマトタケルの白鳥伝説も、皇子の強い思いが鳥となって羽ばたき「まほろば」の故郷に辿りついた主題が語られています。また、物語のテーマは異なりますが、ヤマト王朝の基盤を築いた大王の一人とされる垂仁帝の息子・ホムツワケは事情があって言葉が不自由だったのですが、ある日、空高く飛翔する大きな鵠(クグイ=白鳥)を見た折に片言を発するようになり、その鳥を捕え献上した豪族(鳥取氏)が大いに大王から褒められたという伝承も残されています。更に、神々の世界の出来事を記した記紀などにも鳥に関わる記述は決して少なくありません。有名なのはアマテラスが天の岩屋戸に閉じこもった時、天安の河原に集った神々が「常世の長鳴鳥(鶏)」を岩屋の前で鳴かせた一場面でしょうか!また、天津彦根命の別名ではないかと思われる天若日子が高木神の「返し矢」で命を落とした時にも「河鳫」など多くの鳥が葬儀の場面で詳細に描かれています(下の文参照。下照姫[亦の名、高姫]は味耜高彦根命の妹です)。

 故、天若日子の妻、下照比売の哭く声、風の與響きて天に到りき。ここに天在る天若日子の父、天津国玉神また其の妻子聞きて、降り来て哭き悲しみて、すなわち其処に喪 屋を作りて、河鳫を岐佐理持とし、を掃持とし、翠鳥を御食人とし、を碓女とし、を哭女とし、かく行い定めて、日八日夜八夜を遊びき。「古事記」天若日子の段より。

神社という大がかりな神様の住いである社よりも、遥か以前から「鳥居」のような構造を持った木造物が集落や家屋と外界との境に設置されていたと考えられ、弥生時代や古墳時代の遺構から「柱と鳥形」が同時に発掘される例も見受けられます。奈良の纏向遺跡から出土した朱塗りの鳥形などはその一例ですが、古墳の主体埋葬部の辺りに多くの柱を建てた例(奈良・桜井茶臼山古墳)もありますから、これなども鳥居(社)の原型の一つだと考えて良いのかも知れません。また、もっと単純に、大きな高い建物が存在しない古代において、大型の鳥が「止まる」のは巨木の枝などですから、霊魂を運ぶとされる鳥と樹木(柱)の組合せは古代人にとって見慣れた親しみやすい風景だったとも言えます。さて、筆者は全国に沢山ある神社の全てを訪ね歩いた訳ではなく、その内の極一部を訪れただけなので、以下の感想には偏りがあるかも知れません。その心算で読み進めてください。

纏向の鳥形  池上曾根の鳥形  大神神社

崇神帝がオオタタネコを探し出して神主としたと伝えられる大三輪の社には「本殿」に相当する建物は無く、聳え立つ三輪山自体がご神体であるとされていますが、アマテラスのような国家を体現する神様が示現する前、人々は山野に海、空そのものに、また草木河川巨石などにも神々が宿るものだと敬い、自然を畏れる感情を大切にしました。そのような心の世界が広がりを持つ一方、農耕を主体とした定住生活が進む中、人々は血縁地縁で強く結ばれた時に排他的な集団を形作って行きます。黒沢明監督の『七人の侍』が雇われた農民集落と各地で発掘される弥生の環濠集落を同じ次元で語ることは出来ませんが、古代に暮らす人々の社会にも、明らかに「敵対する」あるいは「攻撃を受ける」可能性を持つ外部勢力は少なからず顕在していたと考えられます。言葉を変えれば自我に目覚めた時に屹立する「他者」が忽ち出現するのです…。何やら文章が小難しくなってきましたので転調しましょう。要するに神様の社に鳥居が建てられるよりもずっと前から、人々は「自分たち」と「そうではないモノたち」の世界を区切る境界を意識していたという訳です(ずっと時代は下りますが、道祖神の原始的な形態と考えることも出来ます)。外部から入ろうとする「邪悪なもの」例えば誰彼の区別なく住民全体に襲い掛かる疫病は、集落の外縁から直ちに撃退しなければなりません。また、穀物自体の生育に大きく関係する「旱(ひでり)」や洪水などの厄災から是非とも耕作地を守る必要があるのです。

琵琶湖の東岸、野洲には、このオノコロ・シリーズで何度も取り上げてきた御上神社が鎮座しています。祭神は言うまでも無く天津彦根命の子、天御影命(天目一箇神)なのですが、この社の場合も元々の御神体は三上山そのものであった可能性が高く、かつて祭神が「天降った」山そのものをお祀りしていたと同社では伝えています。全国に広く存在している山口神社は山の麓を守る神様の社だと云うことですが、巨木は海を主な交通路としていた古代海人にとって大変貴重な資材でもありますし、また、様々な鉱石などを求めて各地の山中深く分け入り金属加工の原料を入手した鍛治師たちにとっても鉱脈をはらんだ谷筋山塊は宝そのものでしたから、山々に住むであろう神々を祀る社がヤマトに限らず様々な土地に建立されたのも当然の成り行きでした。神社へ詣でる目的は色々とあるのでしょうが、筆者などは主に、その社の佇まい全体の雰囲気、建てられている環境などを直接自分の眼と肌で感じ取ることに重きを置いています。だから、個々の建物などの説明を社の関係者に尋ねることは殆どありませんが、息長氏の消息を求めて大阪河内の科長神社に詣でた時、軽トラから農機具を下している人物にたまたま遭遇、その人が神職だったため色々な話を聞く事が出来ました。『祭礼の折に船型の山車を境内に乗り入れるため、当社の鳥居は高く造られています』そう語る口ぶりに、何やら誇らしげな語気を感じて思わず微笑んだものでした。材質も大きさも形も異なる様々な鳥居、その幾つかを以下で紹介してみます(一番下の段、右の画像は明治期に写された伊勢神宮です)。

