カミサマは「ワニ」に乗って!                                           サイトの歩き方」も参照してください。

差し詰め、BGMは、あの、ビーチボーイズ(古い喩えで恐縮です。新しい人を知らないもので…)のヒット曲『サーフィンUSA』あたりを、さり気なく流しながら、大和から河内、そして目指す摂津の地へ颯爽とワニに乗って現れたカミサマは、誰あろう、かの有名なコトシロヌシでしたとさ。と言うのは管理人の脚色で、お馴染みの日本の古い説話では、

    事代主命が八尋鰐になって、摂津三島の溝咋姫の許に通った

と語られています。つまりは、コトシロヌシが鰐(ワニ)そのものだった、と言っているのですが、それでは余りにも「そのまま」過ぎて、お話しの進めようがありませんので、少少、ノー天気な題名を付けて皆さんのご機嫌を伺うことにしました。ということで今回の主役を演じてくれるのはワニさんなのですが、これは無論、かつて富裕層のご夫人たちが競って購入されたハンドバッグや、一部の紳士?たちの夏用の靴の原料として持て囃された、あの「ワニ」ではなく、鰐鮫(わにざめ)のこと、だとされています。尤も、遥かなカミサマたちの時代ですから軽々に断定は禁物なのですが…。

ワニザメくん   三島溝杭神社

その「ワニ」さん、日本の神話では結構、出番が多く、いろいろな場面で登場しています。これまでにご紹介したオオクニヌシと因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)でも彼等は印象的な脇役でした。どこが「印象的」だったのか、と言えば、先のコトシロヌシのお話しとの類似点が見られるからで、それは、素兎が流された沖ノ島から故里の因幡に戻ろうとして、

    どちらの同族が多いか数えてあげるから、海に並びなさい

と嘘をつき、ワニの背中を伝って帰ろうとした、つまり「ワニが海上交通の手段」だった、という部分です。素兎の処でも解説しましたが、このウサギさんが動物ではなく人間であったなら、海の上に並んだワニさんたちも、また人間だったのではないか、そうだとすればカミサマたちの時代、ワニ一族(或いはワニを象徴とした一族)は日本の海上交通を一手に握る、強力な部族集団だったのではないか、という想像が湧いてきます。そして、このワニ一族が、単なる一地方の小勢力ではなかったことを窺がわせる記述、お話しが記紀神話の有名な一場面でも登場しているのです。

トヨタマヒメの正体は「八尋ワニ」だった

年配の読者には耳慣れた『海幸山幸』のお話しがそれなのですが、ご存じない若い方たちのために要約すると、弟の山幸彦が兄の海幸彦の大切な「釣り針」を無くしてしまいますが、海神の協力を得て探し出し、兄の野望をくじきます。そして肝心なのはここからで、山幸彦(彦火火出見尊、ひこほほでみのみこと。系譜上では天照大神の曾孫にあたる神様)が古老の助言に従って海神(大綿津見神、おおわたつみのみこと。このカミサマは系譜上、アマテラスやスサノオと同格を与えられています)の許へ赴いた時、海神の娘・豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)と意気投合、お妃として貰い受けました。先に地上に帰国した山幸彦を追う様にやってきた豊玉姫は『貴方の大切な御子を、貴方の国で産みたいと思いやってきました。』と言い、早速、海辺に小屋を建て、山幸彦には『小屋の中を決して覗かないで下さい』と告げたのです。でも、若く好奇心旺盛な山幸彦は、どうしても見てみたいという誘惑に負け、つい覗き見してしまうのですが、なんと、出産中の姫の姿は八尋鰐の姿だったのです。つまりコトシロヌシの神話では男神がワニであったのに対して、山幸のお話しでは女神がワニだったことになっています。これは極々単純に考えて「ワニ」を称する、あるいは「ワニ」を象徴として祭りの対象としていた実力集団が、カミサマたちの時代には存在していた、と言うことに他成りません。そして、もう一つ大事な点に触れておきます。

自分がワニである、という正体を山幸彦に見られてしまった豊玉毘売命は、その事を恥じて生まれ故郷に帰ってしまいます。しかし、実の子である鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の成長が気になった姫は、父神と相談して妹の玉依毘売命(たまよりひめのみこと)を地上の国に派遣したのです。そして、二人が結ばれた結果生まれた子供が、神武天皇その人であり、サーフィンの元祖(冗談です)コトシロヌシ(彼もワニだった)の実の娘が神武天皇と第2代・綏靖天皇の妃に迎えられている、これは何を意味しているのでしょう?出雲のオオクニヌシ伝説でも不思議な儀式がありました。旧暦10月、全国のカミサマがこぞって出雲の地にお集まりになられるとき、最初に行われる大切な儀式、それは伊那佐の浜に「竜神」さまをお迎えする儀式でしたね。尊いカミサマと「海」は、とても深い繋がりをもっていたようです。そして記紀はコトシロヌシをオオクニヌシの子供、或いは直系子孫に位置付け、あの『国譲り神話』では、オオクニヌシに代わって、天孫の使者との交渉を行なわせています。それでは、やはりコトシロヌシも「出雲系」の神様なのでしょうか?

