ベンチャーズブラスバンド 音楽と記憶2                                       サイトの歩き方」も参照してください。

音楽は、その字の通り「音を楽しむ」ものだと思いますが、楽しい音とのめぐり合いは、そうそう度々あるものではありません。小学校の6年間を通して「音楽」の時間に聞いたであろう沢山の音楽、その曲目のうち、鮮明な記憶を伴って脳裏にとどまっているものが案外少ないのは、やはり「楽しく」音と付き合っていなかった性なのかも知れない。もっと言えば、それらは全て「教えられた」ものであり、学びの一部分として意識されたものであるから−なのだろう。音は、音楽は、やはり自分自身が楽しむために何事かを自ら行為しなければ、血肉とはならない−。などと、小難しい理屈をこねるのはやめて、続きを書いてゆくことにします。

蛍の光』に送られ小学校を跡にして、希望と不安が入り混じる中学校生活が始まる。お定まりのクラブ紹介が生徒会主宰で行われ、運動系に興味のない生徒たちの中には文科系の部室めぐりをする者もあった。どのクラブにも興味が持てなかったのだが、近所に住む、2年先輩に誘われ、学校とは別に、柄にもなく海洋少年団に入部、わずか1学期だけの課外活動だったが、それでも手旗信号を覚え、何度かカッターのオールを握り突堤の内側とはいえ、海原を自力で漕ぎ回る楽しさを味わった(手旗信号の基本は両腕が示す直線の動き−型、つまり「カタカナ」を表しているもので、その気になれば短期間で誰でも覚えることができます。つまり、両腕を地面に水平に伸ばした形が「一」であり「横棒」も表すわけです。興味のある方はWEBで検索されてみては如何。また、昭和30年代後半の中学生が主人公のドタバタ劇に関心があれば『田舎中学三文オペラ』のページを読んでみてください)

ラジオからテレビの時代へ   ダッコちゃん人形  click! PR

この間、個人的には重大な事件があったのですが、それは読者のみなさんには関係のない話、はしょることにして場面は少し飛びます。それから、この話が進行している時間の背景−つまり時代背景を説明しておきます。そのほうが読者の皆さんにも分かりやすいでしょうから。語り手が小学校を卒業して、中学校へ進んだのは昭和30年代半ばのことで、その頃、巷では、というよりTV(テレビジョン)の世界がどうなっていたのかと言うと、

 正義の味方・月光仮面、子供たちのマントは風呂敷でした。

      昭和33年(1958) 「月光仮面」「ロッテ歌のアルバム」が始まる。(第1回「ウエスタンカーニバル」開催)。前の年にダイハツ・ミゼットが登場。

      昭和34年(1959) 「おとなの漫画」「ローハイド」「拳銃無宿」

      昭和35年(1960) 「少年探偵団」「ララミー牧場」「ライフルマン」

      昭和36年(1961) 「若い季節」「シャボン玉ホリデー」「夢であいましょう」スタート

      昭和37年(1962) 「てなもんや三度笠」「ベン・ケーシー」「コンバット」

      昭和38年(1963) 「鉄腕アトム」「ロンパールーム」  テレビ1500万台を突破

      昭和39年(1964) 「チロリン村とくるみの木」に代わり「ひょっこりひょうたん島」が始まる

      昭和40年(1965) 「11PM」「踊って歌って大合戦」

など、音楽を主体にしたバラエティ番組が全盛を迎えようとしていた時期にあたり、和製ポピュラーで初めて世界のヒット曲となった坂本九(さかもと・きゅう,1941〜1985)の『上を向いて歩こう』(アメリカでの題名はなぜか『スキヤキ』)は、NHKの人気番組であった『夢であいましょう』の、昭和36年8月放送分の番組内で歌われたことで、全国的に大流行することになったのです。今、振り返ってみると、この昭和30年代半ばから40年にかけての時代は、実に不思議な時空間で、坂本九やザ・ピーナッツなどポピュラー系の歌手が活躍する一方、同じ頃、着流しスタイルで角刈りの橋幸男が時代劇風の演歌でスターの座を獲得、和洋折衷を絵に描いたような混沌の世界だったように思えてなりません。敗戦から連合国の占領時代を経て、やっと復興の兆しが確かなものに見え始めたとき、国民の嗜好も多様化に向けて歩み出していたのかも知れません。蛇足になりますが「トラさん」でお馴染みの渥美清(あつみ・きよし,1928〜1996)も『夢であいましょう』の常連で、黒柳徹子もレギュラーでした。

