宇佐神宮と応神天皇そして稲背入彦命                      「サイトの歩き方」も参照してください。

近畿日本鉄道の南大阪線(大阪阿部野橋が始発駅)の各駅停車に乗り込み二上神社口駅で降りれば、葛木倭文坐天羽雷神社までは十数分の道のりである。漢字が幾つも並んだ難しげな社の名称は「かつらぎしとりにいます、あめのはづちじんじゃ」と読ませるらしいのだが、ほぼ、二年余り前に何故この神社を訪ねる気になったのか?わずか三十枚ほどの画像を何度眺めなおしても、その理由がとんと思いつかない…、それはさておき。「倭文(しとり)」はとても読みにくい言葉ですが、古い資料には「しずり」「しずおり」と読ませる例もあるようで日本古典文学大系の編集者なども「しずおり」が変化したものであろうと注釈しています。つまり、これは織物の一種で「和名抄」には全国に倭文郷と呼ばれる土地が五か所あったと記録されています。その内の一つが淡路国三原郡にあった倭文郷で、このオノコロ・シリーズの読者の皆さんは、物部氏の関係者が西暦九百年頃に編んだと思われる『先代旧事本紀』の中で「また、阿波の忌部の祖の天日鷲神(少彦名命の別名)に木綿を作らせた」(神祇本紀)と云う文言があったことを覚えているはずですが、その資料は続けて「また倭文部の祖の天羽槌雄神に文布を織らせた」とも記載しているのです。

旧事本紀に、ほぼ一世紀ほど先行して編纂された書物が斎部広成の『古語拾遺』ですが、そこにも「天日鷲命は阿波忌部の祖」「倭文遠祖の天羽槌雄命に布文を織らしめ」と記され、日本書紀は機織りの業を受け継ぎ全国に広めるだけが倭文氏の仕事だった訳ではなく、古代では全く異なった一面もあった事を次のように記録しています。

  ここに、二の神(経津主神と武甕槌神)、諸の順わぬ鬼神たちを誅いて[一にいわく、二の神遂に邪神および草木石の類を誅いて、皆すでに平けぬ。
  その不服わぬ者は、ただ星の神、香香背男のみ。故、また倭文神建葉槌命を遣わば服いぬ。故、二の神、天に登るという。此れをば「しとりがみ」と云う。] 神代下第九段

又の名を天津甕星とも称する天香香背男は、書紀にのみ記載され古事記には全く姿を見せない神様なのですが、斎部氏や阿波忌部氏の系譜に登場する「天背男命」と同神だと仮定するなら、この神様は当サイトの主人公の一人でもある天津彦根命、つまりは記紀神話で天高原から葦原中国に使者として遣わされたにも拘らず「オオクニヌシの娘、下照姫と結婚。その国を獲ようと画策した=反逆した」として高木神(高皇産霊神)の「返し矢」に斃れた天若日子とも同人だと云うことになります。また、国譲り神話においてオオクニヌシがアマテラス側の要求に従がうか否かを「息子」コトシロヌシの判断に委ねたとしている伝承内容の類似点にも注目すると、ここで武勇を示した建葉槌命も、天津彦根命と係わりの深い存在であったと推測できそうです。古代祭祀に欠かせない神器や神具をつくりながら、他方では武器(刀剣弓矢)生産にも関わっていたと見做すことが出来る天津彦根命一族の系譜は、これまで何度も紹介してきましたが、今回取り上げた倭文氏関係のものは次のように伝わっています。

  倭文連  神魂命の子、角凝魂命の男、伊佐布魂命の後なり。  「新撰姓氏録」摂津国神別     [註:伊佐布魂命は高木神と同神と見られる]
  天底立命−−天背男命−−天日鷲翔矢命−−天羽雷命(一云う、武羽槌命)   倭文宿禰、美努宿禰、鳥取宿禰らの祖  「斎部宿禰本系帳」
  玉祖連     天背男命−−櫛明玉命−−天湯津彦命………飽速玉命

三番目に上げた「玉祖連」には天羽雷命の名前が出ていませんが「先代旧事本紀」は「神祇本紀」の中で、

  天太玉命は忌部首らの祖  天明玉命は玉作連らの祖  天櫛玉命は鴨縣主らの祖

と列記し「玉作り」を職掌とした一族などの祖先がいずれも天津彦根命の別名であること、更には「古語拾遺」も「出雲国忌部の祖、玉作りの祖」が櫛明玉命であり、幾つもの氏族を「天太玉命」が率いて祭祀を掌ると明言していますから天湯津彦命という神様は、天日鷲翔矢命(少彦名命)の息子である天羽雷命の又名であろうと判断できます(斎部氏の系譜には天日鷲翔矢命−−大麻比古命−−由布津主命とある点も参考に成ると思われます)。

葛木倭文坐天羽雷神社   PR

古語拾遺  先代旧事本紀  笹原系譜

さて、ここからは例のごとく筆者の「想像」領域となります。以前取り上げた「阿蘇ピンク石と継体天皇」のページを未だ読んでいない方のために、予備知識として少し前置きします。九州の宇土半島の基部に当たる馬門という土地から切り出される阿蘇溶結凝灰岩は、通称を阿蘇ピンク石と言い、近畿や瀬戸内周辺の古墳で石棺材として用いられました。大阪高槻市に現存する今城塚古墳は、研究者の間で六世紀初めに畿外から大王の地位に就いた継体天皇の真陵ではないかと見られているのですが、そこからも阿蘇ピンク石の大きな石材が出土しており、息長氏出身の大王や豪族たちが自分たちの故地から、馴染みの石材を態々取り寄せたのではないかとも考えられているのです。オノコロ・シリーズでは、その継体天皇の祖先を四世紀末に登場した応神天皇に求め、更には彼の父親を神武帝の直裔である仲哀天皇ではなく、垂仁天皇の娘婿として大王家の一員となり、景行天皇の時代には鉄資源の開発で帝室の発展にも大きく寄与した稲背入彦命その人ではないかと想像しています。

