都留伎日子と天津彦根命そして波多都美(ハタツミ)                                   「サイトの歩き方」も参照してください

都留伎日子(ツルギヒコ)という名の神様の話から始めます。記紀神話には全く登場することがありませんから、恐らく名前に見覚えのある方は少ないだろうと思います。また古代史に興味があり古事記などの資料を読まれた経験のある方は、神武帝の大和入りに際して「功」があったとして葛城国造に任じられた剱根(ツルギネ)に似ていると思われたかも知れませんが、二人は別人(神)です。先ず、舞台はオオクニヌシの本拠地・出雲に飛びます。考古学の研究者たちの間で『出雲神話と呼ばれるものはあっても、古代出雲に有力な氏族が支配する独自の文化を持つクニはなかった』とする解釈が支配的だったのは、史実を裏付けることが出来得る物証が乏しかったからなのですが、昭和の終わり頃以降になって荒神谷(昭和59年)と加茂岩倉(平成8年)の両遺跡から大量の青銅器(銅鐸、銅剣、銅矛など)が出土したことで、その「評価」は百八十度転換します。正に出雲王国は、そこに「在った」のです。また、出雲大社の敷地内から同社に伝えられてきた『金輪造営図』を彷彿させる巨木を組み合わせた芯柱の遺構が出土したことで、出雲の地に根ざした大きな地方勢力が実在した可能性が一段と高まったのです。その荒神谷遺跡の在る場所(出雲市斐川町神庭)が、誉津別皇子(ホムツワケ)の白鳥伝説で知られる宇屋谷の直ぐ近くであり、垂仁紀で語られる五十瓊敷入彦命の神剣製造譚(忍坂邑に収められた一千口の銅剣=裸伴、アカハダトモ。記は『鳥取の河上宮』で拵えたとする)や、ホムツワケの出雲詣でに随伴した曙立王の出自にも関連があるのではないかと云う推論を「銅鐸(サナギ)」を手掛かりにこれまで展開してきた訳ですが、今回ご紹介するツルギヒコの伝承も宍道湖をはさんで、そう遠くない北方の松江市郊外が舞台になっています。

ホムツワケ皇子の物語を読んでおられない人のために日本書紀が記す概略を述べると、

  ① 垂仁帝の長子、誉津別命は大きくなっても言葉を話すことが出来ず、帝は大変心配していた。
  ② 或る日、皇子は空を飛ぶ大きな白鳥(鵠)を見て『あれは、一体なんだろう』と呟いて、関心を示した。
  ③ これを聞いた帝は、臣下に『誰か、あの白鳥を捕えられる者はいるか』と下問され、鳥取造の祖・天湯河板挙が出雲で鵠を捕えて献上した
    (『新撰姓氏録』右京神別、角凝魂命の三世孫・天湯河桁命の後なり。鳥取連の条には『出雲国宇夜江に詣でて此の鳥を捕えた』とある。現在の斐川町宇屋谷付近)
    (阪南市石田には摂社として鳥取神社を祀る波多神社があり、祭神は角凝魂命とホンダワケ。鳥取神社は天忍穂耳命と事代主を祭神としている)

処、皇子は言葉を自由に操ることが出来たと云うのですが、古事記は別の伝承を記録しています。それは、

  ① 山辺の大鷹という者が高志国で鵠を捕えて献上したが、皇子は未だ言葉を話すことが出来なかった。
  ② 心痛の帝の夢に現れた神が『私の宮を天皇の御舎のごとくに修理すれば皇子は話せるようになる』と託宣した。
  ③ 太占で、その祟りが「出雲の大神」の御心であると知った帝は皇子を出雲に行かせる事を決め、その介添え役として曙立王と菟上王の二人を選んだ。

出雲に詣でた皇子は「大神を拝し」仮宮で食事を取ろうとした折、自ら大神を称える言葉を発することが出来た。帰朝報告を受け、大変喜んだ垂仁帝は御付の一人であった菟上王を早速再び出雲に派遣して「神の宮」を造営した、という内容で、皇子の出雲参拝を成功させた曙立王兄弟もまた天津彦根命の血筋を引く山代之荏名津比売の孫だった訳です。神様たちの縁故関係を説明し始めると極めて煩雑になりますので、ここでは要点のみを記しておきます。

