疾駆する大王たちが目指したもの          「サイトの歩き方」も参照してください。

大阪府のほぼ中央、堺市美原区に黒姫山古墳があります。平野部に造られた方円墳で全長はおよそ114メートル、築造年代は5世紀の中頃と見られています。昭和22年の発掘調査の結果、同墳の竪穴式石室から24領もの甲冑を含む大量の鉄器が出土して全国的に注目を集めたのですが「5世紀半ば」と言えば大陸の王朝に相次いで使節を送り綬爵を求めた「倭の五王」たちの世代に重なります。

研究者の多くが雄略天皇に比定している「倭王」武が、南宋の順帝にあてて昇明二年(478)に差し出した文章には、

  封國偏遠  作藩于外  自昔祖禰  躬擐甲冑  跋涉山川 不遑寧處 東征毛人五十五國 西服眾夷六十六國 渡平海北九十五國

の文言が見られ、彼の祖先たちが『自ら甲冑をまとい、山川を跋渉』しながら全国各地を平定したとあります。勿論この「文」は自分たちの祖先が如何に苦労して国土を手にすることが出来たのか、を強調文飾したものですから全てが事実であると決めつける訳には行きませんが、古代5世紀を生き抜いた歴代の大王たちが国内外を頻繁に行き来していた可能性が高いと言えそうです。その具体例は、記紀が「神話」に近い物語の主人公として取り上げている倭建命(ヤマトタケル)に見て取れますが、実は彼の父である景行天皇も外遊を好んでいたと見られます。上で見た古墳は雄略帝の一世代前、允恭・反正天皇兄弟たちの治世下で活動していた豪族の首長を葬ったものだと考えられますが、それにしても地域の長(丹比氏:註=継体天皇の子孫である多治比氏とは別の氏族)がこれほどの鉄製武具・武器を所有していたのなら、王や大王クラスの権力者たちは想像を絶するほどの物量を備蓄していたであろうと想像できます。

 黒姫山古墳  出土した鉄製の武具

この時代をさかのぼること二世紀余り、倭国を率いた卑弥呼の邪馬台国について記した大陸の資料は、「鉄」について多くの事は教えてくれませんが、三世紀初頭の「弁辰(弁韓)」は鉄の産地として知られ、半島各地から皆資源を求めて集まったと記録しています。そして農耕具にも武器にもなり得る鉄素材の一部が半製品の形で海を渡り、倭国内で様々な「製品」に加工されたのは間違いないにしても、舶載品の材料だけで需要を賄いきることが可能だったのか、疑問が残ります。武器や武具ばかりではなく、三世紀の半ば頃或いは三世紀の後半に始まったとされる巨大古墳の造営にも鉄製の用具が欠かせなかったはずですから、大和政権は発足当初から潤沢な金属資源を確保していたと見るべきではないのか、そのような見方を淡路島の五斗長垣内遺跡や舟木遺跡の存在が証明していると筆者は考えています(二つの遺跡から見つかった鉄器工房は、いずれも二世紀から三世紀にかけて鉄器類を生産していました。「東征」した神武天皇が一旦河内湖ルートを選んだものの強敵に阻まれ、紀ノ國ルートに変更した理由も、淡路島に武器などの供給源があったと考えれば納得がゆきます)。

天孫族の祖先たちが何時倭国の地を初めて踏んだのか、その正確な年代までは特定できませんが、恐らく西暦一世紀の初めころまでには「スサノオ」に象徴される、製鉄に関わる豊富な知識を備えた一族のリーダーたちが倭国内で活動を始めていたのではないか、そして天孫族たちは海運の技術に長けた先住の海人族の協力を得て、早くから瀬戸内・四国・中国など各地への遠征を行い、幾つもの拠点を拵えて勢力の拡張に努めたものと思われるのです。日本地図を広げてみれば直ぐに分かることですが、淡路島は本州と九州・四国を結ぶ要衝に位置し、特に近畿西部・南部とはまさに指呼の間に在るのです。海を生活の場にしていた人々にとって木材は船造りに不可欠な資源ですが、新来の鉄人たちが提供した斧鉞は正に垂涎の宝物に見えたことでしょう。また鉄の釣針や漁具(銛・ヤス)は漁獲量の飛躍的な増加をもたらしたに違いありません。更に言えば山棲みの人たちにとっても鉄製の用具は、その勢力圏を一気に拡張させるほどの経済効果をもたらしたとも考えられます。大和全体が大きく動き出した原動力は鉄資源にこそ求めるべきだと言えます。

