歌舞伎役者と「江戸方角分」そして写楽斎                                                 「サイトの歩き方」も参照してください

お江戸の浮世絵師・東洲斎写楽は、阿波徳島藩お抱えの能役者で斎藤十郎兵衛であるとする別人説が根拠にしているものは、@江戸神田の草創名主である斎藤月岑(1804〜1878)が天保十五年(1844)に著した『増補浮世絵類考』という書物に、

  東洲斎写楽  天明寛政年中の人、俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す、阿波侯の能役者なり

という記述があり、この「信頼度の高い」人物の証言であるから情報源が明らかにされていなくても、写楽に関する個人情報そのものに疑わしい点は無いのだという大前提が先ず在り、次にA江戸の歌舞伎役者三世瀬川富三郎(?〜1833頃)が遅くとも文政元年(1818)までに書き上げていたと思われる『諸家人名江戸方角分』八丁堀(地蔵橋)の項に、故人で浮世絵師の「写楽斎」という文言があり、更にはB平成九年「写楽の会」が越谷市に建つ法光寺が収蔵管理していた過去帳の中に、

  文政三年(1820)三月七日、行年五十八、八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十郎兵衛事

など斎藤一族多数の記録があることを「発見」したこと−−が主なものです。この「説」については既に何度もサイトで取り上げ幾つかの疑問点を提示してきたのですが、その主旨は、

  T 文政三年の春に亡くなったはずの写楽斎(斎藤十郎兵衛)に、何故「故人」を示す鍵マークが付けられているのか。
  U 写楽は、その作品の中で一度も「写楽斎」という号を使用していない。別人ではないのか。
  V 写楽が活躍していた寛政六〜七年には、まだ斎藤十郎兵衛は八丁堀に住んではいなかったのではないか。(「過去帳」記述内容から類推)
  W 斎藤十郎兵衛という人物が描いた絵画あるいは下絵が一点も伝わっていないのは何故なのか。そもそも何故、本名が明らかに出来なかったのか。

の諸点にあったのですが、故人を示す「@印」については、後から誰かが書き足した可能性もあるという理由で、画号については「写楽」も「写楽斎」も意味するところは全く同じで、江戸に生きた人々は、些末な事柄に拘泥するような狭い了見は持ち合わせていなかったとの理由で、これまた却下。そして斎藤氏の転居時期に関しては、親兄弟は阿波藩の屋敷内に居たかも知れないが、跡継ぎの十郎兵衛が一家に先駆けて八丁堀に居を構えていたことは十分に考えられるので異論とするに足らないと一蹴される始末です(寛政年間当主は十郎兵衛であったとすると、彼だけが『別居』したとは到底思えませんが…)。また「方角分」の中で写楽斎の本名などが何故明記されなかったのか?という根本的な問いかけについては従来から、

  当時は厳格な身分制度があり、役者絵というものは士分の者が関わるべき性質のものではなかった(雅の文化ではない卑しいものであった)

から、敢えて編集者の富三郎が斎藤十郎兵衛という「武士」の身分を明かさなかったのだという見方が有力なのですが、果たしてそれは事実なのか!調べてみましょう。先ず、故人を表す「印」の問題ですが、千七十七名もの人物の得意とする分野「名前・字・号・住居地」などを調べ上げる訳ですから、既存の刊行物(例えば先行して発刊された『諸家人物誌』1792年、『江戸当時諸家人名録』1815年などの人名録や各分野の有名人を扱う「評判記」のような資料群)を最大限に利用したとしても、一個人が大江戸中に散らばる千余名の情報を収集するためには相当の時間が必要であったと考えるべきですから、当然、企画してから書き上げるまでの間に他界する人もいたことでしょう。従がって、富三郎が取材した時点では未だ存命していた写楽斎が「人名分」成立から二年後の文政三年春に亡くなった事を知った誰かが、自分の手元にあった写本に「故人印」を書き加えた可能性がゼロとは言えません。ただし、その場合、書き込んだ人が誰であれ「写楽斎が斎藤十郎兵衛と同一人である事」を知り得る立場にあったと見なければならないでしょう。大田南畝宅に「竹本某」氏が写本を届けたのが文政元年七月五日ですから、書き足しは二年近くも後という事になります。(ただ、この「方角分」は企画当初には出版を予定されてはいたものの、結果的に公刊されなかった書物ですから写本そのものが多数在るとは考えにくいし、写楽斎が斎藤氏の号だと知っていた人となるともっと人数は限られます)一方、別の問題も存在しています。