  ① アマテラスの三男に位置付けられている天津彦根命は、古代金属(銅)製造、鍛冶に関わる祖神で、その子供に天目一箇命(天御影命)、天日鷲命(少彦名命)がいる。
  ② ホムツワケに鵠を献上して名をあげた鳥取造(連)の祖先である角凝魂命三世孫、天湯河桁命(アメノユカワタナ)は天津彦根命の別名であると考えられる。
  ③ ホムツワケに同行した曙立王の祖母・山代之荏名津比売も天津彦根命の子孫、山代(山背)国造長溝の娘である。祖父は和邇・息長と関係の深い彦坐王。
     垂仁帝には山代(山背)国造の大国不遅の娘二人(苅幡戸辺、綺戸辺)が嫁ぎ、姻戚関係にもあった。

(日本書紀が、誉津別命に白鳥を献上したのが鳥取造の祖『天湯河板挙』とのみ記して、通常、神名に着ける『命』の尊称を故意に避けているように見えるのは、オオクニヌシの国譲り前段で、義父に媚びて葦原中国の主になった反逆者・天稚彦[天若日子]にも命の一文字が与えられていない編集方針と一致していると思われます。また、垂仁帝と『角凝魂命の三世孫』が同じ時間軸で会話できるはずは有りませんので、ここにも書紀編集者の作為が垣間見えます)

波多神社  宇屋谷   PR

皇子の白鳥伝説に天津彦根命という神様と後裔が、如何に深く関わっているかという事が分かって頂けたかと思いますが、ツルギヒコの話に戻ります。日本書紀と新撰姓氏録の記述から「鵠」は出雲国の宇屋江(ウヤエ)で捕まえられた事になっていますが、宍道湖と中海の連結部、現在の松江市川津町周辺にまつわる一つの伝説があります(上図参照、Googleより)。それは出雲風土記、嶋根郡によると、

  郡家(こおりのみやけ)の正南四里二百九十八歩のところに山口の郷がある。
  須佐能烏命の御子、都留支日子命が『吾が敷き坐す山口の処なり』とおっしゃられたので、山口という名を負うことになった。

という内容の地名起源譚で、嵩山に鎮座する布自伎彌神社の主祭神として今も祀られています。「山口」という名称は「山への入り口」という普通名詞ですが、恐らく、この「山」は「鉱山」を暗示しているものと思われ、武神の象徴である「剱=つるぎ」を名に負う都留伎日子が住いとするのに最適な所だと言えます。さて、記紀その他の古伝の類にツルギヒコという神様は一切登場しないため、その「素性」が杳として知られてこなかったのですが、天津彦根命の縁者を探るうちに一つの系図に行き当たりました。それが今回ご紹介する「難波田使首」という氏族に伝わる系譜で、田使首については日本書紀にも記述があります。継体帝の正嫡とされた欽明帝は蘇我氏の主導によって多くの屯倉を全国各地に設置しますが、欽明十七年秋七月には、

