宇佐神宮と「やはた」神について                          サイトの歩き方」も参照してください

 おほ海の 磯もとどろに 寄する浪  割れて砕けて 裂けて散るかも

鎌倉右大臣・源実朝(みなもと・さねとも。1192〜1219)の私家集『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)に収められている一首、個人的には、この時間が刻々と進む有り様が、劇の一場面一場面のように、畳み掛けるように映し出される作風が好きなのですが、みなさんの眼にはどう映るのでしょう。ところで、今回のお話は八幡さまのはず、なんで鎌倉幕府の将軍さまが、いきなり登場するのか、といぶかしむ方も多いのでは。でも、八幡さまと源氏の縁は結構古くて、深いものがあるのです。

さて、日本で一番多くある神社は「お稲荷さん」、では二番目に多い神社は?と聞かれたとき、すぐに答えられる人は余程のカミサマ通。実は管理人も、今度、宇佐の神様について書こうと思い立ち、WEBで資料を集めていたとき初めて知ったのですが、全国の神社のおよそ三分の一、実に3万社が八幡神社なのです。関西では京都・岩清水八幡宮、そして関東では鎌倉・鶴岡八幡宮が有名ですが、その大元締めともいえる総本社が大分県・宇佐市にある宇佐八幡神宮で、日本史の中では八世紀に最も注目を集めた神様だと言えます。

 一口メモ=神様のランキングは、1位稲荷神社、2位八幡神社、3位神明神社です 

宇佐神宮由緒記』によれば、現在の場所に宇佐神宮が正式に鎮座したのが西暦725年(神亀2)で、そのときの主祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)であったとされています。この「ほんだわけのみこと」は歴代天皇の中でも「」という文字が贈り名に含まれている三人(神武、崇神、応神)のうちの一人で、古代史の中でも別格の存在なのですが、その母親は三之御殿に祭られている神功皇后(じんぐうこうごう。和名=おきながたらしひめのみこと。夫は仲哀天皇たらしなかつひこのみこと)と記紀の系譜では位置付けられています。また、同記によれば、創建からさかのぼること二世紀余、西暦568年(欽明天皇29年)、

    泉の湧く処に「鍛冶をする老人」や「八つの頭のある龍」が現れ、その姿を見た者は忽ち病になったり死んだりした。
   しかし大神比義という者が三年余り 断食して神行をすると、その泉の傍らに童子が現れて
  『我は誉田の天皇広幡八幡麿なり』 と言ったかと思うと忽ち黄金の鷹の姿に変身し、駅館川の東岸 の松の上に留まった

という伝承が残されているそうです。勿論、このお話は神官・大神氏の起源をできるだけ古い時代に設定し、それだけ由緒ある家柄なのだという事を主張するためのものなのですが、それでも「鍛冶」=鉄・鉄器(製鉄)と「八つの頭のある龍」の主題は、オオクニヌシの章で見てきたヤマタノオロチ伝説に酷似しており、もともとは同じ神話ではなかったのか、という素朴な印象を与えます。ただ、ヤマタノオロチ神話と異なるのは、この伊勢神宮と並び称される宇佐神宮にまつわる神話が古事記・日本書紀に全く記されていない点にあるのですが、もう一点、これまでシリーズで取り上げてきた色々な神社の祭神と大きく異なっている所があります。さて、それは一体なんでしょう?それは他の神社の祭神が、あくまでも神話上のカミサマであるのに対して、この宇佐神宮は、実在の人物であるかどうかは別にして第15代天皇その人をカミサマとして祭っている神社である、という事実です。言葉を代えて言うならアマテラス・オオクニヌシが古いカミサマであるのに対して、宇佐のカミサマは比較的新しいということです。

海の彼方に見えた物は? 神々が訪れた島々?

