聖徳」太子と山背大兄王の謎                                  サイトの歩き方」も参照してください。

『日本で、わが国で最も国民に良く知られている歴史上の人物』と聞いて「聖徳太子」の名前を真っ先に上げる方は、きっと群を抜いて多いに違いありません。では、その人の生年と没年のいずれもが不確かで、その上、太子の長男一家のお墓のあり場所さえ分らない……、そんなことが在り得るでしょうか?お話しの舞台は七世紀の都・奈良斑鳩の里です。(なお、太子の名前についてですが、太子が生前、つまり生きて活躍しておられる時に『聖徳太子』と呼ばれていた訳ではなく、この呼称は、あくまでも後世の諡名に過ぎません。用明天皇穴穂部間人皇女との間に生まれた皇子の名前はあくまでも厩戸豊聡耳皇子[うまやどとよとみみのみこ]であり「聖徳皇子」ではありません。ただ、だからと云って「太子」自体がこの世に存在しなかったかのように面白おかしく謳うだけの学説には賛成しかねます)

法隆寺正面  法隆寺の仁王像   太子親子像?

国の正史である「日本書紀」は「聖徳太子」が、推古二十九年二月五日に亡くなったと記しているにも関わらず、太子の伝記とも言うべき「上宮聖徳法王帝説」(うえのみやしょうとくほうおうていせつ、「日本書紀」よりも古い時期に書かれたと推定されている)は、太子の薨去を翌年二月二十ニ日であると伝えています。また一般的には、その生年が敏達三年(574)とされている一方「聖徳太子伝暦」は敏達元年生まれ、更に「法隆寺旧記」は敏達二年の生まれとするなど、皇太子と云う天皇に最も近い位にあった人にもかかわらず、また多くの業績を残したと云われる人であったにもかかわらず、資料によって生没年いずれもが種々様々といった異様さを呈しています。ただ、この点については、比較的古い言い伝えを、ある程度正確に書き綴ったと思われる「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ、巻第九、帝皇本紀)が、

  二十九年春二月、己丑朔癸巳、夜半、皇太子上宮厩戸豊聰耳尊、薨干斑鳩宮

と伝えているように「書紀」や「伝暦」の言う通り621年に亡くなったのだと思います。『じゃあ、その根拠は一体何なのだ』と正面きって問われると、実のところ、これといった「証拠」も無いのですが、574年と622年の生没年に関しては一つの仮説があります。それは太子の「誕生伝説」にも関わりの在ることで、既に多くの人々が指摘しています。ご存知のように、この皇子に何故「厩戸」などという一風変わった名前が付けられたのか、と言えば、母親の穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)が、

  厩(うまや)の前まで来たとき産気づき、皇子を産み落とした

ため、と公には説明がなされています。そして、この「誕生秘話」が西洋(の宗教)に起源を発するものに影響をうけたものだ、とする解説が各種の資料にも散見されます。管理人は、その「説」の当否を判断する材料を持ち合わせていないので、あやふやな推論は避けますが、暦に興味のある方なら、すぐ気づくように、

  574年と622年は、いずれも「午(うま)」年

にあたります。つまり、かつて「太子」の「伝説化」を意図した者達がおり、彼らが一つの価値観に基づいて「太子」個人の歴史(名前をも含めた全体像と業績のすべて)を特に印象的に強調あるいは誇張して書き残したのだとするなら、納得がゆきます。(蛇足になりますが、仏教公伝の年538年も、また、太子が馬に乗って富士山を駆け上がったとされる598年のいずれもが午年なのです)そして、そのような眼で見れば、皇子の名前が本当に「厩戸」であったのか、疑問が涌き上がるのです。元来が蘇我氏系、つまり両親の母親が蘇我氏の娘である「太子」にだけ何故「厩戸」といった風変わりな名前が付けられたのか、という素朴な疑問です。当時の有力な、つまり天皇位を窺うことの出来る皇子或いは皇女たちの名前を列記してみれば、

  池辺皇子(用明)  額田部皇女(推古)  穴穂部間人皇女  泊瀬部皇子(崇峻) 

  訳語田(おさだ)皇子(敏達)  押坂彦人皇子  竹田皇子  田村皇子(舒明)

のようになり、いずれも幼い頃に育った地名あるいは養育係りを担当した姓氏(里親の姓)から取ったのではないかと思われる極「穏当」な名前の持ち主ばかりで、593年4月、おばの摂政となって大活躍した「太子」のような名を持つ皇族は他に存在していません。また、その「太子」と二人三脚のような形で国政を運営した一族が大豪族の蘇我氏で、その一族を象徴する実力者の名前が馬子(うまこ)であることは、八世紀の初めに国史を編纂した人々、あるいは国を動かせる立場に居た人たちの間で「馬・午=神聖」と云った信仰にも近い思い入れがあったのかも知れないことを窺わせます。なお、古代の人々が態々「動物」や「醜い」物の名前を付けたのは、その名前の持つ強い「霊力」を得るためだとする解釈があるようですが、この項の主人公の一人である蘇我入鹿(?~645)の「入鹿(いるか)」は、後の世、つまり「書紀」の編纂時に、わざと付けられた「穢名」(けがれた名前)だとする説もあります。何故なら、彼は別の所で蘇我鞍作、蘇我林太郎と呼ばれており、彼を養育したと考えられる林臣の子孫が残したと云われる土器も平城宮跡から出土しているからです。

