東大寺と柿本人麻呂の関係?                                           サイトの歩き方」も参照してください

東北や北海道から積雪最低気温の記録等が伝えられ、節分に因んだ各地の珍しい鬼追いの行事などの話題が一頻りTVの画面を賑わせた後、暫くすると関西方面では奈良東大寺の二月堂で行われる修二会(しゅにえ)が、春の風物詩として毎年の様にニュースに取り上げられますから、皆さんも東大寺の「お水取り」としてご存知のことでしょう。十世紀後半、美濃国司も務めた源為憲(みなもと・ためのり、?〜1011)が『口遊』の中で全国二番目に大きい(高い)建物(「和二」)であると紹介している東大寺大仏殿は聖武天皇(701〜756)の発願によるものですが、同寺の修二会は大仏さまが完成した天平勝宝四年(752)に始められ、平成の現在まで一度も途切れることなく受け継がれてきた伝統行事なのです。東大寺のホームページによれば、毎年、大仏建立に関わった有縁の人々の名を読み上げる『過去帳読誦』が三月五日、十二日の二度行われますが、過去帳には天皇、皇后、左右大臣、僧尼などに続けて、次のような人々の名も記されています。

  大仏師 国公麻呂    大鋳師 真国 高市真麿
  鋳  師 柿本男玉    大工 猪名部百世    小工 益田縄手

大仏殿  二月堂 

解説するまでもなく「大仏師」は東大寺の大仏鋳造の総責任者(造仏長官)なのですが、この「国(くに)」という苗字の人物は、西暦663年に百済から渡ってきた国滑富の孫に当たるとされる渡来系の優れた技術者で「続日本紀」によれば758年に「連(むらじ)」姓を賜り、767年2月には行幸した称徳天皇から従四位下の高位を授けられています(これは当時の大蔵卿と同じ位です)。今回の主人公である柿本男玉(かきもと・おたま)は高市連を名乗る先輩格の鋳造師と力を合わせて、大仏様を完成させた現場指揮者と思われるのですが、外従五位上授与を記録した続紀の文章でも、

  正六位上の柿本小玉(男玉)、従六位上の高市連真麻呂にそれぞれ外従五位上を授けた(天平勝宝元年12月27日条)

とあって何の「姓」も与えられていないようですから、明らかに「朝臣」「臣」の姓を持つ柿本氏とは別の家系に属する人物だと考えられます。ただ大鋳師の高市連(たかいち・むらじ)は鏡シリーズで何度も紹介をしてきた天津彦根命の三世孫・彦伊賀都命を祖とする一族で、古くから銅鉄などの金属生産加工に携わってきた集団の頭領だと見られますから、無姓の柿本氏も、当然、和邇氏や春日氏と何らかのつながりを持った技術者であったに違いありません。煩雑になることを承知の上で蛇足を付け加えるなら、この高市連は系譜上、

  天御影命−−意富伊我都命(額田部連の祖)−−彦伊賀都命(高市連の祖)−−(中略)−−国忍富命−−息長水依比売

の血脈を共有するとされ、謂うまでも無く「天御影命」は天目一箇神と同神とも伝えられる有数の鍛冶神であり「息長水依比売」は第九代開化帝の子息である日子坐王(彦坐命)の妃となって丹波道主命(垂仁皇后・日葉酢媛命の父親)、水穂真若王(近江、安直の祖)を産んで文字通り天津彦根命の系統と帝室の紐帯の役割を果たしています。そして、良く知られているように日子坐王という人物は和邇氏の袁祁都(オケツ)比売命と結ばれ山代之大筒木真若王(息長帯比売命・神功皇后の曽祖父)を儲けたとされていますから、彼を軸にして帝室・息長氏・和邇氏・三上氏(天津彦根命を祖と仰ぐ、凡河内氏、額田部氏、山代氏なども含む)などの古代の金属関連氏族が見事に収斂する訳なのです。

和邇氏は第五代孝昭帝の子孫を称し、その系図は、

  天足彦国押人命−−和邇日子押入命−−彦国姥津命−−彦国葺命−−大口納命−−難波根子武振熊命

と繋がり、神功皇后に味方して仲哀帝と大中姫との間に生まれていた忍熊王の軍勢を撃破したと伝えられる難波根子武振熊命(ナニワネコタケフルクマ)の子供の代に至って大きく@日触使主命・口子(和邇臣)、A大矢田宿禰、B米餅搗大使主命(タガネツキオオオミ)、C石持宿禰−−の四つの血筋に分岐します。その内の米餅搗大使主命の子供達の世代で和邇氏そのものが更に、

  @市河(春日臣、物部首−−布留宿禰)、A深目(春日和邇)、B八腹小事(大宅臣)、C人華(粟田氏、柿本氏、小野氏)

