角凝魂命スサノオと同一の神様なのか                       「サイトの歩き方」も参照してください。

石山本願寺との長い闘いの最中にあった織田信長(1534〜1582)は、天正五年(1577)三月二日、多数の武将を従え和泉国まで南下します。寺方を豊富な戦力(鉄砲)で支え続けてきた紀州の武装勢力雑賀衆の本拠地鎮圧を目的とした信長旗下の軍勢は、総数六万とも十万とも言われた規模にまで膨らんだらしいのですが、総大将の本陣は旧日根郡鳥取郷に在る若宮八幡宮の境内に置かれました。事前の懐柔策が実り相手方の一部が織田方に寝返り、雑賀衆の内部情報も少なからず得ていた戦いであったにも拘らず戦況は捗々しくなく、これといった戦果を挙げぬまま「鈴木孫一を始め七人の頭目」が揃って「降伏」文書(誓詞)を差し出したため、面目が保てた信長もこれを受け入れ僅か二十日余りで陣を払い京都に戻っています。その「雑賀征伐」の折、攻め手の本陣が設けられた八幡宮とは阪南市石田に鎮座する波太神社のことで、この社の主祭神は角凝魂命という珍しい名前の持ち主です。祭祀を専門とする古代氏族の一員である斎部氏は「神皇産霊尊−−角凝魂命−−伊佐布魂命−−天背男命−−天日鷲翔矢命」という系譜を伝えていますが、オノコロ・シリーズの読者は「鳥取」に縁の深い豪族が他にも居たことを覚えているはずです。それが新撰姓氏録に「角凝魂命三世孫、天湯河桁命の後なり」(右京神別)と記載された鳥取連で、この氏神様の子孫が垂仁天皇の「皇子」ホムツワケに白鳥を献上した逸話で知られています。

白鳥伝説と言えば一般的には景行天皇の皇子、ヤマトタケルの物語として広く知られていますが、応神天皇の出現を暗示した説話とみられる垂仁皇子・誉津別命のお話しは「出雲の大神」の崇り(と皇子の出雲への参詣)という、鵠(白鳥)とは別個の古代人にとっては最も重要性のある主題(神威、祟り)が盛り込まれた内容で、主人公のホムツワケの介添え役として彦坐王の孫・曙立王兄弟が登場するなど、息長氏と和邇氏そして山代国造家の三者が複雑に交錯する「創られた」伝説の様相を呈しています、それはさておき。社伝によれば信長の波太神社に対する尊崇の念は篤く、土地の有力者に命じて旧熊野古道沿いに大鳥居を建てさせ、旅人の目にも神社の存在を分かりやすくした程の力の入れようだったようです。信長の生家である織田家の出自については様々な解釈がありますが、その中の一つに越前国丹生郡説があって、織田の地に建立されている剣神社には次のような伝承が残されています。

  第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷(敦賀郡)の北に聳える座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、その後、第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣という人が
  和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきたことが縁起として伝えられている。云々。

波太神社  新撰姓氏録より  織田信長

角凝魂の子孫  雑賀合戦図  古事記より

この社伝が云う「千口の剣」は、垂仁皇子の五十瓊敷入彦命(印色入日子命)が垂仁三十九年冬十月に「茅渟(和泉国)の菟砥川上宮(古事記は鳥取之河上宮とする)」で拵えた「川上部(裸伴=あかはだかとも)」と呼ばれる剣のことで、これらの太刀は一旦、忍坂邑(おしさかのへき)に納められた後、石上神宮に蔵められ物部首の始祖である春日臣の族・市河によって祀られたと書紀が記録しています。その宝剣の内一振りが同じ垂仁帝の御代に「伊部臣」と名乗る人物によって「御霊代」として遷された経緯は詳らかではありませんが、和泉国の鳥取周辺が古くから製鉄や鍛冶の盛んな、当時の最先端技術を有する天孫族の集団が暮らす有力拠点の一つであった事を暗示する逸話と捉える事が出来るように思います。皇子による武器製造の話は所謂、英雄譚の一つとして、あくまでも「説話的世界」の出来事に過ぎないとする見解が史家の間では支配的なようですが、二十一世紀初頭淡路島で発見された五斗長垣内遺跡の発掘調査結果を見れば、既に弥生時代後期の西暦100年頃には建屋十数棟規模の鉄器製造工房が島内で稼働していますから、茅渟の海を挟んで指呼の先にある鳥取地区へ製鉄技術が伝えられた(同時に人も移動した)と考えるのが自然です。