  蘇我大臣稲目宿禰らを備前の児島郡に遣わして屯倉をおかしむ。葛城山田直瑞子を以て田令(たつかい)にす。

とあって吉備地方の直轄地経営に大和の豪族出身者を充てていたことも分かっています。「葛城山田直」は他に見えない姓ですが、書紀は田令に就任した十数年後には屯倉を管理する「長」になったと記録していますから、係数にも明るい蘇我氏好みの経済官僚のような立場の人物だったのでしょう。系譜上では父親の広主が「墾田二十町」と「葛城山田の姓」を賜ったとありますから、継体朝の出現そして蘇我氏の台頭という大和政権の情勢が大きく変化する中で、頭角を現した氏族だと思われますが、姓に「葛城」を含んでいる事も含め自らが「高魂命--伊久魂命--天押立命(神櫛玉命)--陶津耳命--玉依彦命--剱根命--夜麻都偎命」と明確に葛城国造の裔であることを表明していますから、やはり天都彦根命(神櫛玉命と同神)および、その子神である天日鷲命(陶津耳命と同神)と祖先を同じくする天孫族の流れであることは明らかです。この系譜によれば出雲国の都留支日子命は「陶津耳命の兄弟」に位置付けられています。そして父親が天津彦根命に当たる神櫛玉命なのですから、導き出される答えは一つしかありません。つまり、ツルギヒコという神様は間違いなく天目一箇命その人なのです(下左の画像参照)。更に想像を逞しくすれば、蘇我氏が大和を遠く離れた目の届きにくい吉備の地で、大切な屯倉の管理を任せられる=全面的に信用できる氏族が「全く縁故の無い氏族」だとは考えられませんから、蘇我氏自身が田使首と何らかの血縁関係にあった可能性も否定できないでしょう(蘇我馬子が推古三十二年冬十月、天皇に『葛城懸は、元、臣が本居なり』と奏上させた話は有名です)。

田使首系図  天津彦根系図

天津彦根命と、その一族の多くは国造りに大いに貢献してきたと思われるのに何故、名前を変えられ恰も「存在しなかった」かのような扱いを記紀の中で受けているのか?その疑問に答えるための手がかりが別の系図に載せられていました。舞台は大阪南部の街・柏原に移ります。雄略帝は生前、吉備稚媛との間に産まれた星川皇子の挙動に注意するよう大伴室屋大連に「遺詔」していたのですが、皇子の反乱は現実のものとなり謀反人たちは「焼殺」されました。清寧即位前紀は、その折、皇子と行動を共にしていたと思われる、独りの豪族が、

  ここに河内三野懸主小根、慄然じ振怖きて、火を避りて逃れ出ず。草香部吉士漢彦が脚を抱きて、因りて生きんことを大連に祈さしめて申さく、
  奴懸主小根、星川皇子に事えまつりしことは信なり。然れども皇太子を背き奉る事あることなし。乞う、洪恩を降して他の命を救い賜え。

と命乞いをしたと記録しています。彼は必死の嘆願により死罪を免れますが、そのお礼として大伴室屋に『難波の久米邑の大井戸の田十町』を贈り、大連への直訴を取り次いでくれた漢彦にも「田地」を与えて其の恩に報いたとあります。古事記がこの皇子と事件を一切採録していない事実と、継体朝成立前後に大伴氏一族が果たした役割の大きさを勘案すると謀反そのものが実体のない作話だと思われ、三野懸主(ミノアガタヌシ)は不名誉な「濡れ衣」を正史の編集者に押し付けられた事になります。オノコロ共和国の読者であれば、同じ趣旨(特定の氏族を名指しで貶める)の「話」が安閑帝・大伴金村大連と凡河内味張との間の「事件」として語られていることを想起された事でしょう(同じ様な伝承の原型は国譲り神話の建御名方神の服従にあります)。孫の金村は祖先に少しは遠慮でもしたのか、凡河内氏が差し出した田地は「狭井田六町」だったと書紀は伝えています。旧河内国若江郡の地に、さして大きくもない御野(ミノ)懸主神社が建てられた年代は明らかではありませんが、柏原と八尾の両市にまたがる一帯をかつては大県郡と称して、神社のある里は「玉櫛の庄」と呼ばれていました。祭神は角凝魂命と天湯川田奈命のコンビです。はて、どこかで見た組合せだと思いませんか!そうです、冒頭で見た白鳥を捕まえて献上した鳥取連が同じ神様を祖先として祀っていました。通常、同一の神様(氏神)を祀る氏族は「同じ祖先を持つ」者だと考えられますから、河内の大県を治めていた御野(ミノ)懸主という豪族も天津彦根命の末裔だったのです。それを裏付ける資料が上で紹介している系図(上右)の記述で、天目一箇命の孫・彦己曽根命の添書きに『河内国大県郡、大懸主』の注記が見られます。そして、問題の凡河内国造と都下国造の名前が並んでいます。(御野懸主神社のほぼ真南に高井田という名の土地があり、大和川を見下ろす高台に天湯川田神社があります。祭神は勿論、あの天湯河田奈命なのですが天児屋根命とオオヒルメムチを合祀していますから、時代の移ろいを感じさせます。なお、古代製鉄の代表的な大県遺跡は神社の北側に位置しています)