その応神天皇の両親については上で少し触れましたが、その和名を注意して見ると興味深いことが分かります。そうです、二人とも和名の一部に「たらし」という言葉が含まれていますね。しかし、そんな二人の大切な子供なのに、応神には「たらし」という称号めいた言葉が見当たりません。これは何を意味しているのでしょう?また「たらし」とは何なのでしょうか!!この「たらし」という称号のような言葉については、別に「たらしひこ」「たらしひめ」という使い方が多く見られることから大王の位(くらい)を意味する言葉だと解釈する人もあるのですが、それだと「たらし」が付いていない天皇の和名の説明がつきません。はっきりとした事は分かりませんが、管理人は一族を代表する者への尊称ではないかと考えています。ただ、その尊称・称号も時代というか世代によって変化があり、すべての天皇がそのように呼ばれている訳ではありませんし、記紀の言う系図が正しいものとして、その称号が子孫にそのまま受け継がれているわけでもないのです。この辺りの事情は文章で説明するよりも一覧表にした方が分かりやすいと思いますので、下表を参考にしてください。(代が欠如しているのは単に簡略化したためです)

諡号 和風諡号 諡号 和風諡号 主な出来事
  1 神武  かむやまといわれひこ
 はつくにしらすすめらみこと
21 雄略  おおはつせわかたけ
  6 孝安  やまとたらしひこくにおしひと 22 清寧  しらにのおおやまとねこ
  8 孝霊  おおやまとねこひこふとくに 26 継体  おおど    在位507〜531
10 崇神  みまきいりひこいにえ
 はつくにしらすすめらみこと
29 欽明  あめのくにおしはるきひろにわ
 在位 539〜571
 538年  仏教が伝来する
11 垂仁  いくめいりひこいさち 30 敏達  ぬなくらのふとたましき  592年  隋が中国を統一
 602年  百済が新羅を破る
 607年  高句麗が百済を破る。
             第1回遣隋使
 618年  唐が中国を統一
12 景行  おおたらしひこおしろわけ 31 用明  たちばなのとよ
13 成務  わかたらしひこ 32 崇峻  はつせべのわかささぎ
14 仲哀  たらしなかつひこ 33 推古  とよみけかしきや
15 応神  ほむたわけ
 いさざわけ    即位 391?
34 舒明  おきながたらしひろぬか
 在位 629〜641
16 仁徳  おおさざき 35 皇極  あめとよたからいかしひたらし  645年  蘇我入鹿暗殺
 660年  百済が滅亡
 668年  高句麗が滅亡
 676年  新羅が半島を統一する
 711年  稲荷神社創建
 712年  古事記が完成
17 履中  いざほわけ  38 天智  あめみことひらかすわけ
18 反正  みずはわけ 40 天武  あめのぬなはらおきのまひと
19 允恭  おあさつまわくご 44 元正  やまとねこたかみずきよたらし
 在位 715〜724

どの代のどの人からが実在した人物なのか、という難しい話はさておいて、上の表を見てもらえば、或る一つの傾向があることに気付きます。それは「初代から14代までの天皇に用いられていた『たらし』の称号が15代から20代までの天皇では『わけ』という尊称に代わり、かなり時代の下った34代の舒明天皇から再び『たらし』の称号が復活している、という事実です。ただし、上表の変化を「復古」と見るかどうかについては慎重であるべきでしょう。何故なら、歴代天皇の諡号(おくりな)が後から(国史の編纂作業を通して)附けられた可能性を全く排除することは出来ないからです。もっとくだけた言い方をすれば、7〜8世紀の政治状況や権力構造といった現実が、神々の世界にも相当な影響を与えていたかも知れないということです。ただ、それらの複雑な背景を無視して、素直に上の表を見直せば、初代から40数代の歴史の中で、色々な称号を持つ天皇が入れ替わりながら存在していた、ことが分かるでしょう。また、表には入れてありませんが、7世紀終盤で大活躍した持統天皇(じとうてんのう,645〜703)の和風諡号が、ただの「うのささら」であることも合わせて考えると、この「たらし」「わけ」といった呼称も絶対的なものではなく、その人の出自(家柄・血統)を表す記号のようなものだったのかも知れません。名称にこだわりすぎるのは良くないのかも知れませんが、記紀の記述に即して言えば、神話上で最も活躍する日本武尊(やまとたけるのみこと)の父・景行天皇の直系であり、両親とも「たらし」の称号を持つ第15代の応神天皇の名前が「わけ」であること、そして、その後何代も「わけ」の天皇が続いていることに、どうしても違和感を感じてしまうのですが、皆さんはどの様に受け止めるでしょう……?