コトシロヌシの本拠地である大和の賀茂神社

  賀茂神社の参拝風景。大行列ですね。  奈良・高鴨神社

そうでないことは冒頭の「ワニ」神話でもあきらかです。……ここで、一つの仮説というか思いつきを述べようと考えています。記紀神話そのものは、このシリーズの中で何度も触れてきたように、記紀が「創られた」時代のあらゆる力関係が色濃く影を落としているものと考えられますが、神話の骨格を成している、所謂「神様たちの系譜」は、有力部族間の軋轢はあったにせよ、7,8世紀の勢力分布と附合する部分が多いのではないか、と思われます。それは、藤原(中臣)氏の祖先神が、最初に現れた『天御中主神』の子供とされ、他の神々とは全く孤立した存在として扱われている事でも明らかです。つまり、他の神々(豪族たちの祖先)と藤原氏の祖先とは格が違う、と言いたいのでしょう。記紀神話が纏められた時代とは、どのようなものだったのかは、下の表を参考にしてください。

 西暦  主な出来事 外国での出来事
 538  仏教が伝来する  6世紀の初め頃「北魏」が滅亡する
 589  「」が中国を統一する
 593  聖徳太子推古天皇の摂政となる
 607  遣隋使として小野妹子を派遣。法隆寺が建立される。 614年、中臣鎌足が誕生
 622  聖徳太子、死去。  618年、が建国
 626  蘇我馬子、死去。「正月だというのに桃やスモモが咲いた」(日本書紀)
 628  推古天皇、崩御。
 645  大化の改新、蘇我入鹿、暗殺
 655  皇極天皇が重祚(斉明天皇)
 659  藤原不比等が誕生  660年、百済が滅亡する
 663  白村江の戦い。唐・新羅の連合軍に敗れる 
 668  天智天皇が正式に即位する。  高句麗が滅亡する
 669  中臣鎌足、死去。「藤原」の姓を賜り「大織冠」を授けられる
 670  法隆寺が全焼  百済より数百人の移住者あり
 672  壬申の乱。翌年、天武天皇が即位  676年、新羅が半島を統一する
 690  持統天皇が即位  則天武后が実権を掌握、国号を「」と称する 
 694  藤原京に遷都。
 701  大宝律令が完成
 702  持統天皇、崩御。
 710  平城京へ遷都
 712  古事記が完成する  「」の玄宗が即位する
 713  諸国の「風土記」が編纂される
 720  日本書紀が完成する。 藤原不比等が死去する
 724  聖武天皇が即位

いつも通り、極々、大雑把な年表ですが、これらの事項をまとめてみると「6世紀後半から7世紀前半は蘇我氏(と聖徳太子)の時代」「7世紀後半からは藤原氏の時代」だと言う事ができるでしょう。平城(奈良)から平安(京都)への遷都、中央政府の大移動については「時代の要請」が背景としてあったのでしょうが、何より、新しい都を立派に作り得るだけの財力を持った豪族たちが居た証だとも言えるのです。その代表格が先に取り上げたお稲荷さん・キツネくんのお家である秦一族ですが、京都には、それにも増して有力な豪族が居ました。それが、コトシロヌシと関係の深い賀茂・鴨一族です。

鴨神社(上鴨神社、下鴨神社)と聞けば、皆さん、直に京都のお社を想像されることと思いますが、冒頭のお話しに出てこられたコトシロヌシという神様の生まれ故郷は大和国で、現在の奈良県御所市(ごせし)にある鴨都波神社(下鴨神社)、中鴨神社高鴨神社(上鴨神社)の三社が、その本拠地とされています。これらの神社には、コトシロヌシ一族の神様方が祀られているのですが、その境内にある他の神々の名前を見ながら、いつものごとく思いついた妄想を紹介して、今回のお話しを締め括ることにします。それには、少し、前置きが必要です。

難航した「国譲り」の実態と神々 「摂社」に祀られる神様とは?

