和邇氏の故郷に流れる穏やかな時間と空間                                         「サイトの歩き方」も参照してください。

JR桜井線に乗って櫟本(いちのもと)駅で下車する。(二両編成の電車はワンマン運行で、乗り降りは先頭の車両でしか出来ない駅がほとんどなので、旅行者は注意が必要です)東口に出て、先ず国道169号線を目指して500mばかり進むと「櫟本町」交差点に突き当たります。国道をそのまま300mほど北へ歩き「白川橋」交差点を右折して、ため池の間を道なりに緩やかな坂を登って行くと和爾の郷に入ります。元々、古墳のあった所に建てられたという伝承を持つ和爾坐赤坂彦神社の境内に入ってカメラを構えていると、二人の老人が言葉を交わしながら社の横に在る建物の入り口前に現れ、鍵らしき物を取り出して戸を開けようとしているのですが、何度やっても上手く行きません。見かねて声を掛けると、鍵穴が二か所あり、開くはずなのだと頻りに訴えます。良く似た錠ですが鍵札に「1」「2」と番号が振ってあります。『戸の右にあるのが一の鍵だ』と一人が云うので、言う通りに鍵を差し込み奥に押し込むと簡単に戸は開けることが出来ました。何も言わずに見ていた方の老人が『鍵も開いたことだし、コーヒーでも飲もうか』と呑気な会話を始めたのを潮に、公民館の前を離れて再び写真の撮影に戻った。月に二三度は境内の清掃をするのだという二人は同じ年の幼馴染の様にも見えた。本殿の画像を接近して撮ることが出来たのは、その仲良し二人組から許しを得られたからである。実は、古代史にも度々登場して、ヤマト朝の発展期には帝室に多くの后妃を送り込み、長く権勢を誇った和邇氏の氏神を祀る神社は、さぞ立派な大社(おおやしろ)なのだろうと見当を付けていたのですが、着いてみて誠に拍子抜けするほどこじんまりとした佇まいが其処にはありました。下の画像を見れば一目瞭然ですが、何しろ社の拝殿よりも隣接する集落の集会所の建物の方が大きくて立派なのですから。

和爾坐赤坂彦神社本殿

和邇氏は、その名前からも分かる様に「海」に所縁の深い氏族であると考えられています。古事記などに書き記された神話などにも登場する「ワニ」は「鰐サメ」のことだと古代史の解説書などには書かれていますが、余り即物的な解釈を加えるよりも、広大な海そのものが古代の人々にとっては重要な「道」でもあった訳ですから、航海や造船などの技術に長けた集団を指した名称の一つと考えるのが穏当だろうと思います。また、書紀の神武「東征」を詳述した「即位前紀」の後半に『また和珥の坂下に、居勢祝という者あり』(己未年春二月条)とも記録していますから、海を主な活動の場とする氏族が早くに大和国添上の地にも入って本拠としていたようです。その神武帝の祖母、更には母親の二人が何れも海神の娘たちであり、彼自身もまた「ワニ」の血を濃く受け継いだ大王であったことは先の頁で見てきた通りですが、上でも述べた通り和邇氏から帝室に入った女性は決して少なくありません。ヤマト朝の黎明期に摂津三嶋にワニと化して現れた事代主命は、差し詰め「古いワニ」と言えそうです。

 后妃の名前  親の名前   夫の名前   子供の名前  応神との関わり等  推定の年代 
 姥 津 媛  和爾日子押人命   開化帝  彦坐王(神功皇后の高祖)  六代前の大王  四世紀の後半頃 
 宮道宅媛  和爾日蝕使主命  応神帝  菟道稚郎子皇子、矢田皇女(仁徳后)   本  人  五世紀初め頃
 小 甄 媛  同  上  同 上  菟道稚郎女皇女(仁徳妃)   同 上   同 上
 津 野 媛   和爾八腹小事  反正帝  甲斐郎女、円皇女   応神の孫  五世紀の中頃
 弟 比 売  同  上  同 上  財皇女、高部皇子(記では男女が逆)   同 上   同 上
 小 島 子  春日臣 市河 允恭帝  な し(市河は物部首の祖とされる)   同 上   同 上
 童 女 君  和爾臣 深目   雄略帝  春日大娘皇女(仁賢后、手白香の母親)   応神の曾孫  五世紀の後半頃 
 糠 若 子  和爾臣 日爪  仁賢帝  春日山田皇女(安閑后)  第二十四代  五世紀の末頃
 荑   媛  和爾臣 河内  継体帝  円娘皇女、厚皇子(阿豆王)  応神の五世の孫  531年に没か
 老 女 子  春日臣 仲君  敏達帝  難波皇子、春日皇子、大派皇子  継体の孫  538~585年