 八幡さまは町の鎮守  宇佐神宮   PR

名前の詮議はこれ位にして、宇佐のカミサマにもどりましょう。先に、宇佐の主祭神が他の神社にくらべて「新しい」実在していたかもしれない人物であることを紹介しましたが、ややこしいことに宇佐の神様は応神・神功の親子だけではないのです。第三の神様は、天平三年(731)に祭神となった(ひめ)大神で、日本書紀の一書は、この女神を宗像三女神(多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)だと説明しています。もし、書紀の言う通りだとすると話しは更に込み入ったことになります。と言うのも、オノコロ・シリーズの忠実な読者なら覚えているように、宗像三神は須佐之男(すさのお)の子供であり、多紀理姫命は大国主命(おおくにぬし)の妻となっており、明らかに天孫系(アマテラス系)の神様ではありません。また、この比淘蜷_については宗像の神ではなく玉依姫(たまよりひめ)だとする説もあり、そうだとすれば系譜上、玉依姫は神武天皇の母親に当たる存在ですから、辻褄はあうことになります。どちらの話が真実を伝えているのか判断に苦しむところですが、いずれにしても海あるいは航海を司るカミサマを祀る必要性があった、と言えるでしょう。(玉依姫は大綿津見神[おおわたつみ]の娘とされています。海神の娘という事です)

激動の7世紀、その時「日本」は動いたのか?

では、何故、神功・応神親子と海のカミサマを一緒に、それも5柱もお祭りする必要が当時の九州にあったのか、その理由は、かなり明確に分かっています。記紀の記述に従えば、神武以来、全土の平定が幾多の紆余曲折を経て進められていましたが、各地には実力を蓄えた豪族が割拠し、特に九州では大陸・半島の影響を強く受けた実力者も多く、中には公然と刃向う者も居たのです。もっと想像を逞しくすれば、先進文明を背景とした半島勢力が、いつ本土へ進攻してもおかしくない、というのが7世紀までの日本の実情だったと言えるのかもしれません。神功皇后の「三韓征伐」も、当然そのような政治情勢を踏まえたものであったことは言うまでも無く、史実なのか虚構なのかの議論は別にして、当時の国際情勢(主に朝鮮半島)の動向は、直接、日本国内を揺るがせかねない重大な関心事であり、半島への関りを持つということは、そのまま自国の安全保障の役割をも果たしていたのです。上の表を、もう一度見てください。7世紀には大陸で巨大な統一国家が生まれ、7世紀後半には、その余波をもろに受けて半島内が大混乱となりました。この半島内での相次ぐ戦乱、国家の盛衰が日本に何をもたらしたでしょう。今からでは想像もできない規模で、人・モノ・技術=それは文化そのものといってもよい=の流入があったのではないか。そして、次に起こり得る事態にも備えなければなりません。

日本は、卑弥呼の時代から連綿と大陸・半島に存在する国家・集団と緊密な関係を維持していました。その実態は朝献貿易であったのかも知れませんが、常に外交アンテナを大陸方面に向け国際情勢の変化を見逃さない姿勢をとり続けていたのです。そして半島にある国家や集団とも交流を重ね、一時期には半島内に相当の影響力も発揮し得ていたのですが、562年に任那(みまな)が滅亡、660年には百済(くだら)も滅亡し、633年に「白村江の戦」(はくすきえのたたかい)で唐・新羅の連合軍に敗北した後、日本は半島への足がかりを全く失うことになります。それどころか、今度は大陸、半島からの進攻を防ぐ手段を真剣に考慮しなければならなくなったのです。

政治の中枢に居る人々は考えます。攻めてくるとすれば、それは何処か?それは地理的にも近く、過去のいきさつからみて、内応する者が現れる可能性のある九州に違いない。では、先ず、九州の守りを固めるべきだ−と。半島国家そして、その背後に控えている大陸国家の実力を一番よく知っていたのが当時(8世紀初頭)の権力中枢に居た実力者・藤原氏であることは言うまでもありませんが、何世紀もかけて日本国内で地力を培ってきた渡来系の豪族たちも、文明の持つ底知れない力・武力について感情を交えない冷静な評価を下していたに違いありません。そうであれば、九州の地に出来る限りの防御陣地を築き上げ、かつ最も威力のある守護神に最前線となる土地を守ってもらわねばなりません。この時、真っ先に候補となったカミサマが天照大神ではなかったのか?しかし現実には「わけ」王朝の初代天皇の応神が祭られることとなった。それは時の権力者の側に『万が一、外国との戦いに敗れることがあった場合、守護神として祀られた神様の威光が失われてしまう』=つまり、民衆の信頼を失ってしまう=恐れを抱いていたせいではなかったのか?そのため、わざわざ欽明年間に誉田八幡麿が現れた、という「伝説」が創られたのではなかったのか。そのように推理してみたのですが、いかがでしょう。記紀神話を素直に読み、その内容が、ある程度史実もしくは確かな伝承を正しく反映していたものであるのなら、応神ではなく、半島内で大活躍をした神功を先ず主祭神とするのが自然なあり方で、その子供(とされる)応神を第一のカミサマとしたところに、どうしても作為を感じてしまうのです。

