西の京と呼ばれる一角に、塔のある寺院が並んでいる。元、斑鳩寺(いかるがてら)と称した法隆寺、そして法起寺、法輪寺である。まだ二十歳そこそこだった管理人が、この地を、お寺を巡るようになったのは、下宿先に比較的近かったこともありますが、その頃、すでに有名であった写真家の作品群に知らず知らず影響されていたのかも知れません。とにかく法隆寺には、よく出かけました。そしてモノクロ写真を撮り続けたものです。ただ、下手の横好きというやつなので、撮っても撮っても満足の行く画像に出会うことはなかったのですが…。
西円堂の方角から見た五重の塔・法隆寺 


南大門と仁王様
法隆寺がとりわけ「聖徳太子」と縁の深いお寺であることは皆さんも良くご存知のことと思いますが、同寺の「法隆寺略縁起」は寺の創建に関して次のように述べています。
創建の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背名や「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」(747)の
縁起文によって知ることができます。それによりますと……
推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、
推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺である、と伝えています。
この「略縁起」を読む限りでは「607年」という年に法隆寺(もともとの名は斑鳩寺[いかるがでら])が建てられたことが歴史的にも確実なように思えてしまうのですが、事は、そう簡単ではありません。なにしろ「太子」にまつわるお話しには「謎」がつきものなのです。と云うのも、いつも引き合いにだす国史「日本書紀」に法隆寺創建の記事が見当たらず、焼失と再建の記録しか残されていないからです。先ず「書紀」は焼失について、670年(天智九年)4月30日の項で、
法隆寺に災けり、一屋も余ることなし
と伝えた後、和銅年間(708〜714)に、もう一度、
法隆寺を造る
と書き記しているのです。「書紀」の記述内容に全幅の信頼が置けないことは、これまでもオノコロ・シリーズで度々見てきた通りなのですが、一応、上記の記録が正しいとするならば、
推古15年に創建された法隆寺は、670年に焼失し、和銅年間に再建された
ことになるのですが…、最近になり二十一世紀の新技術が更に厄介な「謎」を投げかけました。考古学の分野を中心に急速に注目を浴びてきた科学的手法の一つに「年輪年代測定法」があります。実は、法隆寺では昭和二十年代に行った解体修理の際、塔の柱の最も腐食が進んだ根元部分約4.5メートルを取り出し京都大学に保管を依頼していました。その芯柱の「標本」を2001年2月になってから「年輪年代法」と呼ばれる方法で測定したところ、その柱は、
西暦594年に伐採された
ヒノキであったことが明らかになったのです。これは一体、何を意味しているのでしょう?明治以降学会を二分して論じられてきた法隆寺の「再建・非再建」問題は1939年、現在の伽藍がある場所の南東部に「火災に遭遇したと推測される伽藍跡(若草伽藍)」が発見され、一応の終止符が打たれていたのですが、その「再建」されたはずの塔に、一世紀以上も前に伐採されていた木材が使われていたことになり、これまで議論の余地がないと考えられてきた「再建論」に黄信号が点滅し始めたと云えそうです。「再建」論の見直しにつながる材料はもう一つあります。それは2004年7月に奈良文化財研究所が発表した「年輪年代法」による測定の結果で、現在の西院伽藍(法隆寺)の金堂に使用されている木材が、
「焼失」以前の668〜669年頃に伐採された
ものである、という研究成果です。また、これとは別に、若草伽藍跡の溝跡から建物に描かれていた壁画の破片が多数(約60点)みつかり、いずれも1000度以上の「高熱」にさらされ変色している、つまり「焼け焦げている」事実が判明、創建・法隆寺の「焼失」も又、再度明確になったのです。では、これらの矛盾していると思われる法隆寺の「創建から再建までの経緯」を合理的に解釈することは不可能なのでしょうか?相当こんがらがってきましたので、いつもの「表」で整理してみます。
| 西暦年 | 日本書紀などの記述 | 年輪年代法による測定結果 | 西暦年 | 日本書紀などの記述 |
| 594 | 諸臣連が競って仏舎を造った | 法隆寺・塔の芯柱が伐採された | 605 | 太子が斑鳩宮に移る |
| 607 | 推古天皇と太子が法隆寺を創建した | 622 | 太子、斑鳩宮で逝去 | |
| 643 | 山背大兄王一族が法隆寺・塔で自害 | 645 | 入鹿、板蓋宮で殺害される | |