の四流に分かれたとされており、人麻呂の出たとされる柿本家(柿本臣)は、この四番目に相当する家系だと言う事になっているのです。尤も、武振熊命と息長帯比売命を「同じ世代」に生きた者として伝える「系図」の危うさには留意しなければなりませんが「日本書紀」垂仁三十九年冬十月条の五十瓊敷入彦命「剣一千口を作る」の本文に続く一書の中で、

  鍛名は河上を喚して、太刀一千口を作らしむる。(中略)その一千口の太刀をば、忍坂邑に蔵む。然して後に、忍坂より移して
  石上神宮に蔵む。この時に、神、乞わして言わく「春日臣の族、名は市河をして治めしよ」とのたまう。
  因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首(もののべ・おびと)が始祖なり。

と態々「註」の形で市河=物部首が武器庫の管理者として「神」から直に「指名」されたのだ、という伝承を公に日本書紀が採録している点に注目するなら、それぞれ「和邇」を名のる家々に血縁があったのかは不明にしても、応神朝よりも「以前」から金属生産や銅器、鉄器の供給で帝室を支える「和邇」を自称する「族(やから)」が複数存在していたことが容易に推察されます。また「新撰姓氏録」大和皇別に載せられた、

  柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男木事命、男市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、     
  布都努斯神社を石上御布瑠村の高庭の地に賀いたまう。市川臣を以て神主と為す。四世孫、額田臣、武蔵臣、斉明天皇の御世、          
  宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首ならびに神主首と号う。これによりて臣の姓を失ひ物部首と為れり。男正五位上日向、天武天皇の御世、       
  社地の名に依りて、布瑠宿禰(ふる・すくね)の姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。

と云う布留宿禰の項に在る一文によって「市川臣」が先の「市河」と同一人物だと推測出来ますから、元々、金属器の生産を受け持っていた氏族が武器そのものを神として「祀る」立場を与えられたことによって「もののべ」「おびと」を名乗ったのだと分かります。更に「姓」の授与剥奪が大王の専権事項であったことに思いをいたすなら、この文章は「宗我蝦夷大臣」が実質的に大王であった事を示唆しているのかも知れません。それはさておき、和邇の名の負う多くの氏族が持てる技術(によって作り出した資産)で、その時々の王室を支え、時には権力闘争の煽りを受けて存亡の危機に陥ることも度々であった事情が垣間見えます。時代は下りますが六世紀初頭、ヤマト朝の大王に迎え入れられた継体帝と息子達(安閑・宣化)がこぞって和邇一族の皇后を迎えている事実は、王権にとって同氏と結びつくことが即ち己の基盤をより確かなものにする術であった証しではないかと考えられます。

人麿神社  持統天皇  宗我都比古神社

蘇我氏四代を経て「乙巳の変(645年)」が勃発、天智・天武そして持統(645〜703)と移ろう政権の中枢で国史編纂の動きが胎動を始め、治世二年二月に藤原朝臣史(不比等)を「判事」に登用していた彼女は、五年(691)八月に至り、

  十八の氏に召して、その祖等(おやども)の墓記(おくつきのふみ)を上進

させています。その十八の氏族とは「大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、阿倍、佐伯、采女、穂積、安曇」であったとされ和邇春日氏も含まれています。この命を受けて全ての氏族が「上進」したのか今となっては知る術もありませんが、上で見たように「石上神宮」の伝承を通して和邇氏の「歴史」の一端が反映されたと判断されます。西暦702年遣唐使として混乱の最中にある大陸へ渡った粟田朝臣真人(?〜719)は、太宰帥を務め正三位にまで昇った「人華和邇」の出世頭で柿本氏とも同族、そして、ほぼ人麻呂と同世代を生きた人物のはずなのですが、日本書紀・続日本紀は同族の柿本人麻呂に関して何も語ろうとはしません。和銅元年四月に亡くなった柿本朝臣佐留こそ人麻呂の正体なのだとする「説」もありますが、彼は確かに粟田真人と一緒に天武朝において「小錦下」の位を授けられていますが、叙任の最高位は従四位下であって「大き三つの位」ではありませんから、別人と考えるべきでしょう。さて、今回の推理の旅で明らかになった事は、

  1 東大寺大仏の鋳造に関わった人物の中に柿本を名乗る者があった(柿本男玉)
  2 柿本氏は、大和に古くから地盤を有していた春日氏から分かれた一族であり、
  3 その春日氏も、大元を辿れば和邇(ワニ)氏の流れを汲む存在であった。
  4 春日氏の中には、武器の管理者更には、武神の祝い主を務める家系もあり、それが物部首(市河)と呼ばれた。
  5 市河たちの親が「米餅搗」と表記して「しとぎつき」或いは「タガネツキ」とも呼ばれていることから、和邇の家系が金属生産や加工に深く関与し
    たと考えられ、王家との何代にも亘る縁組は和邇春日の武力を恃んだものと推測され、
  6 無姓の柿本鋳師は勿論のこと、人麻呂や佐留そして天武・持統朝で大いに活躍した粟田真人も、何らかの形で金属(鉄に限らない)の生産や
    鉱山開発などの事業に関わっていたのではないかと思われる。