熊野大社  科長神社  大兵主神社  生石神社

兵主大社  御上神社 

湊川神社  鏡作坐天照御魂神社 

神社によっては広い神域を持つものが珍しくありません。その様な社では、神様のための拝殿や本殿に辿りつくまでには幾つもの鳥居を潜り抜けなければなりません。一の鳥居、二の鳥居そして三の鳥居など……、気が付くと、いつの間にか自分の前に橋が横たわっていることに気づきます。お伊勢さんと足並みを揃えて今年遷宮の式典を執り行った出雲大社の古い絵図を見ると、中の鳥居の直ぐ前に「祓橋」が掛けられていることが分かります(一番下の段の画像参照)。社の西北に源を発する素鵞川が南に下り、更に東を流れる吉野川と合流するように川筋が造られており、正面北に本殿を望む位置に「祓(はらえ)」を終えて清らかな心身でお参りするための「橋」が設えられている訳です。このような「神様の世界へ渡るための橋」は拝殿の入り口近くに掛っている場合が多いのですが、熊野本宮大社なども明治の大洪水で建物が幾つも流失するまでは、二つの川に挟まれた中州のような土地に社が建てられ、人々は正に「橋」を渡ってお参りするのが日常だったのです。それも江戸期までは橋が無かったため参拝する者は素足で渡ったと伝えられています(上で紹介している高さおよそ34mの大鳥居は、元々社殿の在った大斎原に在るものです)。

神社は必ずしも山裾の沢が流れる場所だけに建てられている訳ではありません。急な坂を登りきったような高地に建てられた社もあり、一方では周囲がすべて耕作地あるいは住宅地のような平地に社殿が鎮座していることもあります。山中であれば小さなせせらぎが川を象徴しています。或いは境内に池を拵えて人工的ではありますが湖、海がそこに在るかのような工夫で「水」の世界を表現することもあります。更に、平地でしかも近くに自然の河川が存在しない場所では、神社を囲むように濠が造られ、そこへ大切な水を引き込む造作を施している例も稀ではありません。オノコロ島は水に恵まれた世界でも珍しい国だと良く言われていますが、弥生時代以降二千年にもわたる農耕を主体とした生活が可能であったのも、土地を潤す無数の河川が存在していたお蔭なのかも知れません。「平地型」としては多坐弥志理都彦神社、鏡作坐天照御魂神社そして内神社などの社を上げることが出来ますが、何れも「古い」神様が祀られています。「新しい」神様の社である石清水(男山)八幡神社や朱智神社などが山中の奥まった所に建てられているのとは対照的です。自らの氏神様を出来る限り深遠な存在として演出した結果なのかも知れません。

石清水八幡神社   高鴨神社

人は水無くして生を長らえることは出来ません。神々の世界は我々人間界とは異なるはずですが、聖なる泉(真名井)は尊いものだと意識されていたのでしょう。井戸の神様は今でも多くの神社で大切に祀られています。鉄の農具が普及するまで田畑を耕す手段は木製の鋤や鍬しかありませんでした。だから、今のような堅い土に覆われた土地ではなく、常に水気を多く含んだ「柔らかい湿地」が農耕の中心であったとも謂われます。そこには多くの水鳥たちが集い、大型の鳥たちの格好の餌場だったに違いありません。ヤマトの開拓者であろう味耜高彦根命に連なる神々の後裔に「鴨」の名を冠した氏族が居て当然です。

長田神社  等彌神社  内神社

伏見稲荷大社  多神社  坐摩神社

生田神社  出雲大社  出雲大社吉野川

出雲大社の参道は比較的長い方だと思いますが、その道筋に緩やかな降り勾配が付けられている所があります。それを「下り参道」と云うのだそうですが、近畿の古墳、石室を幾つも見てきた筆者には、羨道と呼ばれる埋葬主体部へ斜めに下る構造をもった一部の古墳を思い出させます。それは恐らく黄泉の国を訪ねて妻の変わり果てた姿に驚いたというイザナギに関する古事記神話の記憶が脳裏の何処かにあって、何度か目の当たりにした古墳の情景と融合したせいなのかも知れません。天孫に国を譲り天日隅宮に「隠れた」オオクニヌシは大社さんの本殿で「西」を向いて端坐されているそうです。出雲では旧暦十月を「神在月(かみありづき)」と呼びます。全国に鎮座されている八百万の神々がオオクニヌシの宮に集まり、来るべき新たな年の「縁結び」について話し合いが行われるのです。大社さんには、神様たちの宿泊施設として「十九社」が二棟用意されています。読者の皆さんにとって良い御縁がありますように!

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