| 668頃 | 法隆寺・金堂の材木が伐採された | 663 | 白村江の戦いに破れ、百済が滅亡 | |
| 670 | 法隆寺が火災に遭い全てを焼失 | 668 | 天智天皇が即位、 | |
| 710頃 | 和銅年間に法隆寺が再建された | 669 | 中臣鎌足、藤原の姓を賜る |
先ず、法隆寺が「再建」されたのかどうか、という基本的な問題についてですが、日本書紀が云う「一屋も余さず(全て)」は別としても太子の息子・山背大兄王(やましろおおえおう,?〜643)が蘇我入鹿(そが・いるか,?〜645)の軍勢に斑鳩宮(現在・夢殿がある東院伽藍付近とされる)を襲撃された時点で、既に何らかの「被災」があったことが容易に想像されます(「聖徳太子伝補けつ記」は[庚牛年四月三十日夜半、有災斑鳩寺]とのみ伝えている)。また「1,000度以上の高熱にさらされた壁画の破片」が若草伽藍の西側溝跡から多数発掘されているのですから、斑鳩寺が七世紀の中頃に「火災」によって被害を受けたことは確かだと思われます。(「書紀」のいうような「全焼」であれば、その遺構が発掘されて然るべきでしょう)そして、次は塔と金堂に使用されている材木の伐採年と、正史の記述との矛盾についてですが、問題点は複数あります。まず「塔」について、
「再建」を前提としても、何故、一世紀も前に伐採された木材を使用したのか
と云う疑問がありますが、これについては二つの可能性があります。先ず、一つ目の可能性は、
600年頃「諸臣たちが競って仏舎を造った」(「先代旧事本紀」「日本書紀」)
の記事から明らかなように、六世紀末頃から七世紀にかけての時期、各有力豪族たち(諸臣連たち)は『君親の恩に報いるため』まるで競い合うように「仏舎」(寺)を建てたことが分っています。問題の「木材(芯柱)」も、この時期に山から切り出されたのでしょう。そして何らかの理由により「長期間使われずに置いておかれた」とする見方です。この場合、更に二つのケースが想定されます。それは、
@ 創建時に使われていたものが焼け残り、一旦、放置された後、再建時に再利用された
A 創建時には使われず、一世紀余り放置されていたが、再建にあたり利用された
との考えなのですが、普通、常識的に考えて大切な木材を「一世紀以上」の期間、どこかで保管しておくのは不自然です。そうすると@の考えが妥当に思えるのですが、建築様式の面から見ても「再利用」説に説得力があります。それは、かつて非再建説の論拠にもなっていた事実で、法隆寺の
塔、金堂は大化改新(645年)以前に用いられていた尺度(高麗尺)で設計されている
からに他なりません。つまり、一度「若草伽藍」に建てられていた斑鳩寺が、火災および別の何らかの理由により、一旦、解体された後、現在の位置に再建された、と考えることで色々な矛盾も解決するのです。ところが、この説も乗り越え難い欠点を持っています。と云うのも、現在「若草伽藍」跡地に置かれている「塔」心礎が、創建・法隆寺の物に間違いないとすれば、その石に彫られた「八角」の柱穴が、現在の五重塔のものよりも径の差し渡しが8センチ余りも小さいことから、創建時の塔は「三重」であり、問題の心柱は使われていなかったことになるからです。この場合、唯一の苦しい言い訳を探すとすれば、
心柱は斑鳩寺の五重塔のために用意されたが
途中で三重塔に変更されたため、使われずに保管されていた
と考えるしかありません。若し、この恣意的な想像(妄想?)が許されるとするならば、斑鳩寺の創建から再建までの経緯は、凡そ、次のようなものだったと考えられます。
@ 600年に近い頃、太子の斑鳩宮の造営と平行して斑鳩寺が創建された。
A 斑鳩寺は当初、五重塔を建てる計画であったが途中で設計が変更され、部材の一部が不要となった。
幸い斑鳩一体の地は太子妃・膳菩岐岐美郎女の父である膳臣の本拠地であったため、部材の管理も円滑に行われた。
B 太子の没後、643年蘇我入鹿に攻められた山背大兄王の一族が斑鳩寺の塔内で自害し、
王の子供である弓削王も狛法師によって斑鳩寺内で殺害された。
C 太子嫡男の一族が無残な最期を遂げた斑鳩寺をそのまま放置しておく訳にも行かず、建物が解体された。
権力中枢の意を受けた「書紀」は、この事実を糊塗する目的で「670年」寺全焼の記事を載せた。
D 厩戸皇子の死去から半世紀、皇子の「神聖化」が進む中、新しい「斑鳩寺=法隆寺」建立、
つまり「再建」の機運が盛り上がり、塔は、元もとの計画にあった五重とされ、保存してあった心柱が再利用された。
E 塔を除く建造物は、解体材料と新たに伐採された材木を併用して造営が続けられ、
「日本書紀」の編纂が始められる頃には、全ての伽藍が完成した。