オノコロ共和国の筆者は、五十瓊敷入彦命という人物が記紀の云うような垂仁天皇の皇子などではなく、彼もまた崇神天皇の息子の一人であり、かつ景行天皇と同一人物に違いないと推理しているのですが、若し、この想像通りであったとすれば彼は「皇子」の時代から製鉄鍛冶に深い関心を持ち、武器生産に不可欠な鳥取氏のような天孫族の部下を多数従えて広範な地域を自在に移動していたと見ることが出来そうです。鍛冶集団自体の国内移動については泉南市の北部に当たる柏原市大県(5世紀頃の製鉄遺跡がある)に天湯川田神社が建ち、更に、その直ぐ北にも「垂仁皇子」鐸石別命(ヌデシワケ)を祭神とする鐸日子鐸日売神社が鎮座していることからも明らかなのですが、何より景行帝自身が国内巡行を終えた後、晩年になって近江国の穴太の地に遷都(高穴穂宮)していることが、大王の鉄に対する意欲の凄まじさを表しているように感じられますが如何。また角凝魂命という神様を奉じる氏族は他にも在り、柏原市の北方・八尾市上之島に建てられている御野縣主神社の祭神は角凝魂命と天湯川田奈命の二柱で、鳥取氏と同族の美努連・三野縣主が祖神を祀った社に他なりません。

忌部宿禰本系帳が伝えた太古からの系譜を、これまでの氏族系図探訪で明らかになった神様たちの名称と対比させると、

  神皇産霊尊−−角凝魂命−−伊佐布魂命−−天底立命−−天背男命−−天日鷲翔矢命             忌部氏
     高魂命−−□□□□−−伊久魂命−−天押立命(又名、神櫛玉命)−−陶津耳命−−玉依彦命      難波田使首
          角凝魂命−−伊佐布魂命−−□□□□−−天湯川田命−−少彦名命            三嶋縣主
      神魂命−−角凝魂命−−伊佐布魂命(新撰姓氏録より)                         倭文連
                     天神玉命(又名、生魂命)−−天櫛玉命−−賀茂建角身命−−玉依彦  鴨縣主
                     天照大神−−天津彦根命−−天御影命−−意冨伊我都命   山代国造      [註:天御影命は天目一箇命と同神]

のように並置でき、読者の皆さんが良く知っているアマテラス大神を基準とするなら角凝魂命と呼ばれた神様は、その祖父の世代に属する古い祖先であることが分かります。記紀神話の作者(編集者)たちは時の権力者の「都合」を最優先させ、全ての神話をアマテラス中心の内容に仕立て上げましたが、上の神様一覧でも明らかな様に抽象的な「高魂命、神魂命」などを除けば角凝魂命という一柱こそ天孫族の太祖と呼ぶべき存在だったのです。物部氏と同様、早くに帝室の藩屏となった山代国造(三上氏)を除いて他の氏族が「自分たちだけの」氏神名を伝える工夫を重ねた結果が「同神異名」の神様を輩出することになったと考えることも出来そうです。さて信長は波太神社の祭神がスサノオであることを知っていた、と思うのですが皆さんはどのように判断されることでしょう。蛇足になりますが「角凝魂」の「凝」は「コリ・ゴリ」と読ませていますが、ほぼ同時代の金属神「石凝姥」の名前にも含まれていることから、この言葉は「金属」取り分け「銅」を表した「カル・カリ」と同じ意味を表すものではないかと考えられます。また筆者は、少し時代が離れてはいますが垂仁紀二年条に見える『一に曰く、御間城天皇の世に、額に角有いたる人、一の船に乗りて、越国の筍飯浦に泊れり。故、角鹿という』の文言を何故か想い浮かべてしまいます。

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