  情報は全てテレビから伝わります   

映像というものを幻燈機や映画でしか知らなかった者にとってテレビの出現は生活、いや感性そのものを一変したように思います。一方通行の情報ではあっても、テレビが伝える情報の「量」はすさまじいものでした。また、話が難しくなってきたので、方向を変えて、…つまり、皆テレビに夢中になった、ということです。そこには、確かに「音楽」がありました。音を楽しむ多くの人たちが画面を独占し、自己主張していました。例えば『シャボン玉ホリデー』という番組では、或る大手の芸能プロダクション所属の芸人が総出演といった感があったので、その頃人気のあった歌手は大抵出演していました。中でも番組の主役だったクレイジー・キャッツザ・ピーナッツの息のあった演技、歌、演奏のいずれもが新鮮な刺激となりました。番組のエンディングでザ・ピーナッツが「スターダスト」を歌うのですが、そのバラード調の物憂い旋律が、いかにも西洋そして大都会を象徴するものとして意識されたのです。勿論、有名な肘鉄ギャグにも人気の秘密はあったのですが…。バラエティという言葉が当時既に使われていたのかどうか覚えがないのですが、歌・踊り・コント(お笑い)それにお話などを混ぜこぜにした番組構成がウケテいた訳です。その一方、TVが家庭にもたらす情報は、それまで別世界の出来事としか思えなかった、様々な芸能社会を極めて身近なものに錯覚させたとも言えます。誰でもスターになれる、かも知れないと…。

で、どうなったのか、と言うと2年生の3学期、ブラスバンドが中学校に創設されることになり即、入部、憧れのトランペットを手にしたのです。手にしたまでは良かったのですが、皆さんはトランペットがどのようにして鳴るのか知っていますか?あの楽器は、管の根元に取り付ける歌口(マウスピース)の中で、吹く息によって唇が振動し、それを長い管で増幅することでラッパの音が朝顔(先の広がった部分)から飛び出す構造になっているものなのです。早い話、すぐには鳴らないのです、つまり、音が出ない。動物が断末魔に上げる悲鳴にも似た雑音はかろうじて出るのですが、TVやレコードで聞く、あの、ラッパらしい音が出ないのです。悪戦苦闘すること数週間、なんとか音らしいものが出たとき、嬉しかったですね、まさしく「自分で創り出した音」を楽しむことが、初めて出来た瞬間でした。

トランペットはスターの証?   

ところで、何故トランペットであって他の楽器ではなかったのか、という理由についてですが、これも時代背景を抜きにしては語れません。そこで、面倒がらずにもう一度、年表をどうぞ。

      昭和33年 「即席チキンラーメン」発売開始。1個35円だったのが、すぐ30円に値下げ。

      昭和34年 皇太子(いまの天皇)ご成婚

      昭和35年 カラーテレビ発売、ダッコチャン・ブーム(上に画像があります)

      昭和36年 マーブルチョコレート販売開始。1個30円

      昭和37年 マツダ・キャロル(軽自動車)販売開始。1台37万円

      昭和38年 ジョン・F・ケネディ大統領暗殺(衛星による初の映像実験)

