浮世絵類考」と東洲斎写楽について                  サイトの歩き方」も参照してください

前回、写楽と写楽斎についてのお話しを書き進めていた時、偶然、一つの資料をWEB上で発見しました。そこに記された文言は、これまでの筆者の推理を根本から見直すべき内容を含んだもので、再度「浮世絵類考」という文献資料について考えてみた結果を、ここで紹介することにします。このページに来るのが初めて=『類考なんて初耳』=という方も居られることと思いますので、重複を承知の上で「類考」の概略を先ず述べてから新しい資料の分析に移りたいと思います。

このページで紹介している『浮世絵類考』の画像は筑波大学付属図書館が収蔵しているものです。

『浮世絵類考(うきよえるいこう)』という書物については、写楽など江戸時代の浮世絵師について書かれた文章には必ずと言ってよいほど頻繁に引用されていることでも著名な文献ですが、これは一人の人物が、或る特定の時期に内容の全てを一気に書き上げたものではなく、約半世紀に亘り、多くの人々が自己の調査の結果や見聞きした事柄などを書き加えながら写筆を重ねた、特殊な資料なのです。その成立から主な関係者による加筆・写筆の歴史は、ほぼ、次のようであったと推測されています。(以下はほんの概略を述べたもので、実際に「類考」の写本は百種を上回り、研究家が内容を確認したものだけでも数十種に及びます。煩雑に見えますが、大田南畝(おおた・なんぽ,1749〜1823)の生活上重要な出来事もはさみ込んであります)

  寛政初め  蜀山人・大田南畝が「浮世絵類考」を初めてまとめる(1790年頃?。成立年については諸説あり)

  (寛政6年  南畝、幕府の登用試験『学問吟味』を受験、御目見以下で主席となる。この年「写楽」登場

  (寛政8年  南畝、この年、支配勘定のお役を拝命する)

  (寛政11年 南畝、一端、大坂勤務を命じられるが急遽、延期となる)

  寛政12年までに笹屋新七邦教が作成した「附録 古今大和画浮世絵始系」を付け加える(1800)

  (寛政12年 幕府の孝行奇特者取調御用に任命された南畝は『孝義録』50巻をまとめ刊行する)

    (寛政13年=享和元年 南畝・大坂銅座詰勤務を命じられ、大坂に向かう。約1年、在坂)

  享和2年  戯作者の山東京伝が「追考(附考)」を付け加える(1802)

  (文化元年 南畝・長崎奉行所詰を命じられ、長崎へ向かう,1804。翌年十月まで赴任)

  文化12年  医師で寺子屋主の加藤曳尾庵が写筆、加筆する(1815)。翌13年、山東京伝没。

  文政4年までに戯作者の式亭三馬が自己の考えを付け加える(1820)。同六年四月、南畝没(1823)

  天保元年頃  日本橋の古本屋・達磨屋五一が写筆(加筆も?)する。

  天保4年  絵師の渓斎英泉(無名翁)が『浮世絵類考』として加筆する(1833)

  天保15年  斎藤月岑が『増補浮世絵類考』として加筆する(1844)

そして我々一般人が、それぞれの写本を実際に手にとって見ることは出来ませんから、各種の「類考」に記された内容の相違については、昭和十五年に刊行された『浮世絵類考』(仲田勝之助、編校、岩波文庫本)に頼るしか無い訳です。ところが仲田が編集した写楽の項には、

  写楽斎  「」東洲斎写楽 

          「」三馬按、写楽号東周斎、江戸八町堀に住す、はつか半年余行わるるのみ

          「」俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者なり。

という記述がなされていることから「写楽」と「写楽斎」は、果たして同一人なのか?更に、寛政六年に登場したとされる写楽の記事が「寛政の初め頃」に書かれた「類考」にあるのは不自然ではないのか?という素朴な疑問が持ち上がった訳です。ところで浮世絵研究家の仲田は、類考を本格的に校訂するに際して「最も原撰に近いと思われる享和三年頃写筆された」ものを底本とした、と明言していたのですが、つい最近、享和二年に写筆された京伝の自筆写本(の写し)と思われる資料に巡り会ったのです。まず、その根拠となるであろう画像から紹介をしてみます(下右の画像は、新たに写楽作品ではないかと言われている扇面画です)。

写筆の時期は明らかに享和二年です。 写楽作?

