うんとも、すんとも」カルタ異聞                                        サイトの歩き方」も参照してください

雑音と共に小さなラジオのスピーカーから流れていた低く太い声の持ち主が、徳川夢声(とくがわ・むせい,1894〜1971)という俳優(声優)であることを知ったのは、恐らく某国営テレビの番組だったと思うのですが、抑揚が極端に控え目で呟くような語り口は、意識して話の内容を聞きとろうとする者でない場合、たちまち睡魔が襲いそうになる類のものだったように記憶しています。そして彼が無声映画時代の活動弁士(劇場などで映画の筋書きに合わせた台詞などを代弁する人)だったことを知ったのは随分後のことでしたが、今思えば「夢声」という芸名も「無声(映画)」を捩ったものだったのかも知れません。その彼が『話術』(昭和24年刊)の中で「講釈師見てきたような嘘をつき」の川柳を引用しながら、講談のあれこれを自らの体験も交え語っていますが「見てきたような嘘」は、何も講談に限った訳ではありません。

峠を越えると、また峠だった? 武者カルタ  源氏カルタ

『山のあな、あな』と聞いて表情が一瞬和らぐ読者は、恐らく相当のご年配(失礼)に違いないでしょう。新作落語の『授業中』で人気者になり、協会の古老から『ありゃあ、なんだ、化け物みてぇな奴だ』と飛び切りの賞賛?を浴びた二代目三遊亭歌奴(さんゆうてい・うたやっこ、三代目三遊亭圓歌)のレパートリィに『西行(さいぎょう)』という演目があり、佐藤兵衛尉憲清(出家前の西行)と染殿の内侍との出会い(女性は実在しますが時代が異なる=従って全くの作り話)に始まる「お話」が和歌を交え軽快なテンポで進められて行くのですが、物語の荒筋がうろ覚えであったのに比べ、西行が咄嗟に詠んだという下の句『夢にや見んとしばしまどろむ』は、如何にも「在りそうな」文句として、何故か耳の奥底に長く残っていました。歌奴に限らず落語というものを真面目に見たり聞いたりしていた訳ではありませんが、もう一人、独特の語り口調が強く印象に残った芸人がいました。柳亭痴楽(りゅうてい・ちらく,1921〜1993四代目)と名乗ったその噺家にも幾つか代表的な演目があったのですが、その演題も筋書きも全く覚えてはいないのですが「乙女の姿しばし留めん」という和歌の下の句だけは、くねくねとした身のこなしと共に、何故か鮮明に記憶しています。

 染殿の内侍の実態=彼女の存在を裏付けている資料は、このシリーズでも紹介をしている『大和物語』で、第百十九段と百六十段に歌詠みとして名前が見えます。物語
 では源能有(みなもと・よしあり)や在原業平などとの交友が記されており、考証家は藤原冬嗣の孫ではないかと見ているようです。そして『染殿』という呼び方は、藤原良房
 (ふじわら・よしふさ、染殿大臣と称された)の邸に仕えていたことから付けられた渾名ではないかと思われるのですが、彼女が冬嗣の孫であれば伯父の邸に出入りするこ
 とは極めて自然です。そして染殿の内侍が活躍していたのは九世紀の後半の事ですから1118年に生まれた西行と、今生で逢うことはかなわなかった訳です。
 従って「しばしまどろむ」も誰かの創作に違いないのですが(西行の「山家集」にも該当する作品はありません)『山家集』1267番に、次の歌が記されています。
  まちかねて 夢にみゆやと まどろめば 寝覚めすすむる 沖のうはかぜ

痴楽が落語の枕(本題に入る前の小話、所謂『つかみ』)に良く使った和歌の正体は言うまでも無く、あの有名な藤原定家(ふじわら・さだいえ,1162〜1241)が編んだ秀歌撰(『百人秀歌』)にもある『古今和歌集』所載の、僧正遍照(そうじょう・へんじょう,816〜890,桓武天皇の孫)作の、