斑鳩寺つまり創建・法隆寺が火災によって「全焼」したとする日本書紀の記述よりも、管理人が何者かの意図による「解体」の可能性を優先する理由は、
もともと厩戸皇子が作り上げた斑鳩寺が、豪族間の権力争奪の中で
厩戸皇子一族の悲惨な最期、悲劇を象徴する建物になったことは、
時の権力中枢にある者にとって極めて目障りな存在であった
に違いありません。特に膳妃の一族がこぞって「皇子」の遺徳を偲び手厚いお祀りを欠かさないことにある種の「嫌悪」さえ感じていたかも知れません。しかし、七世紀後半、事情は一変するのです。「日本書紀」が臆目もなく「良い人」だとする中臣氏の台頭です。蘇我蝦夷の言葉を借りて、入鹿のことを
はなはだ愚かにして、専ら悪しき業をなす
とこきおろしている「書紀」は、その記述の直後、皇極三年春の「神祇伯」叙任に続き、次のような美辞麗句を並べて藤原家の長を褒めちぎっています。
中臣鎌子連の意気(こころばえ)の高く優れて、容姿犯し難き
中臣鎌子連、人となり忠正(ただ)しくして、匡し済(すく)う心有り
「歯の浮くようなお世辞」とは、このような記事の事をいうのかも知れません。上の表でも明らかなように、670年という年は大きな節目に当たる年だったのです。入鹿暗殺から半世紀、蘇我氏は極悪人の烙印を押され、本来、入鹿一族と呼んでも差しさわりのない程、蘇我色の強かった「太子」だけが「聖徳」の名を被せられ、権力側の都合により「聖人」へと神格化されて行きます。そして何より、国史「日本書紀」は絶大な権力を手に入れた藤原氏(の影響力下にある人々)によって編まれて行くことになりました。私達は、彼等によって『記された』歴史しか知ることができなくなったのです。
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再建された法輪寺・三重塔。棟梁は西岡常一が務めた。
中宮寺
東院伽藍の中心的な建物・夢殿そして寄り添うように立てられている中宮寺のほぼ真北に法輪寺があります。このお寺の創建については二つの逸話が伝えられているのですが、その内の一つが、
「聖徳太子」の子・山背大兄王が、その子・由義王と共に太子の病気平癒のため建立した
と云うもので(「聖徳太子伝私記」引用の「寺家縁起」)、太子の嫡男一族が斑鳩寺内で壮絶な最後を遂げたとする「書紀」などの記録とも矛盾するものではありません。また、もう一つの「説」は、天智九年の斑鳩寺焼失の後、
百済開法師、圓明法師そして下氷新物の三人が合力して造寺した
とするもの。(「聖徳太子伝暦」「上宮聖徳太子伝補けつ記」)法輪寺では昭和25年に発掘調査を行っていますが、その結果、
法隆寺式の伽藍配置である事、金堂や講堂は旧位置のままであること
規模は法隆寺西伽藍の三分の二であること
などが明らかになり、重要文化財である飛鳥様式の「薬師如来坐像」と「虚空蔵菩薩立像」を伝えていることなどから、七世紀末頃までに寺の主な建物が出来上がっていたと考えられています。「聖徳太子」が飛鳥の里から三つの井戸をこの地に移したとされることから三井寺とも呼ばれる法輪寺の真東に建っているのが法起寺(ほうきじ)です。
落ち着いた雰囲気の法起寺
東院の夢殿
このお寺は推古14年(606)に「聖徳太子」が法華経を講説されたといわれる「岡本宮」を寺に改めたものだと伝えられ、法隆寺や中宮寺そして四天王寺などと共に「太子創建七ケ寺」の一つに数えられています。『法起寺の沿革』は、創建の由来について、
『聖徳太子伝私記』に記録する当時の三重塔にあった露盤銘によって判明する。
それによれば推古30年2月22日、太子は薨去に臨み、
長子の山背大兄王に宮殿を改めて寺とすることを遺命し、
その後、舒明10年(638)に福亮僧正が太子のために弥勒像と金堂を造立、
天武14年(685)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し慶雲三年(706)塔の露盤を造った
と説明しています。発掘調査の結果も前身建物の遺構を確認しており、塔を東に、西に金堂を配置する法隆寺とは左右対称の伽藍配置も明らかになり法起寺式伽藍配置と命名されています。また、国宝にも指定されている三重塔の、
初重の柱間の寸法は法隆寺五重塔の初重に等しく
二重は法隆寺の三重と、法起寺の三重は法隆寺の五重と同じ寸法
であることから、法隆寺の塔を参考にして建てられたものと考えられています。
凛々しい三重塔・法起寺。
さて、最後になりましたが、皆さんも、いつか斑鳩の里を訪れる機会がありましたら、法隆寺だけにとどまらず周辺にある、これらのお寺にも足を運んでみてください。著作権のかねあいで、このページではご紹介することが出来ませんが、特に、法輪寺さんにある幾つかの仏像からは、理屈を超えた不思議な存在感と安らぎを感じることでしょう。

法隆寺と斑鳩神社。