日本書紀允恭二年春二月条は、忍坂大中姫の立后と皇子皇女の名前を記した後、突然、一つの昔話を始めます。皇后が未だ実家で母親と暮らしていた頃、独りで「苑」の中で遊んでいた時、たまたま通りかかった闘鶏(ツゲ)国造が、馬に乗ったまま垣根の向こうから「嘲る」ような口ぶりで話しかけた。

  『お嬢ちゃんに、上手く薗が造れるのかな?』『ところで、あんたの前にある、そのアララギを一本呉れないか』

大中姫は、馬に乗った者にアララギを与えながら『これを何に使うのか?』と尋ねたところ、その人物は『何、山に行くと虫が寄ってくるだろう。おっぱらうのさ』とぞんざいに答えて去りました。一言の礼も述べずに立ち去った男の無礼な態度を決して忘れていなかった皇后は、後年、その者を探し出し処刑しようとしたのですが『額を地に搶けて』只管命乞いをしたので「死刑」を赦し「その姓」を貶して「稲置」にすることで決着した(恩を垂れた)という訳です。ここでは田畑の献上が省かれていますが、上で見た三野懸主の例と趣旨は全く同じであることが分かります。つまり、ここでも天津彦根命の後裔は「貶められ」帝室に刃向い敗れた者という印象が与えられているのです。

改めて云うまでも無く忍坂大中姫という女性は、応神帝の子・稚渟毛二俣王の娘であり息長家の血筋を代表する人物であり、かつ星川皇子の反乱を「予言」した雄略帝の母親でもあります。また、安閑帝は文字通り応神王朝を「復古」させた継体帝の長子なのですから、この人物も息長一族の象徴と云えるでしょう。允恭朝と葛城氏との「対立」の構図は書紀が允恭五年秋七月条で『葛城襲津彦の孫、玉田宿禰の不敬と謀反』の主題で書き残していますが、これも古事記は伝えていませんから、恐らくその事実は存在せず、帝室と葛城氏との間が草創期の結びつきからは格段に疎遠になり、遂には帝側から疎外されるようになった経緯が、玉田宿禰という「孫」の反乱という表現を生んだものと思われます。垂仁帝の治世を四世紀半ば頃、そして允恭帝の時代を五世紀半ば頃だと推定すると、この一世紀の間に大和の政権の枠組みを大きく変化させたものが在ったと考えるべきでしょう。筆者は、それが「古い金属の銅から、新しい金属の鉄」への転換であったと想像しています。垂仁朝で語られている「天日槍」の来朝は正に「新たな製鉄文化」の到来であり、景行帝の近江国滋賀「高穴穂宮」への遷都は、大王の権力基盤そのものが「鉄」に大きく依存することとなった事実を示しているのです。そして、帝室の本拠地まで移動させた原動力の一つとなったのが垂仁の娘婿として朝廷の一員に加わった稲背入彦命ではなかったのか?とも思うのです。『古い神は落ちぶれて、人の里からも消え去』らねばなりません。卑弥呼が生涯愛でていた鏡の煌めきや、五十瓊敷入彦命が精魂込めて鍛え上げた青銅の鋭い剱も、歴史を刻む時が産んだ錆びには勝てなかったのです、それはさておき(下の画像は淡輪にある宇土墓[五十瓊敷入彦命の陵墓とされる])。