「天孫降臨」の伝説については何度か折に触れてお話ししてきましたが、大雑把に言えば「アマテラスが直系の子孫に国をゆだねようとして」「オオクニヌシに国譲り」を迫り、国が譲られた、ということに尽きるのですが、その交渉は一度で簡単に終了した訳ではなく、何度か、使者が差し向けられたのです。まず天菩比神(あめのほのこのみこと)という神様がオオクニヌシの許に派遣されますが、この神様は三年もの間、なんの連絡もしてきませんでした。それでは、ということで次に送り込まれた神様が天若日子命(あめのわかひこのみこと)という方だったのですが、この神様、下照姫命と勝手に結婚までしてしまい、八年間も音沙汰なしの状況が続いたのです。アマテラスの先祖にあたる最高神・高産巣日神(たかみむすびのかみ、高皇産霊神)は、この状況を見てプッツン、近くに置いてあった霊験あらたかな「矢」をむんずと掴み「天若日子命の心が清ければ当るな、若しも、心が邪まならば当れ」と云いつつ天界から投げ放ったのでした。結果は無残な形に終り、遂にニニギノミコトの登場となるのですが、それは又別の機会にお話しするとして、何が、どうして妄想を生んだのか、だけ、語ります。

オオクニヌシの子供であり、コトシロヌシとは異母兄弟に当る味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)をお祭りしている高鴨神社は鴨一族、つまりはコトシロヌシ一族の総本山とも言える社ですが、ここの祭神は三柱で、後の二柱は妹の下照姫命と、その夫である天若日子命です。そして興味深いのは境内に置かれた摂社(せっしゃ)の神々の名前でした。まず「東神社」にはアマテラスと共に天児屋根命(あめのこやねのみこと)が鎮座しています。皆さん、この神様のお名前に聞き覚えがありませんか?!そうです、この神様は、あの大織冠・中臣氏の祖先神そのものです。そして大山咋神社には大物主命(注意・オオクニヌシではありません)更には「春日神社」に国譲り交渉で強持てを演じた建御雷命(たけいかずちのみこと)、そして天若日子命に「矢」を放ったとされる高産巣日神まで祀られているのです。これは、一体、どう考えればよいのでしょう。

出雲大社  出雲大社の復元図    

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少し、お話しが先走り過ぎました。まず「摂社」について説明しなければ、読者の皆さんには一体何の事なのか、お話しの筋書きが分かりませんよね…。一般に「摂社(せっしゃ)」と呼ばれるお社は、その神社に祀られている「主神」と「縁故の深い神様」を祀るために置かれた神社のことで、大抵は、境内の中に主祭神を囲むような形で鎮座されています。また、ある神社のHPでは、この摂社について『主祭神と特に関係の深い神々(主神の后神、子神、その他主祭神に対して功労のあった神々)を祀る』お社だと、一歩踏み込んだ解説を載せています。余りピント来ない、かも知れませんので、出雲大社を例にとってみましょう。

    主祭神・大国主大神    摂社「御向社」・須勢理比売命    摂社「筑紫社」・多紀理比売命

    摂社「天前社」・蚶貝比売命蛤貝比売命    摂社「門神社」・宇治神久多美神

    摂社「素鵞社」・素戔嗚尊    摂社「氏社」・天穂日命    摂社「釜社」・宇迦之魂神

このシリーズで皆さんお馴染みのカミサマ方がオン・パレードといった風景ですが、一応説明をしておきますと、須勢理姫は大国主の后、多紀理姫はお妃(アジスキタカヒコネの母でもある)、「天前社」の二神は、オオクニヌシが諸国を行脚している時、災難に遭遇し大火傷を負ったときに治療と看病をしてくれた女神で、宇治・久多美の二神は、その名前の通り大社が築かれている土地の神様。また、スサノオは謂うまでもなくオオクニヌシの父神そのものです。そして天穂日命(あめのほのひのみこと)は、出雲国造家の先祖神、宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)は、お稲荷さんでご紹介した、古い食物のカミサマです。こうして見れば「摂社」が、そこの社の主神と「特に縁の深い」また「主神に功労のあった」神々を祀るものである事が納得できます。これを、先の鴨神社に当てはめた場合、どうなるのでしょう?

アジスキタカヒコネは、誰の味方だったのか?

まず「加茂の大神」とされる味鋤高彦根命(アジスキタカヒコネ)が、兄弟だとされるコトシロヌシ同様「国を譲る側」の神であったと仮定するなら、上で見た、摂社のカミガミの説明が付かなくなります。それは、何度も言うように「摂社」が「主神」と「特に縁故の深い」神々を祀るものであるなら、高鴨神社(上鴨神社)には、その親神である「オオクニヌシ」と「タギリヒメ」が祀られていなければなりません。また、主神として味鋤高彦根命の妹神と、その婿神(しかも天孫系からは反逆者の烙印まで押されている)が祀られているのも不自然です。その上、中臣氏の祖先神がアマテラスとともに「摂社」となって鎮座している有り様を素直に解釈すれば、鴨一族の祖神とされる味鋤高彦根命と云うカミサマは系譜上、オオクニヌシに連なる「国を譲らされた側」に属する神の一人とされてはいても、その実、古くから「国を譲らせた側」に深い繋がりを持つカミサマであったのではないか?その様に思えてならないのです。ここで、冒頭のワニさんのお話しを思い出せば、ワニを象徴としたコトシロヌシ・アジスキタカヒコネ一族は、早くから水運(に代表される当時の生産技術や運搬手段)を利用し、奈良から大阪そして京都へと勢力を伸ばし、遂には都まで京都に移転させた、影の実力者集団のことではなかったのか、そんな思いを強く抱いてしまいます。