阿蘇と言えば「火の国」そして「肥の国」であることは言うまでもありません。その地方の情報を集めた「肥前風土記」総記には次のような記述が残されています。

  肥前の国は、本(もと)、肥後の国と合わせて一つの国たりき。昔、磯城の瑞垣の宮に御宇しめしし御間城の天皇(崇神)のみ世、肥後の国、益城の郡の朝来名の峯に
  土蜘蛛、打猿・頸猿二人あり、徒衆一百八十余りの人を率い、皇命に拒かいて、降服いあえざりき。朝廷、勅して、肥君らが祖、健緒組を遣りて、伐たしめたまいき。(中略)
  やがて、健緒組の勲をあげて、姓名を賜いて火君健緒純といい、すなわち、この国を治めしめたまいき。

ここに肥の国の英雄として描かれている「健緒組(タケオクミ)」が、国造本紀に「崇神朝、大分国造と同祖の遅男江命を火国造に定めた」とある人物と同一人と見られることから、上で検討を加えてきた阿蘇ピンク石の畿内運び込みにも、当然、肥君一族が深く関わっていたものと思われます。一方、彼らが活動の拠点としていた地域が「阿蘇」周辺であることから、当地の有力豪族である阿蘇氏との関係も考慮すべきだと言えますが「阿蘇宮由来記」は記紀が伝えた系譜を踏襲し、阿蘇国造の系図を「神武天皇−−神八井耳命−−健磐龍命−−速瓶玉命」のように綴っています(つまり、畿内の多氏と同族だと主張している)。しかし、この一方で『阿蘇家譜六』に含まれる「笹原系譜」は健磐龍を始祖としながらも、

  阿蘇大明神(健磐龍命)−−国造大明神(速瓶玉命)−−郡浦大明神−−甲佐大明神(健男玉命)−−健軍大明神(健緒組)−−惟人命

と言う内容で、阿蘇氏と健緒組が「直接的な姻戚(始祖と子孫)」であった可能性を示唆しています。また、阿蘇四社の一つに数えられている甲佐神社(上益城郡、肥後二の宮)では『健磐龍命の子である八井耳玉命』を主祭神とし、宇佐氏一族の麻生氏は「高皇産霊命−−天活玉命(一云、伊久玉命)−−天三降命−−宇佐津彦命}という祖神系譜を伝えています。ここで再び天湯津彦命に着目すると、先代旧事本紀・国造本紀が玉祖連の同族として掲げた二つの氏族の系譜が興味を惹きます。それは、

  天湯津彦命の五世孫、飽速玉命を阿岐(安芸)国造とした。   天降天由都彦命の十一世孫の塩伊乃己自直を白河国造とした。

という内容なのですが、天湯津彦命を「天降天由都彦命」と書き換えた形で表現している個所です。白河は東国の地であるため一見関連が無さそうに思われがちですが、地元の白河神社では国造の祖である塩伊乃己自と共に天太玉命を祭神としてお祀りしていますから、天孫族の流れであることに間違いなさそうです。筆者は更に宇佐宿禰が、

  天三降命−−菟狭津彦命−−常津彦命−−稚屋彦命−−押人命−−珠敷命    [註:菟狭津彦命=神武に一柱騰宮を作り献上した、宇佐国造の祖]

の系譜を伝え、宇佐の神官家として知られる漆島公の系図では、多氏の系譜を下敷きにした憾があり、

  神武天皇−−神八井耳命−−彦八井耳命−−武宇都彦命−−武稲富命−−武河上命−−建久久知命−−建男組命−−建御阿久良命

の様に伝えられている点などを総合的に考えてみると、1 天三降命という神名をアマテラスの命を受けて『三番目に天降った』神様という意味だと捉えると@天忍穂耳命A天穂日神B天若日子の順であったから、この神様は天津彦根命と同神であると考えられ、この点からは麻生氏系譜に整合性が認められる。2 宇佐氏の祖・菟狭津彦命は「神武帝」と同時代の人であるから宇佐宿禰系譜の云う「天三降命」は天津彦根命本人ではなく、その直系子孫の一人であると見られ、世代的には孫に相当するのではないかと思われます。従って、該当するのは「天津彦根命−−天日鷲翔矢命(少彦名命)−−天羽槌雄命」つまり天湯津彦命その人だと言えます。祖先を同じくしても氏族ごとに独自の「神話、伝承」を持つため、祖神の名称すら一致しないのが古代系譜の特徴と言ってしまえばそれまでですが、今回の系譜探索で得られた結論は、

  肥(火)の君・健緒組と阿蘇氏は「天三降命(天津彦根命)と天日鷲翔矢命(少彦名命)」を祖先に持つ同族であり、宇佐国造家も同様である

と云うものでした。神武天皇は「東征」を目前に控え、東の国には既にニギハヤヒという者が先んじて君臨している事を知っていましたが、それは筑紫に拠点を構え、瀬戸内航路と日本海航路の双方に睨みを利かせていた宇佐氏からの「畿内情報」が逐次もたらされていたからかも知れません。また、後世の天皇家が宇佐神宮の「神託」を受けて帝位の委譲を検討したのも、宇佐という社が帝室にとって伊勢以上に身近な、そして威信に満ちた存在であったからに違いありません。

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