       祭神は入鹿とスサノオ    曽我都比古神社  

聖徳太子

皇極三年(644)十一月、飛鳥の地に一つの動きがありました。並ぶ物のない「権力」を手中にしていた蘇我蝦夷、入鹿の親子が本拠地・甘樫岡の上に豪邸を並べ、

  蝦夷の邸宅を「上の宮門」(うえのみかど)  入鹿の屋敷は「谷の宮門」(はざまのみかど)

と里の人々に呼ばしめました。「書紀」は、これに先立ち、皇極元年には蝦夷が葛城の地に先祖を祀る建物を新設した時、大陸国家の皇帝が行うという八佾舞(やつらのまい)を奉納、さらには全国から沢山の人々を徴発して自分と息子の入鹿のために墳墓を造営、そして蝦夷の墓を「大陵」(おおみささぎ)と呼んだと書き記し、この行いについて「太子」一族の上宮大娘姫王が、

  蘇我臣は国政を我が物にし、非道が眼に余る。全国の民を勝手に使役することなど許されない

と大いに非難されたとも伝えています。話しが前後しますが蘇我親子が自分達の墓を作り終えた翌年、つまり上宮大娘姫王の糾弾があったとされる皇極元年の次の年、十一月十一日、悲劇が起こります。

  入鹿、巨勢徳太臣・土師娑婆連を遣りて山背大兄王等を斑鳩におそはしむ

「太子」の嫡子一族は事前に何らかの警告・情報を得ていたらしく全員が無事、一旦、生駒山に逃れることに成功します。ところが山背王は何を思ったのか安全だと思われる生駒の地を捨て、最も危険な場所である斑鳩寺(法隆寺)に入ってしまいます。物見からの報告を得た入鹿側の軍将等が直ちに寺の周囲に兵を集結したことは言うまでもありません。襲撃から寺へ入るまでの経過時間を「書紀」は「四五日」としていますが、この間、何もしなかったという訳ではなく、従臣の一人であった三輪文屋君は、次のような発言をして王子の奮起を促しています。

  深草屯倉に移向きて、ここより馬に乗りて、東国にいたりて、乳部をもって本として

  師(いくさ)を興して還りて戦わん。その勝たむこと必じ

墓があると伝えられる岡の原   PR

別段の解説も要らないかと思いますが、世情に最も明るく、知識も豊かで主人想いの家臣が極めて当たり前の「戦法」を真摯に提案している様子が伝わってきます。秦氏と縁の深い「深草」まで行けば、安全で十分な旅支度ができる、そして豊富な軍資金も用意することができるだろう。まだ、勝敗の行方を見定めかねている「軍人」たちに王子が檄(げき)を飛ばせば十分な兵も集められる。だから上宮家の乳部の民を中心にして軍隊を編成すれば、入鹿軍と戦っても決して負けることは無い、彼は、そう言い切っているのです。そして、恐らく、誰の眼にも状況は同じように映っていたはずです。ところが、主人・山背大兄王の下した決断は違いました。戦えば勝つだろう、しかし、民を戦で傷つけ損なうことは望まない、という理由から、犠牲的精神を発揮、

  是をもって、吾が一つの身をば、入鹿に賜う

と宣言した後、一族がそろって自害したと「書紀」は伝えているのです。では、別の資料は、この襲撃事件をどのように伝えているのかと言えば、まず「聖徳太子伝補けつ記」は、

  六箇日の後弓削王が斑鳩寺に在るとき、大狛法師の手で殺害された

  山代大兄王子は諸王子を率いて山中から自ら出て斑鳩寺塔内に入った

つまり、王子の子供が一人で逃げ出していた。更には、その王子の子が「法師」に殺されたと伝えているのです。また「上宮聖徳法王帝説」には、

  山代大兄及び其の昆弟など合わせて十五王子等悉く滅ぶなり

とあるので、厩戸皇子の弟妹四人、山背王の弟妹十一人、そして山背王の子供七人の計二十二人と王本人の二十三人が、一時同時に亡くなったのではなさそうです。この「事件」が直接の引き金となり、翌年の乙巳の変へと歴史は激動して行くのですが……、読者の皆さんは、ここまでの成り行きを見て、どのような思いを抱かれたことでしょう。さて、そろそろ、今回のお話も終点が見えてきました。つまり、こう云うことです、