万葉集に収められた人麻呂の和歌の註文から、彼が四国や九州にまで足を伸ばしていることが分かって居ますが、これも「私」の旅行であったはずは無く、何かの目的で朝廷から派遣されていたに違いありません。藤原氏との二人三脚で国家の基盤固めを急いでいた持統帝は、

  山常庭  村山有等  取與呂布  天乃香具山  騰立  國見乎為者  2番

と祖父、舒明帝が「国見」を高らかに歌い上げ、

  高山波  雲根火雄男志等  耳梨與  相諍競伎  神代従  如此尓有良之  古昔母  然尓有許曽  虚蝉毛  嬬乎  相良思吉  13番

父、天智帝が「三山歌」に詠み込んだ霊山としての「香具山」「高山」を、

  春過而  夏来良之  白妙能  衣乾有  天之香来山(春過ぎて夏来るらし白栲の 衣干したり天の香来山)  28番

と如何にも「日常」風景の一コマでもあるようにさらりと表現していますが「香具山」が「高山」であり「カル(銅)」の山であったとするなら、彼女の視線の先には、霊山と共に国の富(権力)の根源である「鉱山」としての香具山が在ったと考えることが出来るでしょう。その女帝の極近くに在って、

  皇者  神二四座者  天雲之  雷之上尓  廬為流鴨(大君は神にしませば天雲の 雷の上に廬りせるかも)  235番

大王は「神様」とまで言い切った「歌聖」人麻呂の記録が何処にも見当たらず、数知れない伝説だけが独り歩きしている状況は、摩訶不思議と言うしかありません。東大寺の大仏を巡っては「百済」人脈が大いに関わり、大宰府を舞台にした「物語り」が幾つも見え隠れしているのですが、今回は八世紀初めに、どのような人々が国司(守)として地方行政を取り仕切っていたかを紹介するに留めます。(オノコロ・シリーズで御馴染みの名前もありますね。703年に伊予守となった百済王良虞は、皆さんのご想像通り、聖武帝に黄金九百両を献上した敬福の父親です)

 西暦 役 職 人  名 役  職 人  名  役 職 人  名  役 職 人  名  役 職 人  名
 702   長 門 守   三輪高市麻呂  大 宰 帥  石川朝臣麻呂   尾 張 守   多治比真人水守   伊 勢 守   佐伯宿禰石湯
 703  大 倭 守  大伴宿禰男人  武 蔵 守  引田朝臣祖父  下 総 守  上毛野朝臣男足  備 前 守  猪名真人石前  伊 予 守  百済王良虞 
 705  尾 張 守  大伴宿禰手拍   摂津大夫   美 努 王  伊 勢 守  当麻真人桜井  大 宰 帥  大伴宿禰安麻呂 
 706  越 後 守  猪名真人大村  大 倭 守  阿部朝臣真君  周 防 守  引田朝臣秋庭  三 河 守  坂合部三田麻呂  伊 勢 守   大 市 王

香久山の周辺  天香山神社

奈良の大仏様ほど有名ではありませんが、天下人となり「何でも一番」でないと気が済まなかった豊臣秀吉(1537〜1598)は京の都で大仏造営の事業を始めます。一端は完成したものの1596年の大地震で倒壊、間もなく太閤が亡くなり遺志を継いだ秀頼による再建も、失火による焼失もあって出来上がるまでに十数年の歳月を要しました。慶長十九年(1614)に至り、やっとお披露目がかなった「梵鐘」の「銘文」に徳川家康が言いがかりをつけたのが、京都・方広寺鐘銘事件と呼ばれるものです。国学者の本居宣長(1730〜1801)が『古事記伝』を書き終えた寛政十年七月、大轟音とともに大仏殿に落雷があり、京の大仏諸共に紅蓮の炎が全てを灰と化したそうです。ところで、京の大仏造りに一役買った銅を商う人物が居ました。その人の名前は蘇我理右衛門と言い、方広寺が建立された慶長年間に、独特の精錬技術である「南蛮吹き」という手法を開発して財を成した人でした。彼は河内国五条村(現在の東大阪市)で生まれ和泉国で育ったのだそうです。管理人としては蘇我氏の祖先が河内から移り住んだという宗我都比古神社の古伝、更には河内息長氏との縁を今一度探ってみたいのですが…、またの機会に譲ることといたします。

     
     
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは居なかった   邪馬台国と卑弥呼