あづまなる みちのく山に 黄金花咲く

幸いなことに宇佐に祀られることとなった応神天皇・誉田別尊の威光はあらたかなもので、国内では藤原氏の一族・藤原広嗣(ふじはら・ひろつぐ,?〜740)が乱を起したものの、異国からの進攻によって国内が混乱することもなく表面的には平和な日々が続きました。そこに『黄金神託』が下されるのです。宇佐神宮創建の前年、45代天皇に即位した聖武は奈良東大寺の大仏建立を計画しますが、当時国内では金の産出量が少なく、仏像を飾る金が不足していました。この時を待っていたかのように宇佐神宮は『必ず黄金を国内で産出する』という神託を発し、なんと、その言葉どおり陸奥の国から大量の黄金が発掘されたのです。偶然にしては、よく出来た話です。そのタイミングの良さは絶妙で宇佐の神託が下された、わずか1年余後のことでした。そして、その光り輝く黄金900両を献上した人物の苗字が百済王だとしたら、皆さんは、どう思われるでしょう。(この場合の「両」は後の時代の貨幣単位と同じではなく、重さの単位を示したものです)

百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)という人は、その苗字が示すように7世紀半ばに滅亡した半島国家の一つ・百済の王子である禅広(ぜんこう、善光とも書く)の曾孫(ひまご)に当たる人物で、「百済王」の姓は41代持統天皇が与えたもの。697年生れの敬福は官僚社会を比較的順当に勤め上げ、46歳の年(743)陸奥守(現在の府県知事)に任じられます。そして3年後の746年4月には上席だと思われる上総守に栄転したのですが、その5カ月後の同年9月、再び陸奥守に戻っているのです。聖武天皇を中心とした、8世紀初頭から中盤にかけての主な登場人物たちの動きを表にまとめると、ほぽ、次のようになります。

 西暦 その年の出来事  西暦  その年の出来事
 720   藤原不比等が亡くなる  743   10月  天皇が盧遮那仏の建立を発願する
 敬福陸奥守に任じられる
 724  聖武天皇が即位
 725  宇佐神宮に誉田別命・応神天皇を初めて祀る  745  行基(ぎょうき)が大僧正となる
 729  左大臣・長屋王の変
 藤原安宿姫を皇后とする(臣下としてはじめての皇后)
 746  僧正玄ムが筑紫の観世音寺で亡くなる
 4月 敬福・上総守に任じられる
 9月 敬福・再び陸奥守に任じられる 
 737  藤原不比等の4人の息子が相次いで亡くなる
 玄ム(げんぼう)が僧正となる
 738  阿倍内親王(後の孝謙天皇)を皇太子とする
 橘諸兄(光明皇后の異父兄)が右大臣となる
 747  宇佐神宮が黄金の産出を神託する
 天皇不例により光明皇后が新薬師寺を建立
 740  藤原広嗣(不比等の孫)の乱  749  4月 敬福が黄金900両を献上

待望の金が産出されたと聞き、宮廷歌人・大伴家持(おおとも・やかもち、718〜785)は、大喜びの天皇を讃え、

    すめろぎの 御世栄えんと 東なる  みちのく山に 黄金花咲く

と詠んだそうですが、百済王の「黄金発見」は、本当に偶然だったのか?そうは思いませんよね。まして、この8世紀半ば、丁度大仏建立事業の中心に居た造仏担当大臣の国中連公麻呂(くになか・むらじ・きみまろ)が百済滅亡の時に亡命してきた百済王家の臣下・国骨富(こくこつふ)の孫だった、と知ったなら…。