      昭和39年 東海道新幹線が開通。東京オリンピック開催。

   歌う大スター・小林旭  ミゼット号   PR

政治家の誰かが『もはや戦後ではない』と公然と言い放ったのが何時なのか知りませんが、確かに敗戦から10数年を経過した辺りから新しい時代が始まっていたのでしょう。また、天皇家の長男が『民間』出身の女性と結婚されたことも、時代の変革を象徴する出来事として受け止められていたのかも知れません。ただ、皇室の慶事がTVの普及に大きな役割をはたしたのは間違いありませんでした。とにかく、よく売れました。

なかなかトランペットに辿り着きませんが、もう少しです。この新しい風潮の中でTVは急速に台頭してくるのですが、それでもまだ銀幕の世界(映画)は健在で『スター』と言えば映画界のトップを指していました。(今、この言葉はギャグとして使われていますが)その頃、幾つか映画会社があり、それぞれに独自の路線に沿った作品を発表していたのですが、語り手が最も大きな影響を受けたのが日活映画、それも小林旭が主演した作品群だったのです。昭和13年生れの彼は20歳そこそこでスターの地位を確立したのですが、中でも昭和30年代半ばに出演した『渡り鳥シリーズ』が大ヒット、その人気は石原裕次郎に迫るものがあったと記憶しています。どの位すごかったのかと言うと、小林旭は最盛期、1年間に確か12本の映画に主演しています。つまり1カ月に1本の割合で新作を公開していたのです。恐らく、この記録は日本映画史上最高ではないでしょうか。その小林旭がこの時期に主演した主な作品は、

      昭和34年    8月 「南国土佐を後にして」    9月 「銀座マイトガイ」    10月 「ギターを持った渡り鳥

      昭和36年    4月 「渡り鳥いつまた帰る」

                        6月 「赤い夕日の渡り鳥」

                      10月 「大草原の渡り鳥」

などですが、その内、どの作品だったのか(或いは映画館のPR用スチール写真だったのかも、何しろ40年近く前のことなので記憶も定かではないのです)主人公がトランペットを吹くシーンがあり、その余りの格好良さに感銘、彼のトレードマークとも言えるギターとペットが憧れの的となるのに時間はかかりませんでした。渡り鳥シリーズを、当時の進歩的文化人や評論家といった種類の人たちが『無国籍映画』などと酷評していたらしいのですが、馬にまたがり唐突に現れても、主人公が歌を歌い終わるまで悪役たちが襲いかからずに黙って待っていても、いきなり拳銃をぶっぱなしても、それはお話の世界だと割り切って見ていたからなのか、余り気にはなりませんでした。(上の年表にもあるように、丁度この頃TVの世界でもガンマンを主役にした作品がスタートしている)小林旭が演じる主人公の時空間を無条件で楽しんでいた訳ですね。子供たちが読む御伽噺の世界みたいなものです。ただ、後になって考えてみると、高度成長社会、カネがらみの社会、営利最優先の人たち(地上げ屋みたいな感じ)と対峙する庶民−−といった構図が垣間見えなくもありません。ただ、見ていたのは10代半ばの年頃ですから、そんなことを考える余裕はなく、ただただ格好いいなぁ、と思っていただけでした。彼の映画挿入歌のほとんどがヒットしましたが、そのうちの何曲かを紹介しておきましょう。

      「さすらい」「北帰行」「あきらのダンチョネ節」「あきらのズンドコ節

北帰行(昭和36年)は小林旭の代表作といえるものですが、この作品については逸話が残されていますので紹介しておきます。この曲そのものは小林旭のオリジナル、つまり彼に歌わせるために新しく作られた曲ではありません。まだ、戦争中であった昭和16年の初夏、当時旧制高等学校の生徒だった人が、校則違反を重ねたため『放校』処分になり、帰郷することになったのです。その時の鬱々とした思いを一気に書き上げた作品が「北帰行」で、無頼を装う高校生(今の大学生)の孤高が詩と曲の底流にありました。小林旭の歌では「無頼」漢の面が強調され過ぎている憾みもあるのですが、作者の方はそれでも小林の歌う北帰行を気に入っておられた、と伝わっています。実に20年ぶりの復活劇を果した「北帰行」の歌詞は、時代に合わせて、また小林旭が劇で演じる人物に合わせて編集されていますが、それでも1番だけは原作をそのまま採用しており、3番も極めて原作に近い歌詞となっています。戦後の復興は民謡調演歌の普及、そして戦前を回顧する風潮をもたらし、そのような国民の意識を背景に小林旭の「歌」も流行していたのだと思うのです。もっとも彼の人気の陰には、名脇役の殺し屋ジョーこと宍戸錠宍戸開のお父さん、芸名は父の『錠』を『開(ひらく)』つまり「超える」という洒落かも知れない)の存在があったことを忘れてはいけませんが。