  あまつ風 雲のかよひ路 吹きとじよ 乙女のすがた しばしとどめむ

で、新嘗祭に続けて行われる「豊明の節会」で舞い踊る五人の少女たちの「すがた」を写生した若々しい作品です(かつて創始者の天武天皇自らが琴を奏でると雲気が舞台を包むように湧き起こり、その有様は天皇只一人しか見ることが出来なかった、と伝えられている。舞姫たちが着飾った袖を五回天空に向けて揚げるので『五節』と呼ばれるそうです。なお、一首の作者名を古今和歌集は良岑宗貞(よしみね・むねさだ)と紹介していますので、僧正出家前の作だと考えられています。また日本書紀は聖武天皇の次女・阿倍内親王[孝謙・称徳天皇、718〜770]が天平15年に五節の舞を舞ったと伝えています)。今どうなのか良く知りませんが、かつて、半世紀近く前には、小学館などの出版社が出していた子供向けの月刊雑誌、それも高学年向けの物などの正月号には、何故か決まって毎年、付録として「百人一首」が付けられていました。それは画用紙を少し厚くしたような紙に印刷され、ミシン目を鋏で切り取るようになっている代物でしたが、モデルは定家の「小倉百人一首」だったに違いありません。さて、落語という芸能に何時の頃から「和歌」が積極的に取り入れられるようになったのか?その辺りは時代考証家に任せるとしても、和歌・秀歌が庶民の間にまで広まったのは江戸期に入ってからだと思われます。

構想を練る?京伝先生 業平さん  カルタ  PR

「えー、毎度ばかばかしいお笑いを」の前口上で始まる落語、その中でも古典的な部類に入る作品に『千早振る』があります。主人公は年頃の娘を持つ長屋の住人何某、そして彼に高説を披露する町の物識り先生のお二人。在原業平(ありわら・なりひら,825〜880,平城天皇の孫)の一首、

  千早振る 神世もきかず 龍田川 唐くれないに 水くぐるとは

を廻る一字一句の細部にわたる珍解釈は、本歌を知らない人でも思わず吹き出す「こじつけ」の極みなのですが、このお話し、実は落語家さんの創作ではありません。宝暦十一年(1761)八月、江戸・深川の木場町で生まれた戯作者・山東京伝(さんとう・きょうでん,1761〜1816)は東洲斎写楽のページで皆さんお馴染みの名前だと思いますが、彼が27歳の年、天明七年正月に『始衣抄(はついしょう)』(序題は『百人一首和歌始衣抄』)という滑稽本を、通油町の書肆・耕書堂(版元は蔦屋重三郎,1750〜1797)から出版しています。書名は、いかにも古典和歌の解説書めいたものですが、そこは「」を以って任じる京伝のこと、大伴家持以下十八人の作品を選び抜いて独自のこじつけ解釈を展開しているのですが、四番目に取り上げられている一首が上で紹介をしている業平のものなのです。そして歌にある「千早」「神世」がいずれも女性の名前であり「龍田川」が相撲取りの四股名であるという設定や、彼らの間で演じられるドタバタ騒ぎの筋書きも、全く落語と同じ「構成」なのです。それでは『千早振る』の原作者は京伝だったのか?と云うと、そうではありません。この歌を廻る笑い話は、京伝の「始衣抄」より十年近く前に出版された『鳥の町』や『百人一首虚講釈』でも紹介され、京伝自身が「この歌は遍く人の知るところなれども、その過ちを正し口伝をしるす」と前置きをしていますから、十八世紀後半のお江戸では、かなり知られた落とし話だったに違いありません。それを落語の「千早振る」に纏め上げた知恵者が噺家の世界に居たのでしょう。

筆名の由来=「始衣抄」には漢文と和文二つの自序が付けられていますがその中で、京伝という筆名の由来が明らかになっています。つまり、『楓葉山東』江戸城、紅葉山の東にある「橋」の「蔵」という意味です。

柿本人麻呂さんや紀貫之(き・つらゆき)の名をあげるまでも無く「和歌」は王朝貴族の世界を中心に詠み継がれてきました。そして政権の担い手が公家たちから武家に移ると共に「歌」のたしなみは、当然のように武士の間でも「文化的な」身に着けておくべき教養の一部として意識されたことで裾野を広げたのです。そして江戸期には、この流れを更に拡大させる格好の「道具」が現れました。それが「歌かるた」(「百人一首」)です。カルタそのものは名前からも分るように、ルーツは外国(ポルトガル)にあるのですが、既に天正年間(1573〜1591)には複製品が造られ、十七世紀半ば以降には幕府や諸藩がカルタの製造販売禁止令を出さなければならないほどの流行をみせました。これはカルタの図柄が如何にも「南蛮風」であり鎖国政策にそぐわなかったという面ばかりではなく、カルタそのものがご法度の「賭博」行為に使われたからに他なりません。