そして、この写本から「類考」の元々の姿と、加筆による変遷の過程を垣間見ることが出来ます。まず、大田南畝(蜀山人)が「類考」として書き留めた絵師たちは、岩佐又兵衛、菱川吉兵衛師宣、英一蝶などに始まり写楽、宗理(北斎)、豊国、歌舞妓堂そして春潮、豊廣に終わる僅か四十名足らずに過ぎません。この文章に「附録」として『古今大和画浮世絵始系』と題した絵師の系譜図を付け加えたのが江戸本銀町一丁目に住んでいた笹屋新七邦教であり、享和二年写本(筆者が便宜上、この様に呼んでいるだけで、一般的な呼称ではありません。研究者の間では「東京教育大学本」と呼ばれているようです)では、附録の直後のページに南畝自身が次のように紹介しているのです。

  右の始系は本銀町縫箔屋主人笹屋新七所書なり、写して類考の後に付記す

  参考して其の実を訂すべし。猶、後考をまつ

これまでも笹屋新七が「附録・始系」を付け加えたのは寛政十二年頃ではないかと推測されていましたが、今回、見ることが出来た写本にも下の画像でみる通りの南畝・自筆と思われる書き込みがあり、南畝自身が寛政十二年(庚申)夏五月までに付記した事実を確認することが出来たのです。

大田南畝の肖像画・国立博物館収蔵    PR

この「始系」に関する南畝の覚書に続けて記されている文章が山東京伝(さんとう・きょうでん,1761〜1816)による「浮世絵類考追考」の部分で「菱川師宣伝并系図」の後に浮世又兵衛、大津又平、当世又兵衛、同半兵衛など十数名の浮世絵師を紹介し、最後に「英一蝶伝并系図」を置き、一蝶の解説に多くの言葉を費やしています。そして享和二年十月の奥付が記され「山東庵」の印が記されて写筆が締めくくられているのですが、この写本には後三行、大変興味深い書き込みが付け加えられています。それは、次のようなものです。

 この書き込みは

  右追考 山東京伝 手書本

  文政元年戉寅六月晦

  七十翁蜀山人

 と読めます。つまり自分の記した「浮世絵類考」に笹屋の「古今大和画浮世絵始系」を付記し

 山東京伝が更に「追考」を加えた自筆本を(京伝以外の誰かが)大田南畝に贈ったのが、

 文政元年(1818)の六月晦(みそか)だったということになります。

今回見ることが出来た写本が、上で見てきた通りの事情で京伝から南畝に渡った後、この写本は、もう一人の関係者の手元に置かれていました。それが写楽を「東周斎」の号を持つ絵師であり「八丁堀」に住んでいると書き込んだ戯作者の式亭三馬なのですが、文政元年に一端、南畝に手渡された写本が、何故、その直後と考えられる時期に三馬の手に再び渡ったのか、理由は定かではありませんが、京伝が弟である山東京山の書斎開きの当日、つまり文化十三年に急死していることが関係している可能性は否定できません。(京山が形見分けとして自筆本を南畝の手元に贈ったかも知れない)蜀山人・南畝が署名した文政元年六月以後に三馬が書き込みを行っていたという事実は、次の画像(下・左)で確認できるでしょう。そして、京伝が三馬の書き込みを見る機会に恵まれなかった=その是非を正すことは出来なかった=ことも確かです。