百済王」と名乗る人物とを巡る関係

藤原一族の全面的な支援を受けてはいるものの、一方では綱渡りに近い国政運営を続けなければならなかった聖武天皇は仏教への関心を年毎に深めてゆきます。大仏建立発願の年、百済王・敬福は初めて陸奥守に叙任されますが、これも後の動きを考えれば宮廷内での念入りな根回しの結果だったと言える人事だったのかも知れません。それは兎も角、敬福は天皇の意向を十二分に知りえる立場にある、かつての家来筋から、大仏鋳造にかける聖武の熱情と黄金不足の現実を逐一知らされていたに違いありません。『続日本紀』は天平神護二年六月の項として敬福の死去を記し『放縦にして物にこだわらない』豪快な人物であったと惜しんでいますが、陸奥着任から5年、金鉱の発掘を黙々と進めていたのではないでしょうか。勿論、900両の黄金を敬福自身が山に分け入って探した訳ではありません。今でも熟練の山師には「遠くから山の姿と、山と谷から湧き上がる気を見るだけで、そこにどの様な金属が埋蔵されているのか分かる」のだそうですが、百済王も祖父の代から仕える部下や国の滅亡で居場所と職を失った技術者集団を相当な規模で抱えていたと思われるのです。大量の黄金が一度に見つかる確率は極めて稀です、一旦、上総に移された敬福が、わずか半年足らずで再び陸奥に返り咲き、それから2年余の歳月を待たねば成らなかったことをみても、金の採掘は、やはり困難の連続だったのでしょう。そして、このお話と、先に見た大神氏の伝説に、何か似通った意図を感じるのは書き手だけの一人合点なのでしょうか?

閑話休題−−。黄金の献上で天皇の信頼をますます篤いものとした百済王・敬福は従三位(じゅさんみ)を授けられ、宮内卿兼河内守という要職に任じられました。(従三位という位がどれほどスゴイかと言うと、皆さんも良くご存知の、あの黄門様・水戸光圀(みと・みつくに,1628〜1700,と同格なのですよ)その百済王の一族が祭られている神社が現在、大阪府枚方市にある百済王神社で、祭神は二柱。誰だと思います?そう、一人目は勿論ご先祖様である百済王神ですが、問題は2人目として祭られているカミサマの方です。なんと、百済王と並んでいるのは、応神でも神功でもない須佐之男命なのです。それでは、肝心の黄金を産出して日本初の国際的事業であった大仏開眼供養を成功に導いた陸奥には、それに相当する神社が存在しているのでしょうか?

百済王神社  黄金山神社  石清水八幡神社

ちゃんとあります。その名も『黄金山神社』(こがねやまじんじゃ)という延喜式神名帳に記載された小社が、宮城県遠田郡涌谷町に存在しているのです(上の画像。昭和42年に国史跡の指定を受けている)。そして気になる祭神ですが、こちらは三柱あり、まず金属のカミサマ・金山毘古神、そして何故か猿田彦命、三番目が意外にも天照皇大神でした。二つの神社いずれにも宇佐の陰は射していないのです。金がなくて困り果てているときに「神託」を出し、見事に黄金を見つけることが出来たのは、一にも二にも宇佐神宮のカミサマのお陰。当事者である百済王神社そして黄金山神社の何処にも誉田別命や神功皇后の名前は欠片も見当たりません。では、あの「お告げ」は無かったのでしょうか?

宇佐神宮が託宣を下していたのは間違いありません。黄金の出た天平感宝元年11月、八幡大神(やはたのおおかみ)の禰宜などに大神(おおみわ)朝臣の姓が下され、これに応じるように翌12月27日には八幡大神(禰宜女・大神朝臣杜女)が「」色の輿(天皇と同じ)に乗ったまま東大寺を参拝した、という記録が残っていますから、宇佐の神託があったこと自体は疑う余地が残されていません。ただ、ここまで書いてきて思うのですが「話の順序が逆ではなかったのか?」と…。

今の今まで「宇佐の託宣」⇒「黄金の発見」⇒「東大寺大仏の完成」⇒「九州と都との連携の強化」=といった図式でお話を進めてきましたが、分かってきた色々な事情を総合して考えると、