  左の表以外にも帝室に入った女性はいます。
 例えば武烈帝の妃、春日郎女などが該当します。
 


表の「夫」の欄には登場していませんが、応神帝の跡を継いだ仁徳帝の后妃として宮道宅媛が産んだ二人の娘が嫁いでいますから、この内容を見る限り和邇の血統は明らかに応神の大王位就任と同期していると推測されます。また、登場人物の中で最も重要な役割を果たしているのが仁賢帝と后妃となった春日大郎皇女および春日和邇臣日爪の娘の糠若子(ぬかのわくご)の姉妹たちです。継体帝の後宮と豪族たちについては、かつて取り上げた経緯がありますが、履中(17代)~市辺押磐皇子~顕宗(23代)~仁賢(24代)~武烈(25代)と連なっていた「非息長系」に代わり大王位を手中にした袁本杼命は仁賢と春日大郎皇女の娘である手白香皇女を皇后に迎え、彼の二人の息子もそれぞれ春日山田皇女と橘仲皇女を皇后に迎えています。この三人の女性は、いずれも「皇女」の身分を以て嫁いでいますが、その母親は和邇氏の出身ですから、その本性が「ワニ」であることに変わりはありません。大王となった継体は、更に和爾臣河内の娘を妃としていますし、嫡男の欽明帝の后・石姫は橘仲皇女を母に持っていますから、これも又、ワニの流れの中に在ります。

事代主命の化身神話と、応神の血脈を内側から醸成した一連の和邇氏(出身の娘)の存在を合わせて考えてみる時「ワニ」には新旧の二つの流があって、それぞれ別個に先後して倭入りしたのではないかとも推測されるのですが、赤坂比古神社の祭神はそのような見方を許さないようです。社伝によれば同社が祀る神様は阿田賀田須命(アタカタス)です。つまり三輪氏の系図に見える、

  大物主命--事代主命--天日方奇日方命--飯肩巣見命--建甕尻命--豊御気主命--大御気主命--飯賀田須命--大田田根子命

大田田根子命の父親に位置付けられている人物の「兄弟」(飯賀田須命の兄)が和爾氏の始祖という事になります。つまり崇神帝が河内陶邑から探し出し大三輪の祭祀を任せたのがオオタタネコですから、和爾日子押人命を開化帝の時代に置いたのも、その世代を源流と主張する伝承があったからだと考えることが出来ます。勿論、帝紀等が整理され記紀が編纂される過程の中で、一定の地位を得ていたワニ族の誰かが古い系譜への架上を試みた結果だとする見方も全面的に否定することは難しいかも知れませんが、ワニ氏族の歴史的な位置づけに関しては一つの物証が残されています。それが、神社からさして遠くない所(ほぼ南に約700m)に築造された東大寺山古墳から出土した銘を持つ鉄剣なのです。稲荷山鉄剣とも良く比較される環頭太刀の刀身には、

    中平□□ 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 □□□□          ( 註=中平とは、霊帝の治世の184~189年期間の年号を指します)

の銘が象嵌されていますが、注意書きにもあるように「中平」という年号は二世紀末の後漢で短期間用いられました。東大寺山古墳自体は四世紀の築造と見られているので、誰かから太刀を贈られた和爾氏の祖先の一人が「家宝」として遺したものを、代々の当主が大切に保管(伝世)していたものが、大規模な古墳の造成を期に他の品々と共に先祖の霊を弔う捧げ物の核として埋納されたと考えられます(考古学者によれば、環頭の部分が新たに作り直されたと鑑定されています)。このサイトでは神武帝のヤマト入りを「二世紀の第四四半期」頃と想定し、そこから崇神帝までの間を次の「五世代」と見做しています(括弧でくくられた大王が全て存在しなかったと謂う意味ではなく、同世代の親族が直系子孫として名を連ねている可能性が高いと推測しています。帝室の歴史を出来るだけ長く見せる目的が在ったとは思いますが、要は、確たる記録類が無く、言葉による伝承には限界があったと云うのが正直な楽屋裏ではなかったでしょうか?)