  ① 実力者の蘇我氏は横暴を極め

  ② 「聖徳太子」一族を滅ぼしたばかりか

  ③ みずからの屋敷を「宮門(みかど)」とさえ称するに至った

だから「乙巳の変」が起こり、悪逆非道な蘇我親子は排除されたのだ、と…。そうなのか!!、では、その様に、余りにも悲惨な最期を遂げなければならなかった「太子」長男の一族は、さぞ鄭重に葬られ、そして末代までも手厚く祀られてきたことでしょう……、普通、そのように感じるのが、考えるのが当たり前です。---現実は違います。確かに「太子」と縁の深い斑鳩寺(法隆寺)は現存し、今でも「太子」を祀っています。でも、何かがおかしいですよね。そう、オカシナ点は幾つかあります。「書紀」によれば、

  「太子」そのものが悲劇の主人公であったのではなく、

  斑鳩寺で亡くなったのは山背大兄王一族であり

  その王の子供が殺害されたのも斑鳩寺の中

  しかも殺害したのは仏に仕える大狛という名の法師だった

のですから、法隆寺が祀らねばならないのは、飽く迄も、無念の最期を遂げた、それも仏の、或いは父である「聖徳太子」の教えに従って吾身を捨てた山背王(一族)その人であるべきです。そうは思いませんか!摩訶不思議なことは他にもあります。「太子」の一族を皆殺しにした張本人・入鹿を現在でも祀る神社が彼の屋敷跡だったとされる地域に残され、上の画像でもお分かりのように社はこじんまりとした目立たない造りですが、庭や周辺の手入れも行き届き、今でも近在の人たちに護られている感じを漂わせている一方、虐殺された十数名あるいは二十数名とも言われる人々の、取り分け上宮家の当主であり「聖徳太子」の嫡男であった山背大兄王の墓がどこにあるのか、それすら不明なのです。ちょっと考えてみて下さい。「事件」から、既に千三百六十年以上の年月が経ち、一世代三十年としても四十数代の人々が大昔のご主人様を神としてお祀りし続けてきた勘定になりますが、権力を手中にした新たな実力者たちの厳しい監視の眼がある中で、しかも王家に対して、あるまじき非道を重ねた者を手厚く「祀る」行為が、なんのお咎めも受けることなく延々と続けられるものでしょうか?天皇の眼前で切り付けられ傷ついた入鹿は、驚きを隠せない天皇に対し、

  臣(やつこ)罪を知らず。乞う、垂審察(あきらめたま)へ

と、襲撃を受けたにも関わらず冷静に申し立てを行っています。果たして、入鹿の「最期の一言」は、真実ではなかったのでしょうか?その是非は、読者のみなさんのご判断にお任せいたします。若し、皆さんが奈良・斑鳩の法隆寺をお訪ねになる機会があれば、その折にでも推理を巡らせてください。では、謎を解くための手掛かりになるかも知れない「情報」を一つお知らせして、今回のお話もお開きといたしましょう。

書紀  補闕記  法王帝説   PR

「日本書紀」は、蘇我入鹿を首謀者とする山背大兄王一家襲撃事件を一見、詳細に語っているようですが、肝心な点については全て口をつぐんだままです。それは、

  ① 襲撃の日を11月11日としているが、時刻は記していない

  ② 生駒山を降りて斑鳩寺に入った、とされる日時が記されていない

  ③ 「自ら死を選んだ」とする、日時、即ち命日すら記されていない
     「上宮聖徳法王帝説」は10月14日だとし「書紀」と1カ月も異なる

ことなどです。そして、最後になりますが、信じられない事実をご紹介しておきます。入鹿が上宮王家一族に差し向けた軍の中心人物とされる巨勢徳太(こせ・とこだ,593~658)が、その後、どのような処遇を受けたと思いますか?これだけの大事件、それも反逆罪といっても良いほどの事件の共犯者なのですから、極めて重い罪に問われて当然です。ところが、この人物は何の罪にも問われなかったばかりか孝徳天皇(軽皇子,596~654)の大化五年(650)四月、なんと左大臣に任命されているのです。一方、悲劇の王子・山背の忠臣だった三輪文屋君という人物は「日本書紀」襲撃事件の記事以外には、どの文献にも記録が残されていないのです。そして、更に驚くべきことに「聖徳太子の孫・弓削王」を殺害した殺人犯の狛大法師は、孝徳天皇の、

  更に又、正教(みのり)を崇(かた)ち大きなる猷(のり)を光(てら)し啓かんことを

願う思いから大化元年八月、「十師」(とたりののりのし、仏教界の最高指導層)の筆頭に任じられています。この人事こそ、全てを物語っているようにおもえるのですが、皆さんはどのように判断されるでしょう…。なお「十師」の一人として名前のあがっている福亮を「沙門狛大法師」と同一人物だとする説があるようですが、良く知られているように福亮は法起寺に太子のために弥勒像を作った人物であり、全くの別人と考えるべきです。

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