    半島国家の盛衰が、渡来系の人たちの動きを活発にし、日本国内での影響力も増した

ことは確実で、特に古い時期(5,6世紀)から生活の基盤を日本に移した渡来人は、8世紀までの間に実力も身につけ、中央政権の座を占める一部の豪族(蘇我氏、藤原氏など)とも微妙なバランス感覚で一定の距離を保ちながら、直接衝突することなく官界への進出も果たしていた。また、渡来系の豪族は、その財力を背景に次第に朝廷内部にも存在感を持った勢力として認識されるようになり、秦氏の稲荷神社創建に象徴されるような、日本古来のカミサマとの融合にも成功し、恐らく遷都や寺院建築といった事業に際しては率先して財貨・人材・技術などを提供して協力を惜しまなかったのではないか。だが、中央での成功を果たしたのは、ほんの一部の氏族であり、地方特に渡来系と縁の深い九州の豪族には8世紀半ばに到るまで中々出番が回ってこなかった。そして、7世紀から8世紀初めにかけての国史編纂作業の過程で、中央豪族との擬似的な血縁関係(簡単に言えば祖先をどのカミサマにしてもらうか)を結ぶことが出来なかった者にとって、今上(聖武天皇)が仏教に熱心な人であることが千載一遇の機会に思えたとしても不思議ではありません。

創り出された「黄金伝説」ではなかったのか?

三宝(みほとけ)の奴(やつこ)と仕える天皇」とまで東大寺で述べたという聖武帝の信仰は生半可なものではなかったようですが、それは、政界官界の雑事から遠ざかりたいという現実的な思いもあったでしょうが、自分を支えてきた大職冠・藤原不比等の息子である4人の参議・左大臣を僅か5カ月の間に次々と亡くし、頼りとしていた僧正・玄ムが「藤原広嗣の亡霊のために」怪死したと聞けば、仏様への傾斜を強めたのも無理からぬことと言えるでしょう。その天皇が大仏の鋳造を思い立った、と聞いた大神氏等は小躍りしたのではないか?『大仏様に必要な銅なら、自分たちの勢力範囲に十分あるじゃないか!』と。

 豊前風土記・逸文=昔、新羅の国の神、自ら渡り来りて、この河原に住みき。即ち、名づけて鹿春の神という。また、里の北に峰有り。頂きに沼有り。柘植の木生い、又、龍の骨あり。第二の峰には並びに柘植等あり。この新羅の神様は「辛国息長(からくにおきなが)大姫大目命」という名前です。はてさて、これはどこかで見たような?ペー ジの先頭あたりを探してください。
 僧正・玄ム=713年、留学生して唐に渡り735年に帰国。藤原四人兄弟が亡くなった後、僧正に抜擢される。永らく病床にあった皇太后・藤原宮子を快癒させたことにより聖武天皇の信頼を増すが、745年1月、僧行基が大僧正に任じられたことにより九州の観世音寺に左遷され、翌746年6月死去した。『東大寺要録』は、その様を《忽然として空に登ること数丈、地に落ちてすでに死せり。更に血と骨と無し》と伝えている。出自は物部氏の分流である阿刀氏(あとし)とされるが、渡来系の人物であったとする説もある。
 大僧正・行基=河内国出身の人で15歳で出家。37歳の時から民間への布教を始めたという。713年には朝廷から『小僧行基』と名指しで布教活動を弾圧されているが、 723年の三世一身法により自発的な開墾を奨励する政策を背景に行基の治水開発活動は大いに発展、その声望は日増しに各地で高まった。聖武天皇も行基に信頼を寄せ、745年正月、異例の大僧正に任じた。出自は高志氏で、高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文氏(かわちのあやし)とされるので、勿論、百済系の渡来氏族なのである。

そこで大神氏を中心にした「黄金伝説」作戦が始まります。勿論、これは虚構、お話しの世界ですから、間違っても学校や会社の友達に教えてはいけません。渡来系の豪族ネットによる筋書きはこうです−。

    まず、大仏の鋳造に必要な銅と、技術者を提供して存在を認めてもらう

    次に、大仏は、やはり神々しく金で飾るべきものだという考えを中央で広める

    第3に、百済王を是が非でも、必要なら財を使ってでも陸奥周辺の国司に任命してもらう

    国内では黄金が産出しないという「神話」を天皇の耳にも入れておく(遣唐使の派遣が検討されたのは事実)