社に祀られる神々についての疑問は、コトシロヌシの鴨都波神社についても同様に言えることで、主祭神が八重事代主命下照姫命になっていることは、どう考えても不自然極まりありませんし、母神である神屋盾比売命が摂社として配置されておらず縁の深くないはずの市杵島比売命が「笹神社」として祀られているのも不思議です。そして何より大事な点は『古事記』が国譲りの一方の主人公だと喧伝している、あのオオクニヌシという神様が、鴨三神社のどこにも祀られていない(その様な「名」の神様は祀られていない)という点にあると言えます。つまり、ここでも「オオクニヌシはいなかった」のです。初代・二代と続けて天皇の許へ娘を后として輿入れさせた「コトシロヌシ」一族が、その娘たちを手ぶらで行かせた訳がありません。今なら、巨額の持参金に相当するものと言えば、皆さんは何だとお考えになるでしょう?そうです、生産手段を含んだ土地(住民も含めた)以外に、神々の時代の「宝物」は考えられないのです。広大な土地、しかも進んだ農耕・製鉄・建築などの技術集団付きの「クニ」を、コトシロヌシの娘たちが持ってきたのなら、それは、そのまま「国譲り」と言っても良いのではないでしょうか?鴨神社の祭神たちの謎と、古事記の国譲り神話を矛盾なく解決するには、このように推理するしかありません。

  賀茂神社    家康のご先祖は松平氏  高鴨神社の神泉

ここで、オマケのお話しを一つ。皆さん、京都の賀茂神社のお祭りを、何故『葵(あおい)まつり』と謂うのかご存知でしたか?それは、賀茂神社というか賀茂氏の家紋が「葵」だからなのです。「葵」の御紋と云えば、黄門様、つまりは徳川家の紋所としても有名ですが、将軍家の祖・松平氏が、もともと賀茂神社の氏子であった縁から、その紋を用いているのだ、との説があります。それでは、皆さん、ごきげんよう。

オマケ・その2  神々の時代はともかく、上の表に書かれた時代の中心人物の一人である中臣(藤原)鎌足摂津・三島の地は大変深いつながりを持っています。「大化の改新」の前年、皇極3年(664)鎌足は突然、神祇伯の地位を固辞し『病』と称して三島の地に引きこもります(『日本書紀』)また、これより以前の舒明天皇(じょめいてんのう,593?〜641)の頃にも『錦冠を固辞して三島の別業に帰った』(『藤原家伝』とされ、鎌足が三島の地を安住の場所と考えていたことを窺がわせるのです。また、これはマスコミなどでも取り上げられたので、ご存知の方も多いと思いますが、大阪府高槻市の阿武山古墳が鎌足の墓ではないかとの説があり、三島地域内には大織冠神社と天児屋根命を主神とする阿為神社も現存しているのです。大和国・高市郡の生まれ(『藤原家伝』一説には常陸国鹿島の生まれ)のはずの鎌足が、何故、これほど大阪摂津の三島に深い関わりを持っていたのか、その問題を考えるとき、ふと、コトシロヌシの「ワニ」伝説を思い出してしまうのですが……。そして、あの「天岩戸伝説」で巨大な岩戸を開きアマテラスを天界に戻す大役を演じた天手力男命(あめのたぢからおのみこと)を祀る天岩戸別神社が三島の地にあることは、どう解釈すれば良いのでしょう???
オマケ・その3  鎌足の次男、藤原不比等(ふじわら・ふひと,659〜720)の名前を知らない方はいないでしょう。この人の母親は通説では「車持君」という貴族の娘さんだと言うことになってますが、奈良興福寺が伝える『興福寺縁起』によれば、舒明天皇の皇女ではないかとされる鏡女王が生母とされています。そして、もっと興味深いことは、不比等の娘で文武天皇の夫人となった藤原宮子の母、つまり不比等の夫人の一人が加茂朝臣比売と呼ばれる人でした。そして、この文武・宮子の間に生まれた皇子が、後の、聖武天皇(しょうむてんのう,710〜756)その人なのです。国譲りは、神話時代の出来事だったのかも知れません。でも、これだけ人間関係、というか貴族・豪族間のつながりが明らかになると、何かが見えてきたような……。
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