中宮天皇」と野中寺の謎                                                サイトの歩き方」も参照してください。

「この寺は今から1360年ほど前、聖徳太子の命により蘇我馬子(そが・うまこ,551〜626)が造営したものであります。昔は竹内街道の中ほどにあって、法隆寺式の伽藍が甍を並べ、道行く内外の使臣、渡来人の人々にその偉容を誇示していました」と略縁起の冒頭で厩戸太子(うまやどのみこ,574〜622)との関連を強調しているお寺が、大阪・羽曳野市野々上にある。土地の人々からは「中の太子」と俗称されている青龍山野中寺(やちゅうじ)がそれで、寺の「宝」とされる一体の仏像が、一部の歴史家の関心を集めている。それは、毎月十八日に拝観が許されている重要文化財の金銅弥勒菩薩(半跏思惟像)の台座框に、次のような銘文が刻まれているからなのです。

野中寺  とても良いお顔の弥勒さまですね  中之太子の碑

  丙寅年四月大旧八日癸卯開記

  栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時

  請願之奉弥勒御像也

  友等人数一百十八

  是依六道四生人等此教可相之也

久しぶりに「漢文」の授業を思い出された方もあるのでは…、逐語訳をするまでも無く銘文は、

  丙寅年(666)の四月 中宮天皇が病気になったとき

  栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である

と明言している訳ですが、ここで、一つ重大な問題が生じます。それは西暦666年という年に関するものなのですが、読者の皆さんもお気づきになったでしょうか?重祚した斉明天皇(さいめいてんのう、594〜661)は唐と新羅の連合軍に攻められて滅びかけた百済の復興救援を決意、斉明七年(661)正月西国へ向けて勇躍出航したのですが旅の途上病に倒れ、同年七月二十四日朝倉宮で亡くなってしまいます。その前後の出来事をいつものように分りやすく年表にしてみましょう。

 西暦  出 来 事
 645  蘇我入鹿が宮中で暗殺される。蝦夷も自宅に火をはなち自害
 654  孝徳天皇崩御、皇極が飛鳥板蓋宮で重祚して斉明天皇となる
 660  唐・新羅の連合軍が攻め込み百済は滅亡に瀕し、日本に援軍を求める
 661  斉明天皇が七月に崩御。朝倉山にが現れ葬儀の様子を覗く
 663  新羅に派兵するが白村江の戦いで大敗する。半島への足掛りを全て失う 
 668  前年、大津に遷都した天智天皇が正式に即位する
 669  十月十六日、藤原鎌足が亡くなる。前日、大織冠を授かる

難しく考える必要はありません、日本書紀の記述を信じるなら、この野中寺の弥勒さまが誕生した西暦666年には、日本国に「天皇」は存在していなかったのです。正史では斉明が661年に無くなっても皇太子の中大兄皇子は皇位を継ごうとはせず、近江大津宮に遷都した後、やっと668年になって即位した(天智天皇)と伝えているのです。弥勒さまの銘文にある「中宮天皇」を巡っては、これまでも諸説紛々・議論百出の状況で「天智説」「斉明説」そして孝徳天皇の皇后「間人皇后説」などが最もポピュラーなようです。ただ、単純に考えても直ぐ分るように、

  666年には、既に斉明天皇は無くなっており

  間人皇后が即位した事実はなく

  天智が「中宮天皇」と呼ばれた文献資料も残されていない

訳ですから、以上の「三説」には説得力がありません。なにより「大化の改新」を演出した天智・鎌足の意を十二分に汲んで創られたはずの日本書紀が天智の即位年を668年としているのですから「中宮天皇」が天智であるはずが無いのです。(書紀の編者たちが、その気になれば『数年』の誤差など、幾らでも取り繕うことが出来たはずで、そうしなかった或いは、そう出来なかったのには何らかの理由があったと考えるべきでしょう)一番分り易い解釈は、我々が知らされていない、つまり正史には載せられていない『中宮天皇』という人物が天智の前に即位していた、と考えることなのですが……。また「中宮」を「ちゅうぐう」つまり皇后の称号と見るのか、それとも「なかのみや」「なかつみや」と呼んで、未知の天皇の在所を指していると考えるのかによっても、推理の行方は変化することでしょう。(参考・『記紀神話』のページ

栢寺と「かや」と吉備の謎

野中寺の建て方は礎石群の所在によって明確に分ります。伽藍の配置は一番南に山門(中門)があり西側に塔、東側に金堂が並び、正面北側に本堂・講堂という『法隆寺式』であったとされてきたのですが、礎石の調査などから『塔と金堂が向かい合う形式』であった可能性が強く『川原寺式』の流れを汲む配置であったかも知れないとする史家も居るようです。(その根拠となった塔の礎石の画像を次に紹介しておきます)

    どことなく似てますね

真ん中に置かれている石を心礎と呼ぶらしいのですが、その最も東側、つまり画像の右方向の先端部に、なにやら動物の顔のような彫り物を見ることが出来ます。いかにも稚拙な彫刻なので『ひょっとすると悪戯かも知れない』と思い、羽曳野市の教育委員会・文化財課T野氏に尋ねてみると『かつて実施した文化財調査の折、発見されたもので、創建当初から彫られていた可能性もある』(つまり後世に加えられた可能性もある)との事。重ねて『他の寺院の礎石に同様のものがあるのか』と聞くと『そのような報告は眼にしたことが無い』という返事が返ってきました。そして、直感的に思い出した飛鳥の亀石(上右の画像・参照)との類似性については『そのような意見を多数聞いた』とのこと、やはり何かの関連性があるのかも知れません。