一方、平安の世から存在した「貝覆い」や「貝あわせ」といった趣向を下地に持っていたことで、和歌はカルタという道具とも容易に融合することが可能だったのです。また「合わせる」という単純な遊戯性が、本来カルタには無かった「二枚で一組」(読み札と取り札)という独自のスタイルをも生み出し、大いに「歌」の普及に寄与しました。「千早ふる」に代表される落とし話や、京伝たち戯作者が盛んに滑稽本などで「珍」解釈、「迷」論説を展開できたのも、市井の人々までが皆、こうした和歌に象徴される古典文学(の一部)に関する知識を、ある程度まで持ち合わせていたからに他なりません。勿論、粗忽な長屋の住人である八っあん・熊さんの言動が聞き手側の「笑い」を誘い出すことに変わりはありませんが、その「笑い」は決して蔑みの表情だけを伴ったものではなく、彼らの姿に己を投影させた、照れ笑いも含まれていたと思うのです。また、落語に登場する「物識り先生」「店のご隠居」という個性(ある意味での権威)、そして彼が果たす役割について考えて見るなら、明らかに江戸期の人々が健康な価値判断を持っていた事も分るでしょう。「滑稽」なのは「無学」な庶民そのものではなく、生半可でいい加減な「知識」をひけらかす「先生」の姿そのものだと言っているのですから。

紀貫之は人麻呂を高く評していた。  柿本人麻呂は歌聖と評された。

さてさて、今回は最後の最後まで「見出し」の文言が出てきませんでした。勿論、ここまでお読みになった皆さんは『もう聞かなくてもオチは分ったよ』とおっしゃりたいでしょうが、それでは高座が務まりません。幕府などが禁止した「天正カルタ」に代わり登場したのが武者や七福神の絵札を取り入れた和製カルタだったのですが、これが寛政の改革で禁止されるまで全国的に流布していた「うんすんカルタ」と呼ばれる七十五枚が一組のカルタです。そしてポルトガル語では「エース(1)」のことを「ウン」と言い「スン」が最高を意味したことから「うんとも、すんとも、言わない」の語源になった、と伝えられています。

ここからは管理人の極、私的な付けたしになりますので、はしょって下さっても構いません。ただ、京伝が「始衣抄」の自序をどのように記述していたのか、興味のある方はお付き合いください。

中学校の卒業式、管理人は、そ知らぬ顔で在校生たちに混じり、校門の手前で同級生たちを送り出す「蛍の光」を演奏しました。つまり吹奏楽部の部員だったので校歌吹奏は必須の要件。だから校歌の旋律と歌詞の一部は頭の片隅に残っていますが、昭和30年代の半ばに巣立った小学校の校歌を、未だに旋律・歌詞ともに空で覚えているのは何故でしょう。恐らく、入学間もない一年生の頃から音楽の時間などに反復して「教えられた」記憶の残滓の成せる業なのでしょうが、その歌詞の一番の一節、というより一言が、喉に刺さった小骨のように、記憶素子の中でわだかまりとなっていました。歌詞の文言の意味については担任や音楽の先生方から、それこそ耳にタコが出来るほど聞かされていたはずで、頭の中では「なんとなく」理解はしていたものの、京伝の「自序」を読む機会に巡り会うことで、その「もやもや」がやっと氷解したのです。

  一日、松の葉の館、何がしなりける浮かれ女のもとに訪う節、

  新造どち、あじ鴨のうち群れて、小倉山荘の色紙書きたるかたり合いて、

  競ひ戯れけるを見侍るに、猿丸が顔の、ましのごとなるは、

  名に愛でし絵空事と言ふにやあらん、法性寺忠通の入道の名を三度息つがず唱ふ人あらば賭物すべし。

長くなるので引用はここまでとしますが、我が母校の校歌にあった一節は次のようなものでした。

  わがどちぞ、あおげや、母校○○○

えーっ、お後がよろしいようで…。おしまい。

   
   
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