    百済王の発掘作業と大仏鋳造の進み具合を見て宇佐神宮が「神託」を下す

    直に発見されては有り難味が少ないので一番良いタイミングで黄金を献上する

渡来系の豪族たち、そして九州のカミサマ、それに本当は東大寺(玄ムに代わり大僧正となった行基(ぎょうき,688〜749)が大仏鋳造を支援した)自身も一枚噛んでいたのではないか、というのが管理人の考えなのですが、結論は皆さんが自由に想像してみてください。さて、このお話しも終りが近づきました。そろそろ「やはた」について書かねばなりません。後の神仏習合により「八幡大菩薩」と称され、一般社会にも浸透したため「はちまん」さまと呼ばれることが多い神様ですが、もともとの呼び名は「やはた」さまでした。その意味は「や・はた」とするのか、或いは「や・は・た」と分けて考えるのかで解釈も変わってくるのでしょうが「や」については、別の章でも少し触れて来たように「やた」の鏡、「やた」の剣、そして「やまた」のオロチの「」と同じ、『強い・多い・大きい』を意味する言葉だと思います。[『出雲国風土記』では「越の八口(こしのやくち)と表現している]次に「はた」ですが、最も分かりやすい解釈が渡来系の代表選手・秦氏の「はた」ではないかという見方です。また、これも言葉遊びと採られる恐れがありますが「幡」も「はた」であり、古代の大切な手工業「機」も「はた」です。どれが一番本来の意味に近いものなのか自信がないので「はた」についての断定は避けておきます。良い解釈があれば、是非、教えてください。

源氏の「守り神」としての八幡大菩薩

建保七年(1219、改元して承久元年)正月二十七日、午後六時、鎌倉将軍、右大臣・源実朝は恒例の拝賀のため鶴岡八幡宮へと出立した。鎌倉幕府の要人は勿論、京都からはるばると行列に扈従するために下向してきた殿上人、家来、官人、隋兵などなど錚々たる陣容で、幕府編纂の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』は従う武者だけで千騎を数えたと記している。その一行が宮の楼門に入ろうとした時、不思議な事が起こった。幕府の重鎮・北条義時(ほうじょう・よしとき、執権として実質的に幕府を運営していた)が『俄に心神御違え』(突然、なにもかもが分からなくなり)急遽、その場から退去帰宅、代参を文章博士の源仲章(みなもと・なかあき)に頼み込んだ、というのである。神拝を滞りなく終えた実朝は、

    出ていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春をわするな

と庭の梅を観て禁忌の和歌を詠み、南門から退出、車から降りようとするところを暗殺の刃が襲った。下手人は実朝の甥、八幡宮の別当・公暁(くぎょう,1200〜1219)その人であった。その場に当然居るべきはずだった義時の身代わりとして仲章が同じ運命を辿ったことは言うまでもありません。

宇佐神社は東大寺の守護神として手向山に鎮座(手向山神社)しましたが、他の神社とは異なり、積極的に仏教との習合を深めました。仏教側でもこれを喜び仏様の守り神と崇めて『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ』の尊称を奉ったのです。そして時代が下り、平安時代になると、平安京の裏鬼門(南西の方角)を護るため京都・男山に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が勧請され、こちらも朝廷の篤い尊崇を受けました。第56代清和天皇の第6皇子・貞純親王を祖とする清和源氏は満仲(みつなか)の子供の代から諸家に分かれ、それぞれ地盤を固めながら地方の実力者として成長してゆきますが、後々、武家の棟梁として台頭したのは大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治したことで有名な嫡男・源頼光(みなもと・らいこう,948〜1021)の一族ではなく、三男・源頼信(みなもと・よりのぶ)の一家でした。その頼信の孫にあたる源義家(みなもと・よしいえ)が京都・岩清水八幡宮で元服、1094年には正四位下に叙せられて殿上人の仲間入りを果たし『天下第一武勇の士』との評判をとったのです。この義家は八幡神社で元服の式を執り行ったことから『八幡太郎』義家と呼ばれるようになり、ここから八幡さまが源氏の氏神として祀られるようになったのだと考えられています。ところで、最後のおまけ話を付け加えますが、義家の兄弟の一人源義光(みなもと・よしみつ)は、どういう訳か新羅神社で元服し新羅三郎(しんら・さぶろう)と皆から呼ばれたそうです。

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