故人印・山学  故人印  村田晴海の部分  PR

それが上左右の画像で示した「村田平四郎(晴海)」のケースです。この人は「■」印が付けられているように賀茂真淵門下の国学者でありながら「十八大通」の一人にも数えられた江戸天明寛政から文化期を代表する第一級の有名人なのですが「方角分」が編まれる数年前(文化八年、1811)に物故していたにも関わらず写楽斎に付された故人の印がありません(右の画像では分かりませんが、左の写楽斎の画像をみればカギ印が無いことが明らかです)富三郎が知らなかっただけなのでしょうか?その確率は零%ではないとしても、とても低いと思われます。そして「問題」は別な処にあるのです。今回取り上げた「方角分」という資料は、専門家たちの研究により江戸の歌舞伎役者・三世瀬川富三郎が文化十四年頃までに書き上げ、その後しばらくの間、大田南畝(蜀山人,1749〜1823)の手元に置かれたあと時を経て書肆を経営する蔵書家の達磨屋五一(1817〜1868)の手に渡ったと考えられています。その根拠として常に南畝の奥書が取り上げられているのでご存知の方も多いことでしょう。しかし、原本に最も近いと思われる写本がそのような経過をたどったのだとすると村田春海の「物故情報」を大田南畝が知らなかった、或いは知っていて故人印を書き加えなかったと考えざるを得なくなります。でも、その推理は有り得ません。上中央の画像を見てください。紫のラインでマークしてあるのは国学者で書家としても著名な加藤千蔭(本姓は橘、1735〜1808)で、彼は天明八年に父から引き継いだ町奉行与力の職を辞して学問の途を選び、村田春海と並び称されるほど優れた歌人でもあった人です。更に重要なことに加藤は天明三年(1787)大田南畝が四方赤良の狂歌号で朱楽菅江と共著の『万載狂歌集』を発表した折に跋文を寄せているのです。それほどの間柄であったからこそ南畝は懐かしい千蔭の名の下にわざわざ「芳宜園」の号を書き加えたものと思われます。その蜀山人が、わずか数行左に書かれた千蔭の盟友・村田春海の記事に気づかないことが果たして在り得るのでしょうか!いやいや人は、ついついミスを犯すものです。南畝といえども人の子、単に見過ごしたのかも知れません。でも、次の例は、どうでしょう。

村田春海の記事に関わる大きな疑問符

南畝蜀山人が「四方赤良」の狂歌名をひっさげて江戸の狂歌界に登場し、たちまち天明年間に時代の寵児となったことは良く知られていますが「方角分」西窪の項で狂歌師・戯作者として取り上げられている芝全交(しば・ぜんこう,1750〜1793)は江戸の商家に生まれた人で、蔦屋と極めて懇意な山東京伝(1761〜1816)とも安永初期からの知り合いで、代表作の黄表紙『大悲千禄本』の挿絵は京伝が担当しているほどです(下右の画像参照)。つまり彼は写楽が登場した時既にこの世に存在していなかった「方角分」成立の時点からみて一時代前の有名人だったと云えます。しかし、狂歌四天王の撰に漏れてはいても南畝と一つ違いの彼は、正に狂歌を江戸中に広めた戦友とも謂うべき存在であったはずで、富三郎の使いから「方角分」を手渡された折、必ず、全交の名が記載されているかを確かめたはずです。では、下の左と中央画像に注目してください。

故人印が無い  能役者の部分  「大悲千禄本」の挿絵

結論から先に述べますが、この芝全交という人は水戸藩・大蔵流の狂言師だった山本藤七の養子となり、山本藤十郎を名乗る歴とした能役者でもあったのです。そして、見ての通り例の故人マークも印されていません。「方角分」には、それまでの人名録では収録されていなかった四百名近くの「狂歌師」を網羅しています。そして何より瀬川富三郎の師匠でもあった三世瀬川菊之丞(1751〜1810)を始めとする歌舞伎界の面々も狂歌で洒落っ気を競い合い「連」を結成して大いに盛り上がりました。その大きな流れを主導した人物こそ大田南畝であり宿屋飯盛、鹿都部真顔など四天王たちであり、先達者の芝全交であったのです。狂歌の恩人と言っては大袈裟かも知れませんが、少なくとも流行の礎を築いた彼の安否情報を「方角分」の編者も南畝も、また彼らの周囲に居たはずの誰一人知らなかったとするのは極めて不自然だと言えます。写楽の描く浮世絵は「俗」の文化の極みであり、それを描くこと自体「士分」の者には有り得ない事だったとする解釈にも一理ありそうですが、では「黄表紙」を書く行為は武士に相応しかったのでしょうか?寛政の改革の出版統制が一罰百戒の対象に取り上げたのは誰だったでしょう、洒落本や黄表紙の戯作者と出版元(恋川春町、山東京伝、蔦屋重三郎)だったはずです。この様に疑問を提出すると、すぐさま『芝は既に過去の人だから全てを明らかにしても影響がなかったのだ』といった趣旨の「反論」が返ってきそうです。では、芝に家族は居なかったのでしょうか?水戸藩には芝以外に狂言師は居なかったとでも云うのでしょうか!閑話休題。