 「ド」は「」、「シ♭」が「ド」      music.jp

謎々ではありません、真面目なお話しの続きです。楽器に親しんだ方なら皆さん、よく知っていることなのですが「ド」の音は楽器によって、それぞれ異なっています。普通「ドレミ」の「ド」という場合、それは「ハ長調のド」つまり「C」の音を指している訳ですが、トランペット・サキソフォン・トロンボーン・クラリネットなどの管楽器は「C」の音に合わせて創られてはいないのです。問題のトランペットは「B♭(ビー・フラット)」を基音にしていますから「ハ長調で言う〔シ〕の半音下がった音」がドということになります。分かりますか?見出しの言葉はそんな意味でつけています。

世の中には「絶対音階」を身につけているすごい人たちがいるそうですが、凡人の語り手も「ドの1音下がり」という不安定な音に浸ることで何物かが感性の深い部分に刻み込まれたように思っています。格好をつけて言わせてもらうなら「B♭」の音が、それ以後の耳から入る情報選別の基盤になった訳です。このことは、他の人から見れば別に何でもないことかも知れませんが、自分の身体の中にC長調とは異なった音階を持つということは、音楽を聴く上で、かなりの影響力があったのではないかと思うのです。具体的に、その中味を文章で書き表わすことが出来れば良いのですが、この感覚・感性を伝えるための言葉が中々みつかりません。敢えて言葉を捜すなら『Cが朝日の光だとするなら、夕暮れ時の仄めく空』のイメージが少しはB♭の感覚を暗示している様な気がしています。皆さんの身近にピアノがあれば、ドのすぐ左にある、最初の黒い鍵盤キーを叩いてみてください、そして次にドの音を出して聞き比べてみてください、そうすれば語り手の言いたいことが、少しは伝わるかも知れません。

ブラスバンドの産みの親であり、育ての親でもあった先生は音楽担当ではなく、なんと理科の先生。それも若い男の先生でした。募集には定員を何倍も上回る応募者があり、競争率はかなりの高さになったのですが、一人抜け二人抜けして20名前後の人数に落ち着いたのです。創部間もなく先生は無謀とも思える計画を部員に示し、そのスケジュールに沿い猛特訓を始めました。それは「数カ月の練習で県大会に出場する」というもので、音の出ない管理人にとっては、まさに驚天動地のお言葉、無理難題と受け止められたものでした。ところが生まれたての新米ほやほや・バンドは恒例の演奏会に堂々?出演し『参加賞』を頂くという快挙を成し遂げたのです。その年の課題曲は『アイーダ・凱旋行進曲』短い曲なのですが高音の部分でミスをしないようにと必死で吹いた記憶があります。演奏後、どっと汗が噴出し、肩の荷が降りた心地でした。この時、未熟な生徒一人一人の顔を真剣な眼差しで見つめつつタクトを振られた錦織俊先生は、今をときめくクラシック歌手・錦織健さんの御父上に当たる人です。顔も、良く似ておられます。というか、先生の方が男前?ではないかと…。