「文政四年」「今尚」とあります 三馬の「写楽」に関する書き込み部分。 「杏花園」は大田南畝の別号

以上の事実を基に考えた場合、写楽の登場時期と南畝が「原・類考」を書き始めた時期について、二通りの解釈が成り立つことが分ります。先ず一番目の考え方は、写楽の版画の登場を通説通り寛政六年だとすれば、南畝が「類考」を書いた時期も、当然、それ以後だとする見方です。そして第二の考え方は、南畝の書き始めが加藤曳尾庵本にある書き込みの通りに『寛政の初め』であったとするなら、写楽の活動した時期が「寛政以前=天明」に遡ることになる訳です。更に、昭和の考証家・仲田の編校を信じるなら、享和三年頃に写筆された当時には号を「写楽斎」と明記した写本が存在し、流布していたことになり、写楽と写楽斎を別人だと仮定すると南畝が「類考」を書き始めた時期を「寛政初め」とする事と矛盾を生じないことにもなります。ただ、いずれの立場に立つにしても三馬の謂う「僅かに半年余行わるるのみ」という活動期間についての注釈と、写楽の号を「東斎」とする指摘には首を傾げざるを得ないのです。また、文政初めの時期において、三馬は何処から「八丁堀」に写楽(あるいは写楽斎)が住んでいると云う情報を得たのかも知る必要があります。それから、些細な点に拘るようですが『三馬』と『三馬』の書き方の差にも注意を払うべきなのかも知れません。(南畝が「類考」を書き始めた時期に関して、彼が四十六歳という年齢にもかかわらず寛政六年の『学問吟味』を受験し、幕吏として生活する道を選んだ、と言う事実を重視するのであれば、それ以前であったと考える方が自然のように思います)

南畝と京伝=山東京伝が町方出身にもかかわらず戯作者として活躍するきっかけを作った人が南畝でした。天明二年(1778)に京伝は『手前勝手御存知商売物』を発表しますが、南畝は『岡目八目』の中でこの作品を最上位として絶賛、そのことで京伝の戯作者としての地位が確立したのです。二人の間での「類考」の授受については、先に書上げた南畝が頼れる後輩の京伝に推敲を含めて託し、京伝は自ら清書した写本を南畝の古希を祝う品として用意していたのではないか、とも推測できます。

原「類考」の成立年については諸説がありますが、南畝の実生活に即して見た場合「寛政初め」頃という時期が妥当なように思えます。何故なら、彼が御徒士(おかち)の職を解かれ小普請組入りを命じられたのが天明六年(1786)であり『物之本江戸作者部類』によれば南畝は、

  天明七八年以来、憚る所ありて戯作をせずなりぬ

の状況であったことが確かだからです。そして天明七年三月、徳川家斉が将軍職に就き、松平定信の「改革」が始まりますが、その目玉とも言える政策の一つが「人材の登用」であり、寛政元年夏のお達しには、

  小普請の者、修身之嗜芸により、格式擢用の儀(「擢用」は「選び出して任ずる」の意味)

の文言が並んでいたのです。四十を目前にして無役となり、己と家族の将来に大きな不安を抱えていた南畝にとって、この幕府の新方針が「奇跡」に映ったとしても不思議ではありません。元々、学問の素養に恵まれていたとはいえ、彼が一度の失敗を経て幕府の学問吟味に合格するまで、五年もの歳月を要しているのですから、寛政の「お達し」が発布されて以降、南畝はひたすら勉学に励んでいたと考える方が自然ではないでしょうか?また、原「類考」の執筆については、職を失い困窮している南畝の友人たちが、少しでも彼に実入りの或るように取り計らった結果ではなかったのでしょうか?南畝の合格発表の日(寛政六年四月二十二日)と、写楽登場(同年五月五日?)が十日余りしか違わないのは「偶然」の悪戯なのでしょうが、南畝がお上から支配勘定(会計吏員)のお役を拝領するまでには更に二年もの歳月が必要でした。つまり彼の新しい生活に目途が着いたのが寛政八年、実際に大坂銅座役を命じられたのは、更に遅れて寛政十一年のことだったのです(一端取りやめとなったため、実際に大坂に赴任したのは寛政十三年・享和元年)。南畝の原「類考」が書かれてから、かなりの年数を経てから、それも寛政十二年を境に動きが見られることも、御用との関わりから推理すると分りやすいと思います。

諸家人名江戸方角分」を一体誰が作ったのか?