正に権力の源泉とも云うべき金属資源開発の実態を記紀は全く語りませんが、一人の皇子の実績の一つとして次のような記事を日本書紀が記しています。

  垂仁三十五年の秋九月に、五十瓊敷(入)命を河内国に遣わして高石池、茅渟池を作らしむ。
  三十九年の冬十月に、五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮に居ましまして、剣一千口を作る。(中略)石上神宮に蔵む。
  この後に、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主らしむ。

書紀は続けて註文の形で皇子がこの時『楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部』の十箇の品部を賜ったとも記録していることから、彼が実質的には大王の権力を受け継ぐべき存在であったと推測されます。また筆者は、この皇子が崇神天皇の名前(御間城入彦五十瓊殖)の一部を継承している点を重視して、彼は垂仁天皇の皇子ではなく崇神天皇の子供で、かつ垂仁の兄弟だったと考えています。つまり「五十瓊敷入彦命」は景行天皇自身に他ならないと云うことです。その景行帝が即位して初めての大仕事が皇后の選定でした。父や兄と違い、彼は自ら理想の女性を求めて播磨の地を訪れます。その有様を「播磨風土記」は、

  褶墓と号くる所以は、昔、大帯日子命、印南の別嬢(播磨稲日大郎姫)を誂いしたまいし時、
  御佩刀の八咫の剣の上結に八咫の勾玉、下結に麻布都の鏡を掛けて、
  賀毛の郡の山直らが始祖、息長命(一の名は伊志治)を媒として、誂ひ下り行でましし時

と描写していますが『三種の神器』が当時すでに在ったのかはともかく、身支度を整え最高の禮を尽くして姫を迎えようとした意気込みが伝わってきます。この大切な場面で「媒(なかだち)」の役目を引き受けた息長命は、応神天皇や継体天皇を輩出した所謂「息長氏」とは直接関わりの無い豪族で「新撰姓氏録」が『天穂日命の十七世孫、日古曾乃己呂命の後なり』と伝えていますから、天孫族出雲国造の一支流であると分かります。勿論彼も鉄関連の技術を習得した熟練の道案内だったに違いありません。この後、景行天皇は王族の八坂入姫などの妃を相次いで後宮に迎え多くの子女を儲けますが、五十河姫との間に生まれた男子の一人が稲背入彦皇子で、彼が「播磨別の始祖」になったと書紀にあります。この時代の「別=ワケ」は狭義の王を意味していますから、稲背入彦皇子の子孫が播磨国の治世を任された訳です。そして、記紀ではほとんど触れられることの無い彼が、景行天皇の最晩年に行った事業に大きく関わっていたとする伝承が残されています。

   五斗長垣内遺跡   宇土墓古墳  

それが滋賀県野洲に鎮座する兵主神社の「縁起」に記された一文で、景行五十八年天皇の命に従い大和国穴師(今の桜井市)に兵主神社を建て八千矛神を祀った稲背入彦命は、同年の滋賀穴穂宮への遷都に合わせて滋賀(穴太)にも兵主大社を建立し、八千矛神を祀ったという内容を含み、更に後、欽明天皇の時代に播磨別の子孫が東国に向かう途中再び現在地に遷座したとも伝えています。史実がどうであったのか今となっては不明ですが、景行天皇が滋賀に遷都したのは事実であり、その息子の成務天皇も同地にとどまっていたと思われ、八千矛神(オオクニヌシ)をお祀りした土地の名前が「穴師・穴太」で、加えて滋賀の都が「穴穂」宮であったことから、一連の伝承も鉄資源との関係で理解すべきではないかと思います。

若き日の五十瓊敷入彦は、淡路島を望む岬町深日あたりの土地を拠点に「剣」作りに必要な資源を、配下の部下たちと共に「山川」深くまで足を延ばして探し続けていたのかも知れません。彼が伝説上の人物に近い存在に祭り上げられた後、淡輪にある宇土墓を皇子の陵墓だとする「伝承」も大和朝廷によって造られ広められたに違いなさそうです。大王となった後も彼の特徴である機動性は失われず、遠い同族関係にあった稲背入彦命という格好の相棒を得て、生涯にわたり新たな発見を求めて活発に動き続けていたようです。古事記が景行帝と伊那毘能若郎女との間に生まれたと記した「日子人之大兄王(稲背入彦命)」が初めから大王位を狙って帝室に近づいたのかどうか知る由もありませんが、結果的に彼の子息の一人が次の世代を担う大王となりました。

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