  ⑥崇神--(開化、孝元)--⑤孝霊--(孝安)--④孝昭--③懿徳--②安寧--(綏靖)--①神武

環頭飾り  中平銘の太刀  PR

古代での「一世代」を何年と見積もるかで、神武たちが九州の地を出て倭に入った時期が変化しますが、上で見た「中平鉄剣」を一つの目安として、中国の資料とも突き合わせてみることで凡その年代が浮かび上がります。有名な「魏志」東夷伝には、

  其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年

とありますが、これを「後漢書」の倭国初見記事にある「安帝、永初元年(107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」更には「桓靈間(146~189) 倭國大亂 更相攻伐  歴年無主」に重ねあわせて行くと「107+70~80=西暦180~190年」前後に倭国内は大きな「乱」が起こり「相攻伐」したと見られます。東方の「美国」に野望を抱いた神武たちが、この混乱に背を向けて新天地を目指したと考えても不自然ではないでしょう。一方、古事記が残した崇神の没年干支「戊寅」(西暦318)年を参考に、彼の最期を四世紀初め「300~320」だと仮定し、上に示した「五世代」の時間経過を「一世代25年」で換算してみると、これもほぼ同じ「300,320-(25×5)=西暦175~195年」の数字が導き出されます。神武帝は母親も祖母も和爾の血筋を引く海人でした、彼の母「玉依姫」の名前は天孫族の娘たちにも受け継がれます。日本書紀は、三輪の事代主命が、

  事代主神 化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命

八尋熊鰐に化身して三嶋溝杭耳命の娘の許に通った結果、神武の妻となる姫蹈鞴五十鈴姫命が産まれたと記録しています。この三嶋溝杭という神様こそ神武をヤマトに導いた八咫烏(賀茂建角身命)であり、彼の別名が「天日鷲翔矢命、陶津耳命、少彦名命」でした(娘の名は玉依比売命)。また「玉櫛姫」の別名を「活玉依姫」とも云う伝承があり、賀茂(カモ)の宗家と目されていた事代主命と天孫一族が意外に親密な間柄であったことも判明してきました。少彦名命の父親は天津彦根命(天若日子と同神)」ですから、彼も亦、母親の高姫(下照姫)」を通してワニ(海人)の血が流れていたことになります。物部氏の「先代旧事本紀」は『阿田賀田須命は和迩君たちの祖である』(地祇本紀)と伝え「新撰姓氏録」は、

  和仁古  大国主六世孫、阿太賀田須命の後なり(大和国神別)   宗形朝臣  大神朝臣と同祖、阿田片隅命の後なり(右京神別)

の二つの氏族名を上げて、双方が大国主命の後裔であることを主張していた事が分かります。赤坂比古神社に市杵嶋姫命が祀られているのも、宗像三神が素戔嗚の子神という処から勧請合祀されたのだと思われますが、大三輪氏との「同祖」を言うなら、せめて三世孫の「飯肩巣見命」の兄弟位に「繋ぐ」のが適当ではないかと考えられます。恐らくは、応神帝の即位、そして「神功皇后」の海外遠征に何らかの役割を果たして帝室の覚えが目出度かった宗像氏が、自家の格付けを高める目的で三輪一族との同祖関係を喧伝したのではないかと筆者は妄想しています。「中平」銘の入った鉄剣を後漢から贈られた人物は未だ九州の地に住み地域の「王」として君臨していたのではないか?一族の娘たちを輿入れさせ濃い婚姻関係にあった帝室の当主が東の国に進んで「国」を建てたのを機に、和邇氏も本拠地を倭に移し共栄の途を選択したのではないのか?それが今回の結論です(神武たちの「東征」に欠かせない物が船団でした。海人の協力無しに瀬戸内を進むことなど出来ませんでした)。

 石上神宮春日市河=垂仁紀三十九年の一書は五十瓊敷入彦命が、茅渟の菟砥川上宮に居た時に作った一千口の剣を石上神宮に移し蔵めた時、その神自身が『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』と乞うたと記述しているのですが、同じ垂仁紀は二十五年春二月の出来事として『和珥臣の遠祖、彦国葺』たち五人の大夫(まえつきみ)に大王が詔した文言を記録しています。物部首(もののべおびと)の祖となった市河は米餅搗大使主命の子供ですから、四代前の先祖と一緒に同じ大王に使えることは到底不可能です。「新撰姓氏録」も大鷦鷯(仁徳)天皇の御世に『市川臣を以て神主とした』と伝えていますから、垂仁期の祭祀譚は後世の作文ということになりそうです。垂仁への関連付けの背景には継体帝の母方(振姫)の系譜と密接に関わっているように見えます。
 HOME    
     
 人気のページ   お地蔵さまの正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