出雲風土記より   PR

銅剣を大和磯城の武器庫忍坂に収めた五十瓊敷入彦命皇子は河内の鳥取の宮に住んで「河上部」という部曲まで設けたと古事記は伝えているのですが、その子孫の消息は歴史の彼方に掻き消えています。垂仁という諡号を贈られた大王は実在したと考えられているにも関わらず、その長子(ホムツワケ)と第二子(五十瓊敷入彦命皇子)の何れもが行方知れずなのは怪異と云うしかありません。ところで鵠を献上した鳥取氏一族は河内南部を拠点にしていたものと思われ、その祖神を祀った社が上で見た波多神社なのです。神社の古い言い伝えによれば「畑(ハタ)」の地に建てられたので「波多」を冠した事になっていますが、始祖とも云うべき天津彦根命の別名が「波多津美(ハタツミ)」なのですから、名称の由来が「天忍穂耳尊」の兄弟であることは明白です。出雲風土記は飯石郡内の各地で「鐡(マガネ)」が産出されると明記しており、素戔嗚に因む「須佐の郷」の真南にある「波多の郷」について、次のように伝えています。

  郡家の西南のかた一十九里なり。波多津美命の天降りましし所なり、故、波多という。

スサノオと隣り合わせの郷に「天降った」ハタツミが天津彦根命の本名だったのかも知れません。一方、意宇郡屋代の郷には『郡家の正東三十九里一百二十歩なり。天乃夫比命の御伴に天降り来ましし伊支らが遠つ神、天津子命、詔りたまいしく、吾が静まり坐さんと志う社、と詔りたまいき。故、社という』の地名伝説が残されており、上の系図の註文は、この風土記の伝承に対応したものだと考えられます(この文中に出てくる『伊支(イキ)』は山背国造の祖とされる伊岐志邇保=天津彦根命を指すと思われます)。筆者は弥生時代から古墳時代へと集権化を続ける過程において、天孫族の内部で果たしてきた「天津彦根命・天目一箇命」に代表される製銅集団の評価が著しく変化し、新たな強力な鉄の神々に首座の地位を奪われたのだと想像しています。では、何故、同族の中でも凡河内国造たちだけが標的にされたのか?何か具体的な事件(例えば反乱など)が発生していたのか、それは不明ですが、一つだけ確かな事があります。それは意富伊我都命で「三つの流れ」に分岐する天津彦根命の血脈のうち、他の二流は何れも後世、帝室と深く結びついた記録が残されているという事実です。具体的に述べると山背国造の娘たちは垂仁帝と彦坐王に嫁いで大王家の血筋を次の世代に引き継ぐ役割を果たしています。その中核に位置したのが息長一族だったことは言うまでもありません。新旧の交代劇の悪役としては天津彦根命の後裔の中でも「彦己曽根」を槍玉に上げざるを得なかったのではないでしょうか。反論として直ぐに宣化帝の妃・大河内稚子媛の存在を上げる声が聞こえてきそうですが、この媛の父親の名前が伝わらない事と、大王位が欽明・敏達の系統に受け継がれて行った事自体が傍証の一つに成り得るかも知れません。しかし判断は保留しておきましょう。

天湯川田神社  御野懸主神社  白坂神社

まだまだ解明しなければならない神々の秘密は山積みですが、今回の取材でたまたま眼にした小さな社、それも気を付けていないと恐らく見逃してしまうであろう一見民家、しもた屋のような神社を紹介してお開きにしたいと思います。JR関西本線の高井田駅は、大きく東に向きを変える大和川の北岸に駅舎を構えていますが、目の前を走る府道の道端に、隠れるようにして建つ社があります。地元では白坂さんとして知られている神社の正式名称は宿奈川田神社で「スクナカワタ」と読ませています(右上の画像)。先に見た天湯川田神社から700mほどしか離れていませんから、恐らく何らかのつながりのある社に違いありません。建物横の案内板によれば祭神は宿奈彦根命、高皇産霊命そして科戸辺命の三柱です。「宿奈彦根命(スクナヒコネ)」という表記も何気なく眺めていただけなのですが、後になって天津彦根命の「子供」という意味を含めた神名なのではないかと思ったりしたものです。ツルギヒコという名前の神様を通して、そもそもオオクニヌシの別名であるとされる八千矛神も「剱」に託された権力の象徴であり、更には今一つの別名である「大穴持神」という名も、実は金属採掘に関わる鉱山を言い表したものであるという想いに至りました。やはりオオクニヌシではなくツルギヒコ一族による出雲開拓の歴史は存在したのだと思います。それが第一次の国譲りであったのかも知れません。

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