写楽や南畝そして京伝たちが生きた江戸という都市は町人人口だけで約五十万人、それ以上の武家人口が暮らしていた正に大都会とよべる規模を備えていました。俗に『大江戸八百八町』などと言いますが、それは十八世紀初頭までの話で天保年間には千七百を超える町がひしめいていました。これを二百五十二名(寛政期)の町名主が自治運営していた訳です。ところで皆さんが「方角分」の担当者だと仮定して、千人を超える掲載予定者をどのようにして選び調査しますか?上でも触れましたが先行して出版された有名人名簿や番付類は確かに存在していました。しかし写楽たち「浮世絵師」を網羅した人名録は未だ誰も発表してはいませんから、少なくとも「貴方」は江戸八丁堀に住む「写楽斎」の個人情報を一体どのような手段で入手することが出来るのでしょう?江戸期の資料から同心たちが住む拝領屋敷は「町地」に準じるものとした「町名」が付けられ、それぞれに支配名主も居たことが分かっていますが、これまでに明らかになっている「写楽斎」=斎藤十郎兵衛一家が住んだとされる宅地は「与力拝領屋敷」の一部に属す純然たる武家地であって、しかも斎藤氏は言うまでも無く「士分」の身です。少し遠回しの言い方になりましたが、要は、町人でしかも一般人よりも更に低く見られていた歌舞伎役者の貴方が、江戸を取り締まる与力同心屋敷の只中に建てられた屋敷の一角に「住んでいた」(と思われる)写楽斎の画号を持つ浮世絵師が、実は阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛その人であるという「情報」を誰から得ることが出来るのだろうかという素朴な思いが消えないのです。富三郎は人気役者とは言え「たかが役者」に過ぎません。歌舞伎界の先輩あるいは贔屓筋の誰かから『上方育ちのお前さんは知らないだろうが、昔、写楽斎という浮世絵師が八丁堀に住んでいたらしいよ』といった類の噂話を耳にする機会はあったかも知れませんが、一介の役者に武家屋敷の住人の「A」という人物が、その写楽斎であることを証明する手段は皆無なのです。現在のように屋敷の玄関に「表札」が上がっているなどと考えてはいけません。町地に自身番が詰め町内を巡回していたように武家地には辻番所が置かれ不審者は即座に訊問されるのです。切絵図を片手に屋敷の前後をうろついていたなら犯罪者の一味と間違えられかねないのです。能役者である斎藤氏が浮世絵を描くことが憚られる、明らかになると「士分」の身が危うくなるから名前の公表が控えられたのであるなら、そもそも役者の富三郎が人名録を作成すること自体が不相応だとは考えられないでしょうか!近世の身分制度を前面に押し出した「解釈」を標榜するのであれば、歌舞伎役者(の手下)が武家町人の個人情報を誰の援助も受けずに入手する方法を明らかにして貰いたいものですね。(下の図は1980年に中村静夫氏が編集した屋敷図の一部分です。▼●印は全て奉行所の役人です)

地蔵橋の周辺図  三世瀬川菊之丞  二世瀬川富三郎

「方角分」作成の実質的な主体(金主も含めて)が誰だったのか大変気になる処ですが、それにも増して村田春海や芝全交(山本藤十郎)などと距離を置きたかった様にも見える大田南畝の姿勢が奇妙に思われてなりません。写楽の謎には、まだ奥がありそうです(第一、南畝の奥書内容との整合性が問われますから…)。この二人に共通した事項が無くはないのですが…、それは次の主題に置いておきましょう。(このページで使用した「方角分」画像は国立国会図書館が収蔵しているものです)

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