ところで野中寺の弥勒さんの銘文には「栢寺」の智識(仏の教えに帰依した者)等という文言があり、一部の史家たちは、この「栢寺」を飛鳥の橘寺や栢森近くの栢原寺などに比定しているのですが、この寺の礎石に見られる飛鳥とのつながり、そして飛鳥と縁の深い斉明天皇との関連で想像を逞しくすると、全く別の地域とお寺の姿が浮かび上がってきます。閑話休題。

日本で最も早く本格的な寺院の建設が行われたのは崇峻天皇元年(588)に造営が始まった飛鳥寺だとされていますが、地方でも七世紀の中頃から有力な豪族たちの手によって様々な氏寺が創建されました。例えば吉備国・岡山県でも国分寺・国分尼寺を除き五十余りの寺院跡が確認されており、有名な氏寺として服部廃寺、吉岡廃寺、賞田廃寺、幡多(はた)廃寺(総社市秦)そして総社市の栢寺廃寺が上げられます。ここで興味深いのは、吉備国で建立された最も初期の寺院に使われた瓦と蘇我氏の本拠地・飛鳥で使われた瓦(奥山久米寺のもの)が大変似通っている点で、渡来系氏族を仲立ちとした吉備と大和・飛鳥の強い繋がりを感じ取ることが出来ます。(『日本書紀』は幡多寺つまり秦寺を聖徳太子が建てたと記述しています)

そして総社市に四天王寺式の伽藍配置で建立された「栢寺」は、当時、加夜国造(地方長官)を務めていた吉備一族の実力者・賀陽氏(かやし)が自らの氏寺として白鳳期に建立したものだと考えられています。つまり「加夜・かや」という国を治めた賀陽氏の寺こそが「栢寺」なのです。そして斉明天皇と一体どのような繋がりがあるのか、という点ですが、ご承知のように彼女は蘇我稲目の娘である堅塩姫欽明天皇の子供で推古天皇、用命天皇の弟である「桜井皇子」の孫にあたる人物なのですが、その母親は桜井皇子の子・吉備姫王(きびつひめおおきみ、下左の画像が墓)なのです。そしてそして、その母親の陵墓の敷地内で見つかった四体の石造物の一つが、なんとも不思議な雰囲気のある猿石なのです。(それらの石造物は見かけ上「猿石」と呼ばれていますが、よくよく見つめると異国の人の様にも見えます)

吉備姫皇墓  不思議な相貌  果たして猿か人か 

お寺の縁起は「聖徳太子」と蘇我馬子のコンビが建てたと云い、石造物や塔の礎石そして弥勒さまの銘文などからは吉備国の国造との関連も浮かび上がってくる野中寺とは一体全体、不思議なお寺です。管理人は未見ですが、東大寺・正倉院に伝わる文書の中に河内国野々上と渡来系氏族の一派・船氏との密接な関係を示したものがあるそうです。また、船氏と言えば日本書紀、欽明天皇十四年(553)七月の行に、

  船氏の祖・王辰爾(おうじんに)が、蘇我稲目の命令により

  淀川を往来する船から通行税を徴収して記録することに功績があった

ので朝廷から「船史」の姓を授けられたという記述があります。蘇我氏と渡来系氏族との繋がり、そして言うまでも無く蘇我氏は天皇家と密接な繋がりのある大豪族で「聖徳太子」の父母はいずれも蘇我氏の血を引く人物でした。厩戸太子が歴史のなかで「聖徳太子」に昇華して行く過程において、全国の渡来系氏族の間で「太子信仰」が大きく波紋を広げた結果が野中寺の「伝承」を生んだとも考えられます。また古代の飛鳥と河内において蘇我氏の持っていた影響力の大きさにも注目すべきだと思います。(船氏は、後、天武十二年に「連」姓となり、延暦十年正月には宮原宿禰に改姓しています)

四世紀に武人が支配していた羽曳野(はびきの)

此のあたりで文章を閉じようとしていたら、新しい「ニュース」が流れてきました。羽曳野市東阪田にあった「塚」から、

  前方後円墳の遺構が現れ

  三角縁神獣鏡および鉄製の刀、筒状の飾り銅器

などが発見されたとのこと。また、この鏡は、静岡県磐田市・新豊院山墳墓群D2号墳から出土した鏡と「同じ鋳型」で造られた古い形式の中国製とみられ、邪馬台国との関連も取りざたされそうです。直径21.5センチの舶載鏡の銘帯には、

  吾作竟自有紀 辟去不羊宜古市 上有東王父西王母 令人長命多孫子

の銘文が見られます。鏡のほかには筒形銅器や鉄剣、ヤリの穂先、刀、斧など八十点あまりの遺物が出土していますが、市の教育委員会では『石川左岸流域に勢力を持った古墳時代前期後半(四世紀中頃から後葉)の首長の墓』で『副葬品の内容から武人的性格が強い被葬者』が想像され、ヤマト政権の軍事を担った豪族である可能性を示唆していました。古墳の詳細は、また別の機会にでも述べるとして、鏡と筒形銅器の画像を紹介しておきます。なお、この画像にあるものはレプリカではなく、出土品そのものです。鏡は、とても繊細な感じがしました。

鏡  筒形銅器

(このサイトのトップページや最新のページへ行きたい時は、左下のリンクをクリックしてください)

 TOP   トップページへもどる  
     
 人気のページ   お地蔵さまの正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   山背大兄王と聖徳太子