トランペットに夢中だった頃の思い出はヤマほどありますが、記憶に残っている曲はそんなに多くありません。と言うよりレパートリィが限られていたのが実情。そんな中、後一つだけ上げるとすると、それは『りんご追分』です。小林旭と結婚したこともあった美空ひばり(1937〜1989)のヒット曲であることはご存知の方もあるでしょう。何故、この曲なのかと言えば、それは新米バンドが最初に演奏した歌謡曲だったからです。マーチが演奏の殆どを占める中で、低い技術レベルの演奏者たちに出来る曲は、ごくごく限られたものになるのですが、この曲がスローテンポであったこと、単純な構成の曲であったことが幸いして、学校内でのお披露目を目標に、練習を重ねたものでした。また、この時初めて弱音器(ミュート、朝顔の中に入れて音を弱めたり、くぐもらせたりする物)を使ったことも、新しい音との出会いという意味で強く印象に残っています。日活映画特に旭の作品では、必ずと言ってよいほどナイトクラブ風の一場面があり、ミラー・ボールの閃きの中、踊り子の後ろで演奏しているトランペット奏者がソロで悩ましい音色を披露するのですが、そんな時使われるのがミュートでした。弱音器の存在を知らない内は、一体どんな吹き方をすれば、あのような音が出るのだろうと、真面目に悩んだものです。

    エレキは不良の証なのです!!     

昭和30年代を西暦にすると1955年から64年までの10年間ということになりますが、30年代の終わり頃から40年代の初めにかけての時期、国内ではエレキギターのブームが起こっていました。その原動力となったグループが『ザ・ベンチャーズ』であったことは皆さんも、何処かで聞いた記憶があるでしょう。彼らは勿論、音楽の楽しさを広めた功労者と言ってよいのですが、なによりも若者が夢中になったのは『誰にでもエレキぐらいは弾ける』点にあったのではないでしょうか。演奏の中味は置くとして、少し練習すれば『ベンチャーズのような』曲の一部分が弾けることで、皆が自称ミュージシャンの気分を味わうことが出来た訳ですから。トランペットの殺人音も怨嗟の的になったのですが、それでも「学校のクラブ活動」という大義名分があっただけに、面と向かって文句を言われたことはありませんでしたが、これがエレキとなると話は又別で、ギターにうつつを抜かす者は不良である、と陰口をたたかれたものです。旭のギターを経験している者にとってエレキは親しみの持てる楽器でした。そして何より単純なメロディの繰り返し、早いリズムが若い心に素早く溶け込んだのです。

5つのコードでベンチャーズ   

その一例をあげてみましょう。ベンチャーズがヒットさせた曲の中でも、特に良く知られている『ダイヤモンド・ヘッド』は初心者の定番、十八番と言えますが、この曲の伴奏に必要なコードは、たった5個だけ。つまり「Am,G,Dm,E,Fm」の五つのコードさえ覚えれば、なんとかサイドギターの役割は十分果せるのです。後は『テケテケ』部分と主旋律さえ弾ければ、もうベンチャーズに成る事ができる、という塩梅です。この、とっつきやすさは、以前からある程度の人気を得ていたクラシック・ギターには無いもので、シンプルな構成の魅力が大流行を生む要因だった、と思うのです。また、彼らが多用したマイナー・コードは日本人の音感に響くものがあったのではないかと勝手に理解しています。

ベンチャーズの音楽を、どのように受け止めたかは人それぞれでしょう。インストゥルメンタルに興味のない方、更に言えば表現性の限界(彼らは「歌」を重視しなかった)に物足らなさを感じた人々は、少し遅れてやってきたザ・ビートルズに、より自由な音楽を見出していたのかも知れません。何度も言うようですが語り手が、その只中にあったとき、冷静に自己の内部を観察していたわけではありません。何も知らなかった10代半ばの感性が『自己表現』に目覚めようとした、正にその時、表現手段として様々な楽器・音楽が眼の前に出現し、ただ素直に楽しんでいた、という事実を伝えたかっただけなのです。だから、ここに書かれた内容は極めて私的なものであり、決して日本の若者全体を描く普遍性のあるお話しではないのです。こうして見れば、少し経って語り手が高橋竹山の音色に惹かれた遠因の一つが明らかになったようにも思います。

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