 写楽斎の上にある「×」印に注目

昭和50年10月初めのこと全国紙の社会面を一つの記事が飾り、歴史ファン・浮世絵愛好家たちの注目を集めました。国立国会図書館が収蔵していた『諸家人名江戸方角分』(しょかじんめいえどほうがくわけ、以下この項では「方角分」の略称を用います。長ったらしいので…)という写本(上・左の画像)の中に、

  写楽斎という号の人物が、八丁堀の地蔵橋に住んでいた

と云う記述がある事を九州大学の中野三敏が明らかにしたのです。写楽という絵師について「浮世絵類考」は『これは歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとて、あらぬさまにかきなせしば長く世に行われず一両年にて止む』とのみ素っ気無く紹介しているに過ぎないのですが、文政の初め頃に多くの書き込みを行った式亭三馬が、

  三馬按ずるに写楽、号東周斎江戸八丁堀に住す。僅かに半年余り行わるるのみ

の注釈を入れていた事から、写楽探しのドラマが全国の至る所で幕を上げることになったのです(前段・右の画像参照)。ただ、これまでにも別のページで述べてきたように「方角分」が明らかにした人物は「写楽斎」を名乗った絵師であり「写楽」ではありませんし、三馬は写楽の号が「東周斎」であると明言しているのです。一体、誰の言い分が正しいのでしょう?そして「方角分」という資料は何時、誰が作成したものなのでしょう?更に、写楽斎について「方角分」はどの様に書き記しているのでしょうか?それを知るには中野自身の著作を読むしか方法はありません。

中野は平成六年四月『内なる江戸−近世再考』という著書を弓立社から出版していますが、その144ページで「方角分」という写本に関して、

  この本は幕末にはもの知り達磨屋五一の蔵書であり、それ以前は大田南畝の手元にあったことが、

  まぎれもない南畝自筆の奥書によって判明する。

  此書歌舞伎役者川冨三郎所著也 文政元年七月五日竹本氏写来 七十翁蜀山人

  と明記されているからである。

と述べた後、本が成立した時期について「文化十四年から翌文政元年」にかけての頃ではないか、と結論付けています。何か見覚えの或る人の名前、そして年号などが並んでいますね。「方角分」の成立を中野の言うように「文政元年」とした場合、上で見てきた「類考」との関係は一体どうなるのか、皆さんと一緒に推理してみましょう。その流れは、凡そ、次のようなものであったと想像されます。

  1 寛政初め頃 大田南畝・蜀山人が「浮世絵類考」を書き始める

  2 寛政12年(1800)5月末までに 笹屋新七が作成した「附録・始系」を「類考」に付記する

  3 享和2年(1802) 山東京伝が「附考・追考」を付記し

  4 文政元年(1818)6月末までに 京伝の直筆写本を誰かが南畝に贈る

  5 文政元年7月5日 竹本某が「方角分」を南畝に届ける

これら一連の出来事の中で、特に大切な要素を持つものは「4」と「5」の事実です。何故なら、式亭三馬による「写楽 号 東周斎」「江戸八丁堀に住す」の書き込みは、正に、山東京伝に極近い人と、歌舞伎関係者と思われる竹本某氏が相次いで南畝のもとに写本を届けた直後から始められていると考えられ、写楽の住所についての三馬の情報源が「方角分」だったことを十分に窺がわせるからに他なりません。また、これは管理人の妄想に過ぎませんが、竹本氏が出来上がったばかりの写本を南畝に届けたのは、出版の是非について南畝の判定を仰ぎたかったからなのかも知れませんし、京伝の写本は、前年に無くなった彼の形見分けの意味があったとも考えられるのです(通人の京伝が南畝の古希を祝う品物として、予め用意していた可能性もあります)。そこで、再度、三馬による書き込みに関する疑問が浮上してきます。

中野の著書で紹介されている「方角分」八丁堀の部には明瞭に『号 写楽斎』『地蔵橋』とあります。つまり、この資料が示している事実は、

  地蔵橋に写楽斎と号する人物(故人)が住んでいた家がある

というもので、三馬が云う様に「東周斎」の号を持つ写楽とは明らかに別人だということが三馬自身にも分りきっていたはずだ、と言う矛盾です。これを解消する一つの方策は、写楽が「写楽斎」とも「東周斎」とも名乗っていた事実を証明することですが、現在まで、東洲斎写楽が別号で発表した作品は残念ながら見つかってはいないのです。ただ一方で写楽の活動期間を「僅かに半年余」だと補記した程度の知識しか三馬が持っていなかったから、号も間違えたのだ、とする見方も出来なくはありませんが…。

ところで話しは「方角分」の作者に移ります。歌舞伎に少しでも興味をお持ちの方なら、既にお気づきだと思いますが、南畝が歌舞伎役者・瀬川冨三郎と書き留めた人物は、あの有名な女形・初代瀬川冨三郎(菊之丞)の直弟子である三代目冨三郎(?〜1833?)なのです。(二代目は文化元年[1804]、初代は文化七年[1810]にそれぞれ物故している)そして画集などでもお馴染みの下の画像こそ、我らが写楽が好んで描いた女形の名優・冨三郎に他なりません。(写楽は初代・二代だけでも合わせて十三枚も描いています)

左は二代目、右が三代目 落款  瀬川菊之丞    PR

寛政期の後半に江戸歌舞伎に招かれたという三代目の冨三郎は、正に当時の歌舞伎界の中心に位置していた人物です。その当事者とも云うべき彼が、東洲斎写楽の画号を「写楽斎」と書き記すものでしょうか?そして、もう一つ、重要な情報が冨三郎の「方角分」には含まれています。写楽を能役者の斎藤十郎兵衛だとする「説」では、彼が文政三年(1820)に五十八歳で死去したとする過去帳の記載を論拠の一つとして上げていますが、文政元年までに出来上がっていたと思われる「方角分」に名前のある「写楽斎」の項には(正確には名前の右上)、その人物が既に故人であることを示す「」が付けられているのです。写楽・能役者説を採る場合、この死亡年時の不一致をきっちりと説明する必要があると謂えます。尤も、写楽と写楽斎が同一人だと証明することが先決だと思うのですが、皆さんは、どの様に思われるでしょう?

それでは、いつもの様にオマケの付け足しをしておきましょう。大田南畝が暦とした幕臣であったことは皆さんも良くご承知のことと思いますが、彼と歌舞伎界とのつながりは決して通り一遍のものではなく、特に、市川団十郎(五代目)との間柄は親交と呼べるものだったようです。と言うのは、五代目の息子・徳蔵が、僅か五歳で市川海老蔵を襲名した天明二年(1782)冬十一月、中村座での顔見世興行の大当たりを心底から望んだ南畝は『市川ひいき江戸花海老』という狂歌本を作って知己に配っている程の肩の入れようだったのです。また、五代目は狂名を「花道つらね」と名乗っていたそうですが、瀬川菊之丞松本幸四郎そして中村仲蔵などの名優たちの狂名を付けたのが南畝自身であり、その意味では天明から寛政期にかけての歌舞伎役者の多くが南畝の弟子筋に当たっていたと云うことになります。その江戸歌舞伎の人気俳優たちを独特の画風で表現した「写楽」の実像を、南畝や団十郎たちが知らなかった……、そのような事が在り得たのでしょうか?

出を待つ児  南畝の署名  成田屋の文言  鰕蔵

五歳で海老蔵を襲名した徳蔵(六代目、上左の画像の中央)は、この顔見世で『伊勢海老あかん平』の役名で『暫(しばらく)』を演じ江戸っ子の人気を独り占めにした、と伝えられています。そして五代目・団十郎が、あの、写楽画で有名な市川鰕蔵(上・右の画像)であるとしたら、写楽と南畝は相当近しい間柄だったのではないかとも想像されるのです。五代目は寛政三年に鰕蔵と改名、同八年十一月に引退した後、文化三年(1806)の十月に亡くなっています。

  千早振る 神代の昔 おもしろい事を はじめし わざをぎの道

芝居好きの南畝が残した狂歌をご紹介して、今回